第10話「隣に立つ人」
家族の再会に、私がいるべきではない。
ギルベルトの母が修道院から王都に帰還する日。その知らせは、ギルベルトからの手紙で届いた。短い文面だった。「明日、母が戻ります」。それだけ。だが、その一行に込められた重さは、私には分かった。
トーレス子爵家の書斎で、手紙を読み返した。
行くべきか。行かないべきか。
八年間、修道院に送られていた母が帰ってくる。宰相が妻を迎える。クラウスが母と再会する。ギルベルトが母を抱きしめる。それは、ヴァイス家の家族の時間だ。
子爵令嬢の私が、その場にいるべきではない。
手紙を机に置いた。今日は、ここで待つ。
午前の光が、書斎の窓から差し込んでいた。
何もすることがなかった。再審は終わった。書類の整理も、証拠の構成も、法廷への出廷も、すべて終わった。机の上には、きれいに片付けられた書類棚と、空になった鞄がある。
静かだった。
学園を卒業してから、ずっと何かに追われていた。宰相府の書庫、神殿記録庫、茶会、夜会、法廷。やるべきことがあり、手を動かす理由があった。
今は、何もない。
ギルベルトの母が帰還する。それは喜ばしいことだ。八年間の冤罪が晴れ、家族が元に戻る。私が手伝った仕事の、最も大きな結果だ。
でも、その結果を見届ける場所に、私はいない。
書斎の椅子に座り、窓の外を見ていた。王都の街並み。午前の光に照らされた石畳と屋根。どこかで馬車の音がしている。
宰相府では今頃、どんな顔をしているだろう。
宰相は何を言うだろう。八年間、妻を守れなかった男は、妻にどんな言葉をかけるのだろう。
クラウスはどうだろう。母がいなくなったとき、十六歳だった。母の事件の際、父と共に政治的に介入しない判断をした。その判断を、母の前で何と言うのだろう。
ギルベルトは。
十三歳で母を奪われた少年は、八年後の今日、何を思うのだろう。
考えても仕方がなかった。私はここにいる。ここにいることを、自分で選んだ。
午後になった。
書斎の窓から差す光の角度が変わった。橙色が混じり始めている。
ギルベルトの母は、もう宰相府に着いただろうか。修道院から王都までは馬車で半日ほどかかる。朝に出発したなら、午後には着く。
書斎の扉を叩く音がした。
従者だった。
「ロゼリアお嬢様。お客様です」
「お客様?」
「ギルベルト・ヴァイス様です」
心臓が跳ねた。
立ち上がった。書斎を出て、階段を降り、玄関に向かった。
玄関の扉を開けた。
ギルベルトが立っていた。
宰相府の正装ではなかった。もう少し柔らかい、日常の装い。だが、髪は整えられ、表情は穏やかだった。法廷の廊下で見た赤い目は、もう元に戻っていた。
「ギルベルト様。どうして」
「母が、君に会いたいと」
一瞬、言葉を失った。
「父も」
ギルベルトの声は静かだった。だが、その静かさの中に、何かが満ちていた。
「来てくれますか」
断る理由がなかった。断る理由を探す必要もなかった。
「少しだけ、お待ちください」
書斎に戻り、正装に着替えた。淡い青の衣装。母が仕立て直してくれた、いつもの。鏡の前で襟元を整え、髪を整え、深呼吸した。
玄関に戻った。
ギルベルトが待っていた。宰相府の馬車が門の前に停まっている。
馬車に乗った。二人で。
宰相府までの道のりは短かった。
馬車の中で、ギルベルトが話した。
「母は、思ったより元気でした」
「よかった」
「修道院での生活は厳しかったようですが、体は悪くないそうです。顔色は少し悪かったけれど」
ギルベルトの声は穏やかだった。いつもの、読みにくい微笑み。だが、今日のそれは、本当の穏やかさだった。隠しているものがない穏やかさ。
「父が、母に最初に言った言葉は『すまなかった』でした」
「……そうですか」
「一言だけ。それだけ言って、黙りました。母は何も返さずに、父の顔をずっと見ていました」
八年分の沈黙。その重さは、私には想像するしかできない。
「兄は」
ギルベルトの声が、少しだけ揺れた。
「母の前に立って、何も言えませんでした」
クラウス。宰相家の長男。私を部外者と呼び、弟を惑わせるなと言った人。
「母が兄の頬に手を当てて、『大きくなったわね』と言いました」
ギルベルトが窓の外を見た。
「兄が、泣きました」
声が、かすかに震えていた。
「母に言ったんです。『会わせたい人がいる』と」
ギルベルトが私を見た。
「母が聞きました。『どんな方?』と。僕は答えました。『僕にとって最も大切な人です』」
馬車の中が、静かになった。
最も大切な人。
ギルベルトが母に、そう言った。
「兄が口を挟みかけました。『子爵令嬢だ。家門の格が』と」
クラウスの言葉。予想通りだった。だが。
「母が兄を見て、言いました。『あなたは弟を信じなかったの?』」
クラウスは答えられなかっただろう。
「兄は黙りました。納得したわけではないと思います。でも、母の前では——八年ぶりに帰ってきた母の前では、それ以上は言えなかった」
ギルベルトの声は静かだった。兄を責めるでも、嘲るでもなかった。ただ、事実として伝えている。
