第9話「承認の形」
宰相府の廊下に、秋の終わりの光が差していた。
アレクシス殿下の方針表明から数日が経っていた。「新聖女の認定は急がず、制度改革を先行する」。その言葉は、王都の政界に静かな波紋を広げていた。
改革派はルドヴィクを失ったが、報告書が改革の方向性を引き継いだことで、主張の正当な部分は生き残った。存続派は聖女候補の推挙が棚上げとなり、勢いを失っていた。
だが、一人だけ、引かない人間がいた。
エレーヌからの手紙で知った。
「イルメラ女官長が、貴族院の会合で公式に反論しました。『王太子殿下が一子爵令嬢の報告書を根拠に聖女制度を変えるなど、前代未聞である』と」
手紙を読んで、目を閉じた。
イルメラの主張は分からなくもなかった。聖女制度は神殿の根幹だ。それを一人の子爵令嬢の報告書で変えることに、抵抗を覚える人間がいるのは自然だった。
だが、イルメラの発言には致命的な問題があった。
王太子の判断を、公の場で否定した。
それは、報告書の内容への批判ではない。王権そのものへの挑戦だった。
宰相府が動いたのは、イルメラの発言の翌日だった。
ギルベルトから直接聞いた。宰相府の小部屋で。
「宰相府が公式見解を出した。『王太子殿下の裁可に基づく方針を否定する発言は、王権への挑戦と見なされ得る』と」
公式見解。宰相府の名前で出された文書だ。アレクシス殿下が直接対応するまでもなく、宰相府が先手を打った。
「イルメラは」
「弁明を試みている。だが、発言は貴族院の会合で複数の証人の前で行われた。撤回を求められている」
「撤回すれば」
「発言の撤回だけでは済まない。王権への不敬と見なされた以上、神殿内部の人事権に基づいて処分が検討される」
ギルベルトの声は淡々としていた。事実を伝えている声だった。
「女官長の職を解かれる可能性が高い」
女官長の職を解かれる。
イルメラ。存続派の要。聖女候補の選定に影響力を持つ女官長。「子爵令嬢に聖女の資格はない」と公言した人物。
因果が巡っている。
だが、喜べなかった。
「イルメラの主張にも、一理はあったと思います」
声に出した。
ギルベルトが私を見た。
「聖女制度は神殿の伝統です。それを変えることへの不安は、理解できます。ただ、伝統を守りたいなら、王権を否定すべきではなかった」
「その通りだ。イルメラの判断の誤りだ。制度を守りたいなら、制度の内側で戦うべきだった。王権を否定した時点で、自分の足場を崩した」
カティアが以前言っていたことと同じだった。政治の世界では、正しい主張も、誤った方法で示せば自滅する。ルドヴィクもそうだった。イルメラもそうだった。
目的は理解できる。だが、手段が間違っている。
何度も見てきた構図だった。
イルメラが女官長の職を解かれたのは、それから三日後のことだった。
エレーヌからの手紙で確認した。神殿内部の人事決定。王権への不敬を理由とした解任。イルメラは弁明の機会を与えられたが、発言の事実を覆すことはできなかった。
存続派は柱を失った。改革派は既にルドヴィクを失っている。
二つの派閥の指導者が、どちらも退場した。残ったのは、報告書が示した第三の道だけだった。
制度改革が、本格的に動き始める。
その日の夕方、ギルベルトが子爵家を訪ねてきた。
いつもの応接間。だが、ギルベルトの表情がいつもと違った。疲労はあった。宰相府の補佐官としての仕事が続いている。だが、疲労の下に、何か別のものがあった。
「ロゼリア」
二人きりの応接間。名前で呼ばれた。
「父が、君の仕事を認めた」
心臓が跳ねた。
「宰相閣下が」
「今朝、僕を呼び出して言った。『あの子爵令嬢の報告書は、よく出来ていた』と」
よく出来ていた。
宰相の言葉。あの、感情を見せない人の口から出た評価。
再審のとき、宰相府の廊下で出会った。「ご苦労」の三文字だけだった。あのときは、それが評価なのかどうかも分からなかった。
