第3話「壁際の公爵令嬢」
中庭の噴水が、陽光を弾いて光っていた。
学園の中庭昼食会は、月に一度の行事だ。普段は食堂で済ませる昼食を、天気のいい日に中庭のテーブルで取る。建前は「学年を超えた交流の促進」だが、実態は社交の場だった。家門の格に応じてテーブルの位置が決まり、誰がどこに座るかで人間関係が可視化される。
私はもちろん、端のテーブルを選んだ。
子爵令嬢が座る場所としては妥当な位置。中庭の隅、植え込みの陰になる席。ここなら目立たない。パンとスープの簡単な昼食を広げ、さっさと食べて図書室に戻ればいい。
そう思って席に着いたのに、視線がひとつの方向に吸い寄せられた。
中庭の反対側。公爵家や侯爵家の子息令嬢が集まるはずの上位テーブルの付近に、一人だけ壁際に立っている令嬢がいた。
白い髪を高く結い上げた、背筋の伸びた姿。ヴァレンシュタイン公爵家の紋章が胸元に見える。
カティア・ヴァレンシュタイン。
入学式の日、前方の席で見かけた公爵令嬢。ゲームの中では「高慢な公爵令嬢」として断罪される悪役令嬢の一人。
彼女の周囲には、誰もいなかった。
上位テーブルには他の貴族の子息令嬢たちが座り、談笑している。でも、カティアのすぐ隣の席だけが空いていた。彼女に話しかける者もいない。まるで見えない壁があるかのように、人の流れがカティアを避けている。
孤立している。
公爵令嬢が、だ。
ゲームの記憶が浮かんだ。聖女マリアンヌが社交界で「カティアが平民を虐げている」という噂を流す。その噂が広まり、カティアは孤立する。実際にはカティアは平民の学生を庇っていたのだが、証言者が聖女に懐柔されていて、真実は埋もれる——。
ゲームの中の出来事が、目の前で起きている。
カティアは壁に背を預け、まっすぐ前を見ていた。視線は中庭の噴水に向いているが、何かを見ているようには見えなかった。唇がわずかに引き結ばれている。
あの表情は、耐えている顔だ。
関わらない。私はモブだ。公爵令嬢の社交問題に、子爵令嬢が首を突っ込む理由はない。そもそも身分が違う。話しかけること自体が不自然だ。
パンをちぎって口に運んだ。スープを一口飲んだ。
カティアは動かなかった。テーブルにも着かず、食事も取らず、壁際に立ったままだ。
もう一口、スープを飲んだ。
駄目だ。
気がついたら、スープの器を持って立ち上がっていた。
カティアの近くに、小さなテーブルがひとつ空いていた。上位テーブルからは少し離れた、中途半端な位置。子爵令嬢が座っても不自然ではない場所だ。
私はそのテーブルに腰を下ろした。
話しかけるつもりはない。ただ、近くにいるだけだ。この位置に座ったのは、たまたま他の席が埋まっていたからで、それ以上の意味はない。
そう自分に言い聞かせながら、パンの残りを食べた。
風が吹いた。
白いものが、ひらりと宙を舞った。
カティアのハンカチだった。風に煽られて、彼女の手元から離れ、石畳の上に落ちた。
カティアは一瞬、ハンカチを見下ろした。でも拾わなかった。屈んで拾えば、それを見ている周囲の目が集まる。公爵令嬢が人前で物を拾う姿を見せたくないのだろう。
私の足元に近い場所に、ハンカチは落ちていた。
手が伸びた。また、勝手に。
ハンカチを拾い上げ、軽く埃を払った。白い絹地に、淡い青の刺繍。公爵家の紋章ではなく、小さな花の模様だ。
立ち上がり、カティアの前に進み出た。身分差を意識して、浅く、しかし丁寧に一礼した。
「お落としになりました」
ハンカチを両手で差し出す。
カティアが、初めてこちらを見た。
薄い紫の瞳。近くで見ると、肌が白い。表情は動かなかったが、目の奥にかすかな戸惑いが見えた。
「……あなた、誰?」
声は低く、抑制されていた。高飛車に聞こえるかもしれないが、私にはそうは聞こえなかった。純粋な疑問だ。この場で自分に近づく人間が想定外だっただけだろう。
「図書室管理係です」
名前ではなく役割で答えた。子爵令嬢の名前を名乗っても、公爵令嬢にとっては意味がない。
カティアは一瞬、眉をわずかに動かした。それから、ハンカチを受け取った。
「……ありがとう」
小さな声だった。唇がほとんど動かなかった。でも、確かにそう言った。
一礼して、自分のテーブルに戻った。それだけだ。ハンカチを拾って返しただけ。何も特別なことはしていない。
席に戻り、冷めかけたスープの残りを飲んだ。
これ以上、何もしない。何もする必要がない。公爵令嬢が孤立していることと、子爵令嬢の私には何の関係もない。
そう思った矢先だった。
「ちょっと、あんた」
声が、横から飛んできた。
振り向くと、赤みがかった髪を無造作に束ねた令嬢が立っていた。制服の着方が少し乱暴で、上着の袖を肘までまくっている。
ヴィオラ・ネルソン。侯爵令嬢。ゲームの中の「陰謀好きの侯爵令嬢」で、断罪される二人目の悪役令嬢。
彼女の目は、はっきりとした敵意を帯びていた。
