第2話「判決の日」
朝の身支度を終えた手が、まだ落ち着かなかった。
マリアンヌ・セレスティアの判決日。
トーレス子爵家の書斎で、私はエレーヌからの手紙を机の上に広げていた。十日前に届いた、判決日の通知。その日が、今日だった。
傍聴席には行かない。
神殿法廷の傍聴は、関係者と一定以上の爵位を持つ者に限られる。再審のときは証拠整理者として出廷したが、今回のマリアンヌの裁判に私の名前はない。子爵令嬢が傍聴を申請すること自体は可能だが、社交界での注目を考えれば、必要以上に目立つべきではなかった。
ギルベルトは宰相府の代表として法廷に出席している。今朝、短い手紙が届いた。「行ってくる」。それだけだった。
待つしかない。
書斎の窓から秋の陽が差していた。穏やかな光だった。だが、その光の下で、王都のどこかで一人の女の運命が決まろうとしている。
マリアンヌ・セレスティア。元聖女。神託を偽造し、権限を濫用し、脅迫を教唆した女。エレーヌの弟を人質に取り、カティアとヴィオラに冤罪を着せ、ギルベルトの母を修道院に送り込んだ。
私と直接の面識はない。学園にいた三年間、私は図書室の管理係で、マリアンヌは聖女だった。同じ空間にいたはずなのに、交わることはなかった。
それでいい。交わる必要はなかった。
だが、マリアンヌが残したものは、今も私の周りにある。
午後になって、王都の鐘が鳴った。
いつもの時報とは違う、低く長い鐘だった。神殿法廷の判決を告げる鐘。再審のときにも聞いた音だ。あのときは法廷の中にいた。今日は、書斎の窓越しに聞いている。
鐘の音が消えてから、しばらく何も起きなかった。
静かな午後だった。書斎の時計の針が動く音だけが聞こえる。
日が傾き始めた頃、玄関の扉を叩く音がした。
従者が取り次いだ。ギルベルトだった。
応接間に通した。彼は宰相府の正装のまま、椅子に腰を下ろした。顔色は悪くなかったが、疲労が見えた。法廷に長時間いたのだろう。
「判決が出た」
ギルベルトが言った。声は落ち着いていた。
「全罪状で有罪。神託偽造、権限濫用、脅迫教唆。修道院への終身送致」
終身送致。
マリアンヌは、二度と王都には戻れない。
「そう、ですか」
声が出た。だが、感情がすぐには追いつかなかった。
安堵なのか。満足なのか。それとも、もっと別の何かなのか。
「判決そのものは、予想通りだった。証拠は十分だったし、裁判長の心証も明らかだった」
ギルベルトが紅茶に口をつけた。私が淹れたものだ。
「だが、最後にマリアンヌが発言した」
「発言?」
「判決の受諾を表明した後に、一言だけ。『聖女制度そのものが問題だ。わたしは制度の犠牲者でもある』と」
制度の犠牲者。
その言葉を、頭の中で反復した。
マリアンヌの行為は許されない。神託を偽造し、無実の人々を陥れた。それは個人の罪だ。制度がどうであれ、偽造を選んだのはマリアンヌ自身だ。
だが。
制度に問題がなかったと、言い切れるだろうか。
聖女の権限は大きすぎた。神託の検証体制は形骸化していた。監査局は機能しておらず、一人の聖女が好きなように権力を振るえる構造があった。マリアンヌの不正を可能にしたのは、マリアンヌの悪意だけではない。制度の欠陥もまた、原因の一つだった。
「制度の問題と、個人の罪は別だ」
口に出した。自分に言い聞かせるように。
ギルベルトが頷いた。
「その通りだ。だが、社交界ではそう冷静に受け止められていない」
「どういうことですか」
「マリアンヌの発言が、神殿内部の議論に火をつけた。制度を廃止すべきだという声と、新しい聖女を立てて制度を維持すべきだという声。元々あった対立が、判決をきっかけに一気に表面化した」
聖女制度の存廃。
それは、聖女空位の問題よりもさらに大きな争点だった。空位は「次の聖女が見つかれば解決する」問題だった。だが存廃となれば、制度そのものを残すか消すかという、王国の根幹に関わる議論になる。
