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【第2章追加!】モブ令嬢に転生したのでモブらしく生きていたら、なぜか聖女の化けの皮が剥がれモブでは済まなくなりました  作者: 月雅
第2章

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第9話「母の名前」

神殿法廷の鐘が、朝の空気を震わせた。


重く、低い音だった。王都の神殿区画に位置する法廷棟は、白い石造りの荘厳な建物だ。正面の大扉には神殿の紋章が刻まれ、左右に神殿騎士が直立している。


私はその大扉の前に立っていた。


淡い青の正装。いつもの衣装。だが今日は、胸元に小さな書類袋を下げていた。証拠整理者としての身元登録書。昨夜のうちにギルベルトが手続きを済ませてくれた。ロゼリア・トーレス。子爵令嬢。再審の証拠整理者。その肩書きが、神殿法廷の記録に残っている。


隣にギルベルトがいた。


宰相府の正装を纏った彼の横顔は、緊張で硬くなっていた。学園の卒業パーティーの夜とも、宰相府の書庫でのいつもの表情とも違う。今日は、母を取り戻す日だ。八年間、この日を待っていた人の顔だった。


法廷の扉が開いた。


法廷の内部は、想像よりも広かった。


高い天井にステンドグラスの窓。壁際に並ぶ傍聴席。正面に裁判長席があり、その左右に証言台と記録官の机がある。提出者席は裁判長席の正面やや右側に設けられていた。


傍聴席に目を向けた。


宰相がいた。最前列の右端。宰相府の正装を隙なく着こなし、感情を読ませない顔で正面を見ている。その隣にクラウスがいた。兄の表情も硬かった。だが、宰相とは違う種類の硬さだ。宰相は政治家の顔をしている。クラウスは、何かを堪えている顔をしていた。


エレーヌが証言者席に座っていた。穏やかな表情だったが、背筋がまっすぐに伸びている。覚悟を決めた人の姿勢だった。


カティアが手配してくれた証言者たちも、それぞれの席に着いている。


私は提出者席に座った。目の前に、昨夜仕上げた書類の束がある。構成順に番号を振った証拠一式。これが、今日のすべてだ。


裁判長が入廷した。神殿大司教。白い法衣を纏った壮年の男性だ。法廷が静まった。


「ヴァイス家再審を開廷する」


裁判長の声が、法廷に響いた。


証拠の読み上げが始まった。


私が整理した時系列リストに基づき、冤罪の経緯が法廷に開かれていく。


最初の証拠。ギルベルトの母が罪に問われた経緯。八年前の神殿裁判の記録。罪状は「神託への冒涜」。根拠となったのは、当時の聖女マリアンヌ・セレスティアが発行した神託だった。


次の証拠。神殿記録庫から発見された、その神託の原本控え。私が書類を広げ、法廷に提示した。


「この原本控えには、検証印がありません」


私の声が、法廷に響いた。手が震えていないことを確認した。


「神殿法の規定では、神託が法的効力を持つためには、監査局の検証印が必要です。この神託には、検証印が押されていません。つまり、この神託は法的には無効です」


法廷がざわついた。裁判長が軽く手を上げ、静粛を求めた。


続けた。監査局に提出されなかった未検証神託の一覧。宰相府の記録に残る三ヶ月の空白。通し番号の欠落。証拠が一つずつ積み上がるたびに、法廷の空気が変わっていった。


冤罪は偶然ではない。意図的に作られたものだ。記録は嘘をつかない。


エレーヌが証言台に立った。


「わたしは学園在学中、元聖女マリアンヌ・セレスティアによって脅迫を受けていました」


エレーヌの声は静かだったが、法廷の隅まで届いていた。弟を人質に取られたこと。沈黙を強いられたこと。神殿内部で、不正がどのように運用されていたか。


証言は、感情に流されず、事実だけを時系列で語るものだった。昨夜、書斎で確認した草稿通りの構成だ。


法廷が、静まり返っていた。


異議が出たのは、エレーヌの証言が終わった直後だった。


「異議を申し立てます」


法廷の左側から声が上がった。


保守派の司祭だった。神殿法衣を纏った壮年の男。神殿記録庫の管理を担当していた、あの非協力的な司祭だ。異議申立人として、法廷に出席している。


「提出された証拠のうち、神殿記録庫から持ち出された文書について、保管手続きに瑕疵があると主張します」


予想通りだった。


「閲覧者であるギルベルト・ヴァイス氏が記録庫内で行った複写手続きにおいて、管理司祭である私への事前通知が不十分であったと——」


「異議に対し、補足書類を提出します」


私は立ち上がった。エレーヌが準備してくれた書類を、法廷に提示した。


「神殿法の記録庫閲覧規定を抜粋し、ギルベルト・ヴァイス氏の手続きが各条項に適合していることを一対一で対照した書類です。閲覧許可書の写し、複写手続きの記録、受領印。すべて揃っております。事前通知については、規定上、閲覧許可書の提示をもって通知に代えることが認められています」


