第8話「記録は嘘をつかない」
「殿下、お時間をいただきありがとうございます」
王城の一室だった。
カティアの仲介で実現した、アレクシス王太子との面会。ヴァレンシュタイン公爵家の名で面会を申請し、公爵家の客間ではなく王城の応接間が指定された。王太子が公式の場として選んだということだ。
私は子爵令嬢としての正装で臨んでいた。再審の法廷に立ったときと同じ、トーレス家の紋章が入った淡い青の衣装。手には、革の書類袋。中に報告書が入っている。
アレクシス殿下は窓際の椅子に座っていた。再審の法廷で一度だけ見た顔。あのときは傍聴席の遥か上、王族席から法廷を見下ろしていた。今は、同じ高さの椅子に、向かい合って座っている。
だが、距離は変わらない。王太子と子爵令嬢。身分の差は、部屋の空気そのものに刻まれていた。
「トーレス嬢。報告書を持参したと聞いている」
アレクシス殿下の声は落ち着いていた。若いが、王族としての威厳がある。感情を表に出さない声。宰相に似ている、と思った。政治家の声だ。
「はい、殿下。聖女制度に関する検証報告書でございます」
書類袋から報告書を取り出し、両手で差し出した。従者が受け取り、殿下の手元に置いた。
報告書は、三つの章で構成していた。
第一章。聖女制度の歴史的経緯。制度の成立から現在までの変遷。検証体制の形骸化の過程。監査局の設立と機能不全の記録。
第二章。マリアンヌ事件の構造的原因。個人の罪と制度の欠陥の切り分け。現行制度がなぜ不正を防げなかったかの分析。
第三章。改革案。検証基準の厳格化。監査体制の強化。聖女の権限制限。そして、ルドヴィクによる裁判記録改竄の事実。
全てが事実に基づいている。感情は入れていない。解釈は最小限にした。記録が示していることを、構造的に整理した。
アレクシス殿下は報告書を手に取り、頁をめくり始めた。
沈黙が長かった。
窓から午後の光が差し込んでいた。王城の応接間は宰相府の小部屋とは違う。天井が高く、壁には王家の紋章が掛かっている。椅子の布地は深い紫。王族の空間だった。
頁をめくる音だけが、部屋に響いていた。
どれほどの時間が経っただろう。五分か、十分か。
アレクシス殿下が報告書から顔を上げた。
「これは、一子爵令嬢の立場を超えた仕事だ」
声は平坦だった。だが、評価が含まれていた。
「恐れ入ります」
「第三章の改竄について確認する。証拠は十分か」
「はい、殿下。裁判記録の該当頁をご覧ください。本文のインクと異なる色のインクで一文が書き加えられています。書き加えられた内容は、マリアンヌ・セレスティアの実際の証言記録には存在しない文言です」
報告書の該当頁を示した。改竄の痕跡。インクの色の違い。マリアンヌの実際の証言との対比。
アレクシス殿下は該当頁を注視した。
「この改竄が、改革派の司祭ルドヴィクによるものだという根拠は」
「直接的な証拠は、報告書の段階では確保できておりません。ただし、改竄の内容が改革派の主張と一致すること、および改竄された記録が改革派の意見書で引用されていることから、関連性は高いと判断しております。確定的な調査は、神殿監査局の権限が必要です」
「監査局か」
アレクシス殿下が報告書を閉じた。
「トーレス嬢。この報告書を、王の名で公式に受理する」
心臓が一拍、止まった。
公式に受理する。それは、報告書が個人的な提言ではなく、王家が正式に取り上げる文書になるということだ。
「改竄の件は、神殿監査局に調査を命じる。報告書の内容は、聖女制度の改革を検討する際の基礎資料として扱う」
「ありがとうございます、殿下」
深く一礼した。膝が少し震えた。緊張が解けたのではない。まだ解けていない。だが、報告書が受理されたという事実が、体の芯に響いた。
「一つ聞いてもいいか」
アレクシス殿下が言った。
「はい、殿下」
「改竄の事実を報告書に含めれば、改革派を敵に回す。それは承知の上か」
「はい」
「なぜ含めた」
「事実を歪めないことが、この報告書の信頼性の根拠だからです。改竄を隠せば、報告書そのものの意味が失われます」
アレクシス殿下が、わずかに目を細めた。
「再審のときも、同じことをしたと聞いている。記録の空白を見つけ、事実を掘り起こした」
「はい」
「記録を守る人間は、王国に必要だ」
その言葉は、評価だった。王太子からの、公式な評価。
面会は終わった。従者に導かれ、応接間を出た。
王城の廊下を歩きながら、息をついた。
手が震えていた。面会の間はずっと抑えていた。子爵令嬢として、王太子の前で動揺を見せるわけにはいかなかった。