今回は違う。「よく出来ていた」。明確な評価だった。
「それだけじゃない」
ギルベルトの声が、少し震えた。抑えている声だった。
「父が言った。『婚約を認める』と」
息が止まった。
「ただし、公表は制度改革の裁可が下りた後にする、と。政治的なタイミングを計っている」
婚約を認める。
宰相が。あの宰相が。「政治的合理性が不足している」と何度も言い続けた宰相が。
「政治的合理性は」
「確保された。君の報告書が聖女制度改革の根拠になった。王太子が公式に受理し、制度改革が動き始めた。その報告書を書いた人物が宰相家に入ることは、宰相家にとって政治的な利益になる」
政治的な利益。
その言葉に、複雑な感情が混じった。
認められた。だが、それは政治的な承認だ。人としての承認とは、また別のことだ。
ギルベルトが私の表情を見た。
「形はどうあれ、君が認められたことに変わりはない」
「分かっています」
「父は、感情で動く人間じゃない。だが、感情がないわけでもない。報告書を読んで、君の能力を認めた。それは政治的な計算だけじゃない」
「そう、でしょうか」
「僕は、父の顔を見た。報告書の話をしたとき、父は少しだけ——本当に少しだけ——笑っていた」
宰相が笑った。
想像できなかった。あの無表情の人が。
でも、ギルベルトが言うなら、そうなのだろう。ギルベルトは父の顔を一番近くで見てきた人だ。
「婚約が認められた」
声に出した。自分で聞きたかった。言葉にしないと、実感が湧かなかった。
「ああ。認められた」
ギルベルトの目が、まっすぐ私を見ていた。
穏やかな目だった。再審の法廷の廊下で見た、何も隠していない目。告白の夜に見た、覚悟を決めた目。そして今、安堵と喜びを静かに湛えた目。
「長かったな」
「長かったです」
「ずっと待たせた」
「待っていたのは私だけではありません。あなたも待っていた」
ギルベルトが小さく笑った。
「そうだな。僕も待っていた」
手が伸びてきた。私の手を取った。温かい手だった。何度も繋いだ手。茶房で。宰相府の廊下で。子爵家の庭で。
だが、今日の手は、少し違った。
婚約が認められた後の手だった。
「公表は制度改革の裁可の後だ。まだ少し時間がかかる」
「分かっています」
「でも、もう保留じゃない」
「はい」
保留ではない。
認められた。形は政治的でも、事実として認められた。
手を握り返した。強く。
ギルベルトが帰った後、書斎の椅子に座った。
窓の外は暗くなっていた。秋の夜。もうすぐ冬が来る。
婚約が認められた。
実感が、少しずつ胸に広がっていた。
再審から始まった。ギルベルトの手紙。宰相府の書庫。記録の空白。法廷。冤罪の認定。告白。口づけ。
そして、聖女制度の報告書。王太子への提出。ルドヴィクの罷免。イルメラの解任。制度改革の始動。
全部がつながっている。全部が、この瞬間につながっていた。
だが、まだ終わっていない。
公表は制度改革の裁可の後。それまでに、もう一つ、片付けなければならないことがある。
クラウス。
ギルベルトの兄。宰相家の長男。消極的容認の状態のまま、婚約が認められた。母の帰還後、態度は軟化した。だが、私を認めたわけではない。
宰相が認めた。ギルベルトとの関係は確かだ。だが、クラウスとの関係は未解決のままだ。
婚約が公表される前に、クラウスと向き合うべきだ。
宰相家に入るということは、クラウスの義妹になるということだ。家族になる。消極的容認のまま家族になるのは、嫌だった。
向き合う。直接会って、話す。
何を話すかは、まだ分からない。だが、逃げてはいけないことは分かる。
窓の外の暗い空を見上げた。星は雲に隠れて見えなかった。
認められた。
その事実の重さと温かさを、胸の中で抱きしめた。
でも、まだ終わらない。もう一歩だけ、前に進まなければならない。
クラウスとの決着。それが、婚約公表の前に残された最後の課題だった。