司祭の顔が、歪んだ。


「しかし、この再審自体が宰相家の政治的圧力によるものであり——」


「発言を許可します」


裁判長の声が割って入った。だが、裁判長が見ていたのは司祭ではなかった。


法廷の傍聴席の最前列。そこに、一人の人物が立ち上がっていた。


アレクシス・ルーヴェン。王太子。


「この再審は、王の裁可を経た正当な手続きに基づくものです。政治的圧力という主張は、王の裁可そのものを否定することになりますが、異議申立人はそのおつもりですか」


王太子の声は穏やかだった。だが、その言葉の重みは法廷全体を沈黙させた。


王の裁可を否定する。それは、王権への挑戦を意味する。神殿法廷であっても、王権を正面から否定することはできない。


司祭は口を閉じた。


だが、終わりではなかった。


私は証拠の束の最後の書類を手に取った。構成の最後に配置した一枚。


「最後に、補足として一点を法廷に報告いたします」


書類を広げた。


「再審の証拠整理の過程で、神殿記録庫の記録配置に不自然な改変が確認されました。本来の分類順から外れた位置に記録が移動されており、通し番号の連続性が破壊されていました。この改変は、記録庫の管理権限を持つ人物にしか行えません」


法廷が、再び静まった。


「記録の改変時期を、前後の書類の劣化状態と配置の不整合から推定しますと、冤罪が成立した時期と一致します。記録庫の管理権限者が、冤罪を成立させるために意図的に記録を移動させた可能性があります」


司祭の顔から、血の気が引いた。


記録庫の管理権限者。それは、目の前にいる司祭自身だった。


「これは——私は——」


司祭が口を開きかけたが、言葉が続かなかった。


裁判長が記録官に目配せした。記録官が筆を走らせている。司祭の動揺と、提出された証拠の内容が、法廷記録に残される。


神殿法に基づく内部処分の対象になる。監査局の形骸化に加担し、記録を改変した疑い。罷免は、免れないだろう。


司祭は、それ以上何も言わなかった。


判決が読み上げられた。


「本法廷は、提出された証拠および証言に基づき、八年前の神殿裁判における判決を取り消す。被告人ヴァイス夫人に対する全ての罪状は根拠を欠くものであり、冤罪と認定する。修道院からの即時帰還と名誉回復を命じる」


法廷が、静かにざわめいた。


終わった。


八年間の冤罪が、正式に覆った。


傍聴席を見た。宰相は表情を変えなかった。だが、膝の上に置いた手が、わずかに握られていた。クラウスは俯いていた。顔が見えなかった。


エレーヌが証言者席で、小さく息を吐いた。肩の力が抜けるのが見えた。


ギルベルトは、提出者席の隣で、まっすぐ前を見ていた。動かなかった。判決が読み上げられている間、一度も瞬きをしなかったように見えた。


法廷が散会した後だった。


神殿法廷の廊下。白い石の壁と高い天井。窓から午後の光が差し込んでいる。


ギルベルトが、廊下の壁に手をついて俯いていた。


一人だった。宰相もクラウスも、先に法廷を出ていた。エレーヌも、カティアの手配した馬車で帰った。廊下には、ギルベルトと私だけが残っていた。


近づいた。


靴音が、廊下に響いた。ギルベルトの背中が近づいてくる。


彼は顔を上げた。


目が赤かった。


「……終わった」


声が、かすれていた。


学園の図書室で脅迫メモを見つけたとき、穏やかな声の奥に怒りがあった。母の冤罪を打ち明けたとき、声が震えていた。宰相府の書庫で書類を整理しているとき、いつも読みにくい微笑みの裏に何かを隠していた。


今、何も隠していなかった。


ギルベルト・ヴァイスが、初めて、何も隠さずに私の前に立っていた。


「ずっとこの日を待っていた」


声が震えていた。穏やかさも、皮肉も、微笑みもなかった。ただ、八年分の重さが、声に滲んでいた。


「母に、会える」


涙が、一筋だけ頬を伝った。


私は何も言わなかった。言葉は必要なかった。


この人の涙を見届けられてよかった。


それだけが、胸の中にあった。


廊下の窓から光が差していた。午後の白い光が、二人の間に落ちている。宰相府の廊下で見た光と同じ色だった。だが、その光の中に立つ二人の間に、もう隠し事はなかった。


ギルベルトが目を拭った。袖で、無造作に。宰相家の次男らしくない仕草だった。


「すみません。みっともないところを」


「みっともなくないです」


声が出た。思ったより、はっきりした声だった。


「八年間、待っていたのですから」


ギルベルトが私を見た。赤い目で。だが、その目の奥にあったのは、悲しみではなかった。


安堵だった。


解放だった。


八年間背負っていたものが、ようやく降りた人の顔だった。


「ありがとう」


また、敬称がなかった。トーレス嬢でも、君でもなく。


私は頷いた。それだけでよかった。


二人の間の空気が、変わっていた。法廷に入る前とは、何かが決定的に違っていた。それが何なのか、言葉にする必要はなかった。


廊下の奥から、従者の足音が聞こえてきた。宰相が馬車を回したのだろう。


ギルベルトが背筋を正した。目を拭い、呼吸を整え、宰相家の次男の顔に戻った。


だが、さっきの顔を、私は見た。


その事実は、もう変わらない。


「母の帰還の準備を始めます」


「はい」


「近いうちに、また」


「はい」


ギルベルトが廊下の奥に歩いていった。足音が遠ざかる。


私は廊下に一人残った。白い石の壁に手をついた。ギルベルトと同じ場所に。壁が、まだ少しだけ温かかった。


窓の外で、神殿の鐘が鳴った。


公判の終了を告げる鐘だ。朝に聞いた鐘と同じ音のはずなのに、違って聞こえた。


重さが、少しだけ軽くなった音だった。

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