「宰相府は」
「制度廃止に傾いている。暫定行政の負担が大きすぎる。聖女がいなくても行政は回る、という実績がこの一年で積み上がってしまった」
「神殿は」
「存続を主張している。聖女制度は神殿の権威の柱だ。それを失えば、神殿の政治的影響力は大幅に低下する」
「王家は」
「中立。アレクシス殿下は判断を保留している」
三つの勢力が、三つの方向を向いている。宰相府は廃止。神殿は存続。王家は中立。
その真ん中で、マリアンヌの最後の言葉が燃えている。
ギルベルトが紅茶のカップを置いた。
「ロゼリア」
名前で呼ばれた。二人きりの応接間。公の場ではない。
「正直に言う。この問題は、宰相府にとって最重要案件になる」
分かっていた。次に来る言葉も。
「婚約の話は、さらに後回しになるかもしれない」
やはり、そうか。
胸の中で、小さな棘が刺さった。分かっていたのに、聞くと痛い。
「父は今、聖女制度の問題に全ての注意を向けている。僕も宰相府の補佐官として、この問題に関わらざるを得ない。婚約のことを持ち出せる状況じゃない」
「分かっています」
声は平静だった。平静に、した。
「ギルベルト様のお仕事を妨げるつもりはありません」
敬語に戻った。無意識だった。いや、意識的だったかもしれない。二人きりでも、こういう話のときは距離が必要だった。
ギルベルトが一瞬、眉を動かした。敬語に戻ったことに気づいたのだろう。だが、何も言わなかった。
「すまない」
「謝らないでください。宰相閣下の判断は正しいです。王国の安定が最優先です」
カティアが言っていたことと、同じ言葉が口から出た。正しい。正しいけれど、正しさだけでは胸の痛みは消えない。
ギルベルトが立ち上がった。宰相府に戻らなければならないのだろう。
「一つだけ」
玄関に向かう廊下で、ギルベルトが足を止めた。
「僕たちのことは、必ず形にする。時間がかかっても」
振り返った横顔は、真剣だった。穏やかな微笑みはなかった。約束をしている顔だった。
「信じています」
それだけ答えた。
ギルベルトが宰相府の馬車に乗って去っていくのを、玄関の扉から見送った。
書斎に戻った。
机の上に、エレーヌの手紙がまだ広げてあった。十日前の手紙。判決日を告げた手紙。
判決は出た。マリアンヌは修道院に送られる。
終わったはずだ。
あの学園で始まった全てのこと。聖女の不正。冤罪。脅迫。再審。法廷。それらの発端であったマリアンヌが、ようやく裁かれた。
終わったはずなのに、終わっていない。
マリアンヌの最後の言葉が、新しい問題の扉を開いてしまった。聖女制度の存廃。宰相府と神殿の対立。王家の中立。
一つの問題が終われば、次の問題が始まる。
前の問題は個人の罪だった。今度の問題は制度だ。規模が違う。私一人が書類を整理して解決できるような話ではない。
でも。
マリアンヌの言葉は、完全に間違っていたわけではない。制度に問題があった。それは事実だ。事実であるならば、向き合うべきだ。
椅子に座り、窓の外を見た。夕暮れの空。橙色が広がり始めている。
ギルベルトは「時間がかかっても」と言った。信じている。彼の言葉を疑う理由はない。
だが、待つだけは嫌だ。
聖女制度の問題が片付かなければ、宰相は動かない。宰相が動かなければ、婚約は成立しない。なら、聖女制度の問題が片付くことが、婚約への道でもある。
まだ、何をすべきか分からない。分からないが、目を逸らしてはいけないことは分かる。
エレーヌの手紙を引き出しにしまった。代わりに、新しい便箋を出した。
カティアに手紙を書く。聖女制度の存廃議論について、公爵家の立場からどう見えているか。知りたいことがある。
ペンを取った。
マリアンヌは去った。だが、マリアンヌが残したものは、まだここにある。
それを片付けるのが誰の仕事かは分からない。でも、事実を集めて整理することなら、私にもできる。
それだけは、変わらない。




