第2話「施行の壁」
窓の外で、鐘が鳴っていた。
宰相府の執務棟に響く、正午の鐘。秋の終わりの空は高く、乾いた風が中庭の木々を揺らしていた。
エレーヌの手紙から三日後、正式な書状が届いた。宰相府の公印が押された、施行細則策定委員会からの文書。
「聖女制度改革に関する施行細則の策定にあたり、検証報告書作成者としてのご助言を賜りたく、ここにお願い申し上げます」
丁寧な文面だった。だが、宰相府の公文書がわざわざ私に届くということの意味は理解していた。
報告書を書いた責任。
王太子殿下に提出し、公式に受理された文書。その内容に基づいて制度改革の裁可が下りた。裁可が下りた以上、次は施行だ。施行細則とは、改革の理念を具体的な手続きに落とし込む作業。検証基準の厳格化。監査体制の強化。聖女の権限制限。報告書に書いた内容が、実際の制度として動き始める。
その作業に、助言を求められている。
書状を机に置いて、考えた。
要請を受けるかどうか。
受ける理由はある。報告書を書いたのは私だ。内容を最もよく知っているのも私だ。施行細則が報告書の趣旨から逸脱しないよう見届ける責任がある。
だが、問題もある。
私は宰相家の婚約者だ。
宰相府が主導する施行細則の策定に、宰相家の婚約者が関与する。公私混同と見る人間がいるのは確実だった。
報告書作成者としての関与か。宰相家の婚約者としての介入か。
外から見れば、区別は難しい。
カティアに相談した。
「受けるべきよ」
カティアの答えは明快だった。
「報告書を書いた責任があるなら、施行まで見届けるのが筋。婚約者の立場が問題になるなら、立場を明確にすればいい。報告書作成者として助言する。それだけのこと」
「それだけのこと、と周囲が思ってくれるかどうか」
「思わない人間は必ずいる。でも、逃げたら逃げたで批判される。『報告書を書いただけで責任を取らない』と。どちらにしても批判されるなら、やるべきことをやった方がいい」
カティアらしい論理だった。正しかった。
ギルベルトに伝えた。
宰相府の廊下。仕事の合間の短い時間だった。
「施行細則の助言要請を受けようと思います」
ギルベルトの表情が少し変わった。考えている顔だった。
「受けるなら、宰相府内での立場を整理しておく必要がある」
「立場」
「報告書作成者としての助言であって、宰相家の婚約者としての関与ではない。その区別を宰相府の中で明確にしておかないと、後で問題になる」
ギルベルトは政治的な思考が速い人だった。私が考えていたことを、もう一歩先まで見ていた。
「父に話しておく。施行細則策定委員会への助言は、報告書の公式受理に基づく公務としての参加だと。婚約者としてではなく、報告書作成者として」
「お願いします」
ギルベルトが頷いた。だが、少し迷うような間があった。
「ロゼリア」
「はい」
「無理はしないでくれ」
その声は、宰相府の補佐官の声ではなかった。婚約者の声だった。
「茶会の慣例を覚えながら、施行細則の助言もする。両方を同時に進めるのは、負担が大きい」
「大丈夫です」
「大丈夫と言うだろうと思った」
ギルベルトが小さく笑った。諦めたような、だが信頼しているような笑みだった。
「報告書を書いた責任がある。あなたはそう言うだろう。分かっている」
分かっていて、それでも心配してくれる。先回りの癖は完全には消えていない。だが、止めようとはしなかった。それがギルベルトの今の距離だった。
施行細則策定委員会の第一回会合。
宰相府の会議室ではなく、宰相府と神殿の間に設けられた合同庁舎の一室だった。長いテーブルに、宰相府の官吏が四名、神殿監査局の監査官が二名、神殿側の代表が三名。
私は末席に座った。報告書作成者としての同席。正式な委員ではなく、助言者という立場。発言権はあるが、議決権はない。
会合が始まった。
議題は、施行細則の骨格。報告書で提示した三つの柱——検証基準の厳格化、監査体制の強化、聖女の権限制限——を具体的な条文に落とし込む作業だった。
最初の議題は検証基準の厳格化だった。
