第7話「事実の重み」
ペンを取った。白紙の便箋に向かう。
報告書の作成が始まった。
宰相府の書庫。ギルベルトが手配してくれた閲覧許可で、聖女制度に関する歴史的資料にアクセスできるようになっていた。再審のときと同じ部屋。同じ机。同じ椅子。だが、扱う書類の規模が違った。
再審では、三ヶ月分の神殿法廷記録の空白を追った。今回は、聖女制度の百年以上にわたる歴史を辿っている。
制度の成立。初代聖女の認定手続き。歴代聖女の権限の変遷。検証体制の形骸化の過程。監査局の設立と機能不全。
一つ一つの資料を読み、要点を書き出し、時系列に並べる。前世で図書館司書をしていた頃と同じ作業だった。情報を整理し、構造を見つけ、全体像を描く。
だが、今回は図書館の蔵書目録ではない。一つの制度の生と死に関わる記録だった。
エレーヌからの情報も届いていた。神殿内部の改革派と存続派の主張の根拠。それぞれが何を守ろうとし、何を変えようとしているのか。エレーヌの情報は偏りがなかった。どちらの派閥にも肩入れせず、事実だけを伝えてくれる。彼女もまた、事実を大切にする人間だった。
カティアからは社交界の視点が届いた。聖女制度が貴族社会にどのような影響を持っているか。領地紛争の裁定における聖女の役割。外交上の神意表明の実態。政治の表と裏を知る公爵令嬢ならではの情報だった。
報告書の骨格が見え始めていた。
制度廃止でも存続でもない。検証基準の厳格化。監査体制の強化。聖女の権限制限。制度を残しつつ、二度とマリアンヌのような不正が起きない構造を作る。
第三の道。
辞退でも受諾でもなく、制度そのものに向き合うという選択。
報告書の作成が五日目に入った日のことだった。
宰相府の書庫で、聖女認定に関する過去の記録を調べていた。歴代聖女の認定手続きの詳細。神託の検証方法。認定に至るまでの審議過程。
古い記録ほど丁寧だった。初代から三代目までの認定手続きは、複数の司祭による検証、神殿大司教の審議、王の裁可と、三段階の確認が行われていた。だが四代目以降、検証の段階が一つ減り、五代目以降は形式的な確認のみになっていた。
形骸化の過程が、記録に残っている。
その記録を辿っている最中に、違和感に気づいた。
マリアンヌの裁判記録の一部を参照しようとしたときだった。裁判記録は宰相府にも写しが保管されている。神殿監査局の管理下にあるが、宰相府が判決後に受領した公式写本だ。
記録の通し番号を確認していた。再審のときに覚えた習慣だ。記録には通し番号が振られており、連続していなければならない。
番号が飛んでいた。
正確には、飛んではいなかった。番号は連続している。だが、ある頁の記述に不自然な修正痕があった。
インクの色が違う。
本文のインクは黒。だが、一箇所だけ、わずかに青みがかっている。肉眼ではほとんど分からない。だが、再審のときに何百頁もの記録を読んだ目には、その微細な差が見えた。
修正痕。
誰かが、裁判記録の一部を書き換えようとしている。
心臓が跳ねた。
再審のときと同じだ。あのときは、記録が消されていた。数ヶ月分の神殿法廷記録が、まるごと欠落していた。今回は消すのではなく、書き換えている。だが、本質は同じだ。
記録を歪めている。
誰が。何のために。
インクの色の違いを、もう一度確認した。間違いない。本文とは異なるインクで、一文が書き加えられている。
書き加えられた内容を読んだ。
マリアンヌの証言記録の一部だった。マリアンヌが法廷で述べた内容に、一文が追加されている。「聖女制度の構造的欠陥は、神殿の歴代指導者が意図的に放置したものである」。
マリアンヌはそんなことを言っていない。判決の日にギルベルトから聞いた内容を覚えている。「聖女制度そのものが問題だ。わたしは制度の犠牲者でもある」。それだけだ。「歴代指導者が意図的に放置した」という言葉は、マリアンヌの証言にはなかった。
改竄だ。
誰かが、マリアンヌの証言に言葉を足している。制度廃止の根拠を強化するために。
ルドヴィクだ。
確信があった。改革派の筆頭。制度廃止のために手段を選ばない人物。ギルベルトが警告していた。「目的のために手段を選ばない」と。
ルドヴィクの目的は正しいのかもしれない。制度に問題がある。それは事実だ。だが、事実を歪めて制度改革を推進するのは、マリアンヌが神託を偽造したのと同じ構造だ。
正しい目的。不正な手段。
