第3話「二つの派閥」
「ロゼリア、聞いた? 神殿が割れているわ」
カティアの声だった。
ヴァレンシュタイン公爵家の別邸。応接間の窓から秋の庭園が見える。薔薇の季節は終わり、枯れ葉が石畳の上に散っていた。
マリアンヌの判決から数日が経っていた。王都の空気は、判決の日を境に変わっていた。
「改革派と存続派。真っ二つよ」
カティアが紅茶を注ぎながら言った。自分で注ぐ。いつものことだ。
「改革派は聖女制度の廃止を主張している。制度そのものが腐敗の温床だった、と。存続派は新しい聖女を立てて制度を維持すべきだと反論している。神殿の権威は聖女なくしては成り立たない、と」
ヴィオラが窓際に腕を組んで立っていた。
「どっちも言い分はあるわね。でも、お互い一歩も引かないから、神殿の中で怒鳴り合いになってるって話よ」
「怒鳴り合い」
「比喩じゃなくて、本当に。神殿の大広間で改革派の司祭と存続派の女官長が口論になったらしいわ。エレーヌが教えてくれた」
エレーヌの情報網。神殿内部に詳しい彼女は、判決後も神殿の動きを注視していた。
私は紅茶のカップを手に取った。温かい。だが、話の内容は温かくなかった。
「宰相府はどう見ているんですか」
カティアに聞いた。公爵家は宰相府とも王家とも近い。情報の質が違う。
「宰相府は制度廃止に傾いている。この一年、聖女なしで行政を回してきた実績がある。聖女がいなくても国は動く、と証明してしまった。宰相にとっては、制度を廃止して行政権限を正式に引き取る方が合理的よ」
「神殿は」
「制度存続を譲らない。聖女制度は神殿の権威そのもの。廃止されれば、神殿は儀礼機関に格下げされる。権限も予算も削られる。生き残りをかけている」
「王家は」
「中立。アレクシス殿下は判断を保留しているわ。どちらかに付けば、もう一方を敵に回す。王家が最も避けたいのは、宰相府と神殿の全面対立よ」
三つの勢力。三つの思惑。
そして、その真ん中に、マリアンヌの最後の言葉が残っている。
「ロゼリア」
カティアが私を見た。
「あなたは、この議論にどちらの立場も取らないことが最善よ」
「分かっています。私は政治家ではありませんから」
「そう。あなたは書類を整理する人間。でも、問題はそこではないわ」
カティアの目が鋭くなった。
「あなたの名前は、神殿法廷の記録に証拠整理者として残っている。再審で不正を暴いた実績がある。マリアンヌの罪を立証する証拠を構成したのが誰か、王都の政界は知っている」
「つまり」
「どちらの派閥にとっても、あなたは利用価値のある名前だということ」
利用価値。
その言葉が、胸に落ちた。嫌な重さだった。
「改革派にとっては、聖女制度の不正を暴いた功労者。制度廃止の根拠を作った人物。存続派にとっては、宰相家に近い子爵令嬢。宰相府の意向を探るための接点」
「どちらにも与しなければ——」
「注目は浴びる。どちらにも付かないこと自体が、情報として読まれるわ」
カティアは冷静だった。公爵令嬢としての政治感覚が、友人としての心配よりも先に出ている。だが、その冷静さが今は頼もしかった。
ヴィオラが窓際から声を出した。
「つまり、何もしなくても巻き込まれるってこと?」
「そういうことよ」
「面倒くさいわね」
ヴィオラの率直さに、少しだけ救われた。
それから数日後のことだった。
子爵家の書斎で帳簿の整理をしていると、従者が来客を告げた。
「ロゼリアお嬢様。神殿の司祭様がお見えです。ルドヴィクと名乗っておられます」
神殿の司祭。
面識はない。だが、名前には聞き覚えがあった。カティアが話していた。改革派の筆頭。聖女制度廃止を強く主張している司祭。
なぜ、子爵家に。
応接間に通した。
椅子に座っていたのは、四十代の男性だった。神殿の法衣を端正に着こなし、銀縁の眼鏡の奥に知的な目がある。物腰は穏やかだった。だが、穏やかさの奥に、何かを見定めようとする気配があった。
「トーレス嬢。突然のご訪問をお許しください」
丁寧な言葉遣いだった。神殿司祭から子爵令嬢への、格式に沿った挨拶。
「ルドヴィク様。お初にお目にかかります」
一礼した。神殿司祭への敬語。身分差は微妙だ。神殿司祭は貴族ではないが、神殿の権威に基づく社会的地位がある。子爵令嬢として、丁寧に、だが対等ではない距離を保つ。
「お噂はかねがね。再審で証拠整理を担当された方だと伺っています」
「恐れ入ります」
「単刀直入に申し上げます」
ルドヴィクが背筋を正した。穏やかな物腰が、一瞬で切り替わった。
「聖女制度の廃止に、お力を貸していただけないでしょうか」
来た。
カティアの予想通りだった。
「宰相家と親しいトーレス嬢であれば、宰相府との橋渡しが可能ではないかと。制度の不正を暴いた実績をお持ちの方が声を上げれば、改革の説得力が格段に増します」
弁舌が滑らかだった。理知的で、論理的で、一つ一つの言葉が計算されている。
「ルドヴィク様」
私は背筋を伸ばしたまま答えた。
「お言葉はありがたく存じます。ですが、私は再審において事実を整理しただけです。政治的な立場を表明したことはございません」
「事実の整理が、結果として政治的な影響をもたらしたのでは」
「結果と意図は別のものです」