「あんた、今カティアに何した」
「ハンカチをお返ししただけですが」
「嘘つきなさいよ。誰がこのタイミングであいつに近づくのよ」
ヴィオラの声は低かったが、鋭かった。周囲のテーブルから何人かの視線がこちらに向いた。
「聖女の犬? あいつに言われて近づいたんでしょう」
意味がわからなかった。
聖女の犬。つまり、マリアンヌの手先だと疑われている。
ゲームの知識がなければ、この言葉の背景は理解できなかっただろう。ヴィオラは聖女の陰謀を独自に調査している。カティアへの噂も聖女の工作だと疑っている。そして今、私がカティアに接触したのを見て、聖女が送り込んだ間者だと判断した。
理屈としては、わからなくはない。
でも、困る。
「恐れ入ります、ヴィオラ様。私は聖女様とは面識がございません」
侯爵令嬢に対して、子爵令嬢として敬語を使った。身分差は明確だ。
「面識がない? じゃあなんでカティアに近づいたの。あの子が孤立してるのは知ってるでしょう。このタイミングで接触する子爵令嬢なんて、裏がないわけないじゃない」
ヴィオラの目には、敵意だけでなく、恐怖が混じっていた。
ゲームでは「陰謀好き」と呼ばれていた令嬢だ。でも目の前のヴィオラは、陰謀を企んでいる顔ではなかった。自分の周囲で何かが起きていることに気づいていて、それが怖くて、だから先に牙を剥いている。
追い詰められた人の顔だ。
「ヴィオラ様、私はただの図書室管理係です。風で飛んだハンカチを拾っただけで、それ以上の意図はございません」
「証拠は」
「……ハンカチを拾ったことに、証拠が必要でしょうか」
ヴィオラが一瞬、言葉に詰まった。
「あたしは、あんたを信用してない」
「ご無理もないかと存じます」
噛みつかれても仕方がない。侯爵令嬢が子爵令嬢を疑うのに、理由はいくらでもつけられる。弁解を重ねるほうが怪しく見える。
ヴィオラは私をしばらく睨んでいたが、やがて鼻を鳴らした。
「……覚えてなさいよ」
それだけ言い残して、踵を返した。赤い髪が風に揺れて、人混みの中に消えていった。
昼食会が終わり、中庭から教室棟に戻る道を歩いた。
ただハンカチを拾っただけなのに。
頭の中で何度もその言葉を繰り返した。拾っただけだ。渡しただけだ。それなのに、聖女の手先を疑われた。
考えてみれば当然かもしれない。カティアの孤立は聖女の工作によるものだ。孤立した公爵令嬢にわざわざ近づく人間がいれば、裏を疑うのが普通だろう。ヴィオラは聖女の陰謀を調べている。警戒するのは理に適っている。
私が悪いのだ。モブのくせに、目の前の人を放っておけなかった。書類を拾い、資料を渡し、今度はハンカチを拾った。そのたびに、誰かの視界に入ってしまう。
図書室の扉を開けた。古い紙の匂いが迎えてくれた。
カウンターに座り、目録帳を開く。今日も棚の確認と記録の作業がある。手を動かしていれば、余計なことを考えずに済む。
ペンを走らせながら、カティアの顔を思い出した。
ハンカチを受け取ったときの、あの小さな「ありがとう」。唇がほとんど動かないほど小さな声。でも、確かに言った。
久しぶりに人に親切にされた人の声だった。
それから、ヴィオラの顔。敵意の奥にあった恐怖。あれは自分を守るために攻撃している人間の目だった。
ゲームの中では、二人とも「悪役令嬢」だ。断罪されて当然の悪者として描かれている。
でも。
目の前にいた二人は、どちらも悪者には見えなかった。
「……関係ない」
声に出して、ペンを握り直した。
関係ない。私はモブだ。悪役令嬢たちの事情に首を突っ込む必要はない。ハンカチを拾ったのは反射だ。もうしない。
目録帳の文字を追った。分類番号、書名、配架場所。規則的な情報の列が、頭の中を整理してくれる。
図書室の扉が、かすかに軋んだ。
顔を上げると、ギルベルト・ヴァイスがいつもの席に向かって歩いていくところだった。こちらをちらりと見て、軽く会釈した。私も会釈を返した。
彼は棚から一冊取り、奥の席に座った。いつも通りだ。
いつも通りの放課後。いつも通りの図書室。
でも、窓の外に目を向けたとき、中庭の壁際に立っていたカティアの姿がちらついた。
そしてヴィオラの声。
「覚えてなさいよ」
覚えている。忘れられるわけがない。
ペンを置いて、窓の外を見た。午後の陽が傾き始めて、図書室の床に長い影が伸びている。
三年間、透明でいるはずだった。
なのに、二ヶ月目にしてもう二人の悪役令嬢の視界に入ってしまった。一人には感謝され、一人には敵視されている。
これ以上は関わらない。今度こそ、関わらない。
そう決めて目録帳に向き直ったとき、窓の端に、中庭の植え込みの影を歩くヴィオラの姿がちらりと見えた。
足取りは速く、どこかに向かっている。調べ物をしている人間の歩き方だった。
私は窓から目を逸らし、ペンを取った。
関係ない。関係ないのだ。
目録の文字が、少しだけにじんで見えた。