手が震えた。怒りではなかった。恐怖でもなかった。再審のときと同じ感覚だった。記録が歪められている。事実が書き換えられようとしている。それに気づいてしまった。
気づいてしまった以上、見なかったことにはできない。
ギルベルトに報告したのは、その日の夕方だった。
宰相府の小部屋。扉を閉めた。
改竄の証拠を見せた。インクの色の違い。書き加えられた一文。マリアンヌの実際の証言との差異。
ギルベルトは黙って記録を確認した。表情は動かなかった。だが、目の奥に怒りがあった。静かな、抑制された怒り。
「間違いない。これは改竄だ」
「ルドヴィクだと思います」
「証拠は」
「直接的な証拠はありません。ですが、改竄の内容が改革派の主張と一致しています。制度廃止の根拠を強化する方向に書き換えられている」
ギルベルトが記録を机に戻した。
「報告書にこれを含めるか」
その問いは、分かっていた。報告書に改竄の事実を含めれば、改革派全体が打撃を受ける。ルドヴィクだけでなく、改革派の主張そのものの信頼性が揺らぐ。制度改革自体が頓挫する可能性がある。
改革派の主張には正当な部分がある。制度に問題があるのは事実だ。その事実まで否定されてしまえば、何も変わらない。
だが。
「含めます」
声に出した。
ギルベルトが私を見た。
「改革派を敵に回すことになる」
「分かっています」
「制度改革そのものが頓挫するかもしれない」
「それでも、事実を隠すことはできません」
声は震えなかった。
「事実を隠せば、マリアンヌと同じになります」
マリアンヌは神託を偽造した。ルドヴィクは記録を改竄しようとしている。私が改竄を隠せば、事実を歪めることに加担することになる。
「報告書の信頼性は、事実を歪めないことが根拠です。改竄を含めないなら、報告書そのものの意味がなくなります」
ギルベルトが目を閉じた。短い沈黙。
目を開けたとき、その目は穏やかだった。
「君は正しい」
「怖いです」
正直に言った。
「改革派を敵に回すのは。制度改革が止まるかもしれないのは。でも、正しくないことをする方がもっと怖い」
ギルベルトが小さく頷いた。
「報告書は、事実だけで構成する。改竄の証拠も、制度の問題点も、改革案も、全て事実に基づいて。政治的な立場ではなく、事実に基づいた報告書であることが、最大の武器だ」
「はい」
「宰相府の書庫で見つけた改竄の証拠は、僕が神殿監査局に報告する手配をする。報告書とは別の経路で、改竄を公式に取り上げる」
「お願いします」
ギルベルトが立ち上がった。
「報告書の完成は近いか」
「あと数日です。構成はほぼ固まっています。改竄の件を追加して、最終的な確認をすれば」
「王太子への面会は、カティアが手配してくれるんだったな」
「はい。報告書が完成次第、面会を申請します」
ギルベルトが扉に手をかけた。
「ロゼリア」
振り返った。
「記録は嘘をつかない。だから、記録を守る人が必要だ」
その言葉が、胸に響いた。
再審のとき、私は記録の空白を見つけた。消された記録を掘り起こした。今回は、歪められた記録を見つけた。書き換えられた一文を発見した。
記録を守る。
それが、私の仕事だ。図書室で本を並べ替えることも、法廷の証拠を整理することも、聖女制度の検証報告書を書くことも、全部つながっている。
事実を見つけて、守って、正しい場所に届ける。
子爵家の書斎に戻ったのは夜だった。
机の上に、報告書の草稿が広がっている。
聖女制度の歴史的経緯。マリアンヌ事件の構造的原因。現行制度の問題点。改革案。そして、ルドヴィクによる裁判記録改竄の事実。
全てが、一つの報告書に収まろうとしている。
ペンを取った。最後の章を書く。改竄の証拠。インクの色の違い。書き加えられた一文。マリアンヌの実際の証言との差異。
事実だけを書く。感情は入れない。解釈も最小限に。記録が示していることを、そのまま報告書に記す。
正しいことをするのは怖い。
ルドヴィクを告発すれば、改革派は指導者を失う。制度改革の方向性が揺らぐかもしれない。だが、報告書の中に改革派の主張の正当な部分も含めてある。制度の問題点は事実だ。改竄を行った人間と、改革の必要性は別の問題だ。
正しくないことをする方が、もっと怖い。
窓の外は暗かった。秋の夜。星は見えない。
報告書はあと少しで完成する。完成すれば、カティアの仲介で王太子に面会を申請する。
事実を、正しい場所に届ける。
それが、私にできる最大のことだ。
ペンが紙の上を走る音だけが、書斎に響いていた。