ルドヴィクの目が、わずかに細くなった。品定めをしている目だった。宰相に初めて会ったときの、あの計測する視線に似ていた。だが、宰相の目が無感情だったのに対し、ルドヴィクの目には情熱があった。それが、かえって怖かった。
「制度に問題があることは、トーレス嬢もご存じのはず。検証体制の形骸化、監査局の機能不全、聖女への権限集中。それらを改めるには、制度そのものを見直す必要があります」
「その議論には賛同いたします。ですが、私がそれに関わるべきかどうかは、別の問題です」
「なぜ」
「私は子爵令嬢です。政治的な提言をする立場にはございません」
ルドヴィクは黙った。短い沈黙の後、穏やかな笑みを浮かべた。だが、その笑みの奥に、諦めはなかった。
「承知しました。今日のところは、ご挨拶まで」
立ち上がり、丁寧に一礼して、ルドヴィクは子爵家を去った。
その日の夕方、ギルベルトに手紙を書いた。ルドヴィクの訪問を報告するために。
返事は翌朝届いた。
「ルドヴィクが動いているのは把握している。注意してほしい。彼は理知的だが、目的のために手段を選ばない人物だと、宰相府では見られている」
手紙を読み終えて、机に置いた。
手段を選ばない。
ルドヴィクの目を思い出した。情熱のある目。制度を変えたいという意志。その意志は、おそらく本物だ。だが、本物の意志が正しい手段を伴うとは限らない。
再審のときに学んだことだ。記録を隠すことも、記録を歪めることも、誰かの「正しい意志」から始まる。
翌日、エレーヌから手紙が届いた。
「ルドヴィクがロゼリアさんを訪ねたことが、社交界で噂になっています。改革派の司祭が子爵令嬢の屋敷を訪問した、と。一部では、ロゼリアさんが改革派寄りだという憶測が広まっています」
読み終えて、目を閉じた。
カティアの警告が、そのまま現実になっていた。ルドヴィクの訪問を受けただけで、改革派寄りだと見なされる。断ったことは誰も知らない。訪問があったという事実だけが、噂として広がる。
さらに三日後。
カティアから、短い手紙が届いた。
「存続派の女官長イルメラが、社交の場であなたについて発言した。『子爵令嬢が聖女制度に口を出すなど分不相応』と。名指しではないが、誰のことかは明白よ」
分不相応。
茶会で翡翠の令嬢に言われた言葉を思い出した。「図書室の管理係から、公爵家の茶会へ。ずいぶんとご出世なさいましたのね」。あのときと同じ種類の棘だった。身分で人を測る視線。
だが、今回は茶会の嫌味とは規模が違う。神殿の女官長が公の場で発言している。それは個人的な侮辱ではなく、政治的な牽制だった。
ギルベルトが子爵家を訪ねてきたのは、その日の夕方だった。
「聞いた。イルメラの発言」
応接間で、ギルベルトは眉間に皺を寄せていた。
「ロゼリアが政治に巻き込まれている」
「巻き込まれている、というよりも」
私は紅茶のカップを両手で包んだ。
「名前が出ているだけで、私自身は何もしていません。ルドヴィクの申し出も断りました」
「分かっている。だが、何もしていないことと、巻き込まれていないことは違う」
ギルベルトの声には、警戒があった。宰相家の次男として、政治の力学を肌で知っている人の声だった。
「気をつけてほしい。改革派も存続派も、今は使える駒を探している。君の名前は、どちらにとっても都合がいい」
駒。
その言葉が刺さった。
学園にいた頃は、誰の駒にもならなかった。モブだったから。目立たない存在だったから。
今は違う。名前がある。功績がある。だからこそ、駒にされる。
「自分の名前で立つと決めたのに、その名前が勝手に使われるのは」
言いかけて、止めた。
ギルベルトが私を見ていた。
「もどかしい、か」
「はい」
「君は何も間違っていない」
ギルベルトの声が、少しだけ柔らかくなった。
「政治に巻き込まれているのは、君のせいじゃない。だが、巻き込まれている以上、目を逸らすこともできない」
分かっていた。分かっているから、もどかしい。
改革派が来た。存続派が牽制した。どちらにも与していないのに、どちらからも注目されている。
また巻き込まれている。
でも、今回は自分から動いたわけではない。マリアンヌの判決が引き金を引き、聖女制度の議論が火をつけ、私の名前がそこに巻き込まれた。
自分の意志とは関係なく、渦の中にいる。
ギルベルトが帰った後、書斎の机に向かった。
カティアの手紙。エレーヌの手紙。ギルベルトの言葉。
全部が同じことを言っている。注目されている。利用されかけている。立場が不安定になっている。
窓の外は暗くなっていた。秋の夜。星は雲に隠れて見えなかった。
私は政治家ではない。書類を整理するだけの人間だ。
でも、それが通用しない場所に、いつの間にか立っている。
ルドヴィクがマリアンヌ裁判の記録を政治利用しようとしている動きがある、とギルベルトが最後に言い残していた。まだ詳細は分からない。だが、記録が政治の道具にされるなら、それは私の仕事に関わる。
記録は、事実を残すためにある。政治の道具にするためではない。
机の上の便箋に、ペンを走らせた。エレーヌに手紙を書く。神殿内部で、ルドヴィクがどう動いているか。もう少し詳しく知りたかった。
渦の中にいる。
でも、渦に流されるかどうかは、自分で決める。