宰相府の官吏が原案を読み上げた。報告書の内容に沿った案だった。聖女候補の認定には、複数名の司祭と監査官による検証を必須とし、単独の司祭の推挙では認定できない。
神殿側の代表が異議を唱えた。
「検証に監査官が加わるということは、神殿の内部人事に宰相府が介入するということではないか」
予想された反論だった。報告書を書いたとき、この論点が出ることは分かっていた。
「監査官の役割は、手続きの適正さを確認することであり、人事への介入ではありません」
発言した。末席からの発言。周囲の目が集まった。
「報告書の第三章に記載した通り、現行制度では聖女候補の認定過程に外部検証が存在しません。そのため、認定が恣意的に行われる構造的リスクがあります。監査官は認定の適正手続きを確認する立場であり、候補者の選定そのものには関与しません」
報告書の内容を、そのまま述べた。新しいことは言っていない。だが、施行細則の場で改めて述べることには意味があった。
神殿側の代表が沈黙した。反論はなかった。だが、納得した顔でもなかった。
会合は三時間続いた。
三つの柱のうち、検証基準の厳格化についてのみ、骨格案が仮承認された。監査体制の強化と権限制限については、次回以降に持ち越し。
神殿側の抵抗は想定内だった。だが、想定内であることと、楽であることは違う。
会合が終わった後、廊下で神殿側の代表とすれ違った。
目が合った。代表の目には、敵意はなかった。だが、警戒があった。「報告書を書いた人間」への警戒。そして、「宰相家の婚約者」への警戒。
二つの警戒が、一つの視線に重なっていた。
報告書作成者としての関与。宰相家の婚約者としての立場。
カティアは「立場を明確にすればいい」と言った。ギルベルトは宰相府内での立場を整理してくれた。
だが、外から見る人間には、二つの立場は重なって見える。
重なって見えることを、止める方法はない。
子爵家の書斎に戻った。
机の上に、エレーヌからの手紙がもう一通届いていた。
「神殿保守層の一部が、報告書を『素人の文書』と評しているとのことです。施行細則の審議を遅延させる意図があるようです。ご注意ください」
素人の文書。
その言葉が、小さな棘のように刺さった。
報告書は素人が書いたものだ。私は法学者でも神学者でもない。子爵令嬢で、学園の図書室で蔵書を管理していた人間だ。再審の記録を整理し、制度の構造を分析し、事実を並べた。それが報告書だった。
王太子殿下が公式に受理した文書。制度改革の裁可の根拠となった文書。
だが、「素人が書いた」という事実は変わらない。
事実を否定することはできない。事実を歪めることもしない。それが私のやり方だった。
問題は、「素人の文書」という批判が、施行細則の審議を遅延させる道具として使われることだ。報告書の内容ではなく、作成者の属性を攻撃する。論点のすり替え。
ルドヴィクが裁判記録を改竄したとき、私は改竄の事実を報告書に書いた。事実で対抗した。
今回も同じだ。
報告書の内容で答える。作成者の属性ではなく、内容の正当性で。
だが、施行細則の場で私が反論すれば、「宰相家の婚約者が自分の報告書を守ろうとしている」と見る人間がいる。
二重の立場。二つの視線。
この問題は、私一人では解決できない。
宰相府がどう動くか。宰相がどう判断するか。
手紙を机に置いた。
報告書を書いた責任は、まだ続いている。
そして、その責任は、宰相家の婚約者という立場と切り離せなくなりつつあった。
宰相が、施行細則の策定会議にロゼリアの同席を認める。
エレーヌの手紙を読み返しながら、その言葉の意味を考えた。
同席を認めるということは、宰相府として私の関与を公式に支持するということだ。それは、報告書の正当性を改めて示す行為でもある。
だが同時に、「宰相家の婚約者を宰相が会議に入れた」という事実も生まれる。
一つの行動が、二つの意味を持つ。
どちらの意味が強く伝わるかは、次の会合で決まる。
窓の外は暗くなっていた。秋の日暮れは早い。
机の上に、施行細則の骨格案と報告書の写しが並んでいた。
明日、宰相府で確認する。宰相の判断を待つ。
報告書を書いたときの覚悟が、また必要になっていた。