だが、終わった。報告書は受理された。
廊下の窓から、王都の街並みが見えた。午後の光が屋根の上に広がっている。
この街のどこかで、ルドヴィクが動いている。そして、報告書が公式に受理されたことが知れれば、改竄の調査が始まる。
ギルベルトに報告したのは、その日の夕方だった。
宰相府の小部屋。いつもの場所。
面会の内容を伝えた。報告書の受理。改竄の調査命令。アレクシス殿下の言葉。
ギルベルトは黙って聞いていた。聞き終えた後、小さく息をついた。
「受理されたか」
「はい」
「王太子が報告書を公式に受理した。これは大きい。聖女制度の議論が、感情論ではなく事実に基づいて進む土台ができた」
「ルドヴィクの改竄は」
「監査局が動く。宰相府からも、改竄の報告は既にしてある。監査局の調査が入れば、証拠は十分だ」
ギルベルトの声は落ち着いていた。だが、目の奥に安堵があった。
「ロゼリア」
名前で呼ばれた。二人きりの部屋。
「君は、やり遂げた」
「まだ終わっていません。報告書は受理されただけで、制度改革はこれからです」
「そうだ。だが、ここまで来た」
ギルベルトが微笑んだ。穏やかな笑みだった。
「図書室で本を並べ替えていた人間が、王太子に報告書を提出した。すごいことだよ」
「一人ではできませんでした。あなたが書庫を開いてくれた。カティアが面会を仲介してくれた。エレーヌが情報をくれた。ヴィオラが背中を押してくれた」
「それでも、書いたのは君だ」
目が合った。
その目は、信頼そのものだった。
数日後、結果が動いた。
エレーヌからの手紙。
「神殿監査局がルドヴィク司祭の裁判記録改竄について正式に調査を開始しました。改竄の証拠は明白であり、ルドヴィク司祭は弁明の機会を与えられましたが、証拠を覆すことはできませんでした。監査局の決定により、ルドヴィク司祭は罷免・拘束されました」
ルドヴィクが罷免された。
手紙を読み終えて、机に置いた。
安堵はあった。だが、喜びはなかった。
ルドヴィクの目的は、制度改革だった。制度に問題があるという主張は正しかった。だが、手段を誤った。記録を改竄した。正しい目的のために、不正な手段を使った。
マリアンヌと同じ構造だ。
目的と手段。何度も見てきた構図だった。
エレーヌの手紙には続きがあった。
「改革派は指導者を失い、一時的に勢力を落としています。ただし、ロゼリアさんの報告書が改革派の主張の正当な部分を制度的に反映しているため、改革の方向性そのものは維持されています。報告書が改革派の主張を否定するのではなく、正当な部分を引き継いでいることが、改革派内部でも評価されているようです」
報告書が、橋になっている。
改革派の主張の正当な部分と、制度の問題点の事実と、改革案。ルドヴィクの不正を告発しながらも、改革の方向性は守った。事実を歪めなかったからこそ、可能になったことだった。
もう一通、手紙が届いていた。ギルベルトからだった。
「アレクシス殿下が、聖女制度の改革案を王の裁可に付す方針を表明した。『新聖女の認定は急がず、制度改革を先行する』と。イルメラの聖女候補推挙は棚上げとなった」
棚上げ。
聖女候補の問題が、実質的に解消された。制度改革が先行するなら、新聖女の認定は後回しになる。推挙は意味を失う。イルメラの罠は、制度改革によって無力化された。
辞退も受諾もしなかった。第三の道を選んだ。報告書を書いた。事実を届けた。
そして、事実が道を開いた。
窓の外を見た。秋の夕暮れ。空が橙色に染まっている。
記録は嘘をつかない。
だから、記録を守る人が必要だ。
ギルベルトが言った言葉。アレクシス殿下が言った言葉。同じことを、違う人が、違う立場から言っている。
私の仕事が、制度を動かした。
その事実の重さが、じわりと胸に広がった。
怖かった。ルドヴィクを告発するのは怖かった。改革派を敵に回すかもしれないと思った。報告書を王太子に提出するのは、子爵令嬢の立場を超えていると思った。
でも、やった。逃げなかった。
ギルベルトの手紙の最後に、一文が添えてあった。
「宰相が動き始めた」
短い一文。だが、その意味は大きかった。
宰相が動く。聖女制度の問題が片付き始めた。政治的な状況が変わった。
婚約の話が、ようやく動くのかもしれない。
手紙を引き出しにしまった。
窓の外の橙色が、少しずつ暗くなっていく。
まだ終わっていない。だが、ここまで来た。
イルメラ女官長がどう動くか。宰相が何を言うか。まだ分からないことは多い。
でも、事実を歪めなかった。記録を守った。
それだけは、誰にも否定できない。