「いずれ兄とは、改めて話す必要があります。母がいない場所で。でも、今日はまず、母に君を会わせたかった」
「父が、短く言いました。『会おう』と」
宰相府の正門を潜った。
廊下を歩いた。歴代宰相の肖像画が並ぶ、見慣れた廊下。何度も歩いた道。だが今日は、その廊下の先に、会ったことのない人が待っている。
ギルベルトの母。
応接間の扉が開いた。
部屋の中に、三人がいた。
宰相が窓際に立っていた。いつもの感情を読ませない顔。だが、目の奥に、何かが違うものがあった。ほんのわずかに、目尻が緩んでいる。
クラウスが壁際にいた。目が赤かった。先ほど泣いたのだろう。だが、私を見ても冷たい視線は向けなかった。複雑な顔をしていた。受け入れたわけではない。だが、母の帰還の日に、これ以上の波風を立てることを選ばなかった。それがクラウスなりの、今日の答えなのだろう。
そして、部屋の中央に。
椅子に座った女性がいた。
灰色がかった金髪を簡素にまとめた、細身の女性。年齢は四十代半ばだろうか。頬はやや痩せていたが、目には力があった。穏やかで、深く、静かな目。ギルベルトの目に似ていた。
ギルベルトの母が、私を見た。
立ち上がった。細い体で、しっかりと。
私は深く一礼した。
「トーレス子爵家のロゼリアでございます。本日はお目にかかれて光栄でございます」
最敬語。宰相家の夫人への礼。
ギルベルトの母が、私の前に歩いてきた。そして、私の手を取った。
細い手だった。だが、温かかった。
「息子を助けてくれた方ですね」
声は穏やかだった。ギルベルトの穏やかさの原型が、この声にあった。
「ありがとうございます」
返す言葉を探した。何を言えばいいか。八年間の冤罪を覆す手伝いをした。書類を整理し、証拠を並べ、法廷に立った。それは事実だ。だが、この人の前で語るべき言葉は、それではない気がした。
「お帰りなさいませ」
それだけ言った。
ギルベルトの母が、微笑んだ。その笑みは、社交の笑みではなかった。八年間、この家から離れていた人が、戻ってきたときの笑みだった。
宰相は無言だった。だが、かすかに頷いた。頷きは小さかったが、見えた。
クラウスはまだ複雑な顔をしていた。だが、何も言わなかった。母の言葉と、母の笑顔の前で、反対を口にすることはできなかった。
宰相府を出た。
夕暮れだった。
廊下を歩いていた。ギルベルトが隣にいた。半歩前ではなく、隣に。
正門に向かう廊下の途中で、ギルベルトが立ち止まった。
窓から、夕暮れの光が差し込んでいた。橙色。学園の図書室から見た夕暮れと同じ色。卒業の夜、手を握られたときと同じ色。
「ロゼリア」
名前だけだった。
敬称がなかった。トーレス嬢でも、君でもなく。初めて、名前だけで呼ばれた。
振り返った。
ギルベルトが、私を見ていた。穏やかな微笑みはなかった。読みにくい表情もなかった。法廷の廊下で涙を見せたときと同じ、何も隠していない顔だった。
「僕は君が好きだ」
声が、廊下に響いた。
「子爵家も宰相家も関係ない。君に隣にいてほしい」
心臓が止まったかと思った。
止まっていなかった。むしろ、うるさいくらいに鳴っていた。
学園の図書室で、書類を拾ったときから。目録の話で盛り上がったときから。脅迫メモを共有したときから。母の冤罪を打ち明けられたときから。卒業の夜に手を握られたときから。
ずっと。
ずっと、この言葉を待っていた。
手を握り返した。
卒業の夜と同じ。でも、今度は言葉がある。
「私も——あなたの隣がいいです」
声が震えた。震えていた。でも、聞こえたはずだ。
ギルベルトの目が揺れた。安堵と喜びと、それから、もっと深い何かが混じった揺れだった。
廊下の窓から、橙色の光が差し込んでいた。夕暮れの宰相府。歴代宰相の肖像画が並ぶ廊下。学園の卒業の夜と同じ色の光の中で。
ギルベルトが、ゆっくりと顔を近づけた。
目を閉じた。
唇が触れた。
柔らかくて、温かかった。一瞬だった。だが、その一瞬に、全部が詰まっていた。図書室の埃と古い紙の匂い。目録帳の背表紙。カウンターの椅子の軋み。脅迫メモの紙片。証拠書類の束。法廷の白い石の壁。神殿の鐘の音。
全部が、ここにつながっていた。
唇が離れた。
ギルベルトが、私の手を握ったまま、微笑んだ。
今度の微笑みは、読みにくくなかった。
「帰りましょう」
「はい」
手をつないだまま、廊下を歩いた。正門に向かって。
橙色の光が、二人の影を長く伸ばしていた。
宰相府の門を出ると、夕暮れの王都が広がっていた。石畳が橙色に染まり、遠くで鐘が鳴っている。
図書室の外の世界。
ギルベルトが差し出した手を取って、踏み出した世界。
この世界で、私はもうモブではない。
名前がある。功績がある。友人がいる。そして、隣に立ちたい人がいる。
手をつないだまま、馬車に乗った。窓の外を流れる夕暮れの王都を、二人で見ていた。
何も言わなかった。言葉は、もう十分だった。
(完)
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