第8話「記録の声」
「ロゼリアさん、この証言の順序で問題ありませんか」
エレーヌの声だった。
再審の公判日前日。トーレス子爵家の書斎に、書類が広がっていた。机の上、椅子の上、床の上にまで。ギルベルトが神殿記録庫から持ち帰った文書の写し、宰相府の記録から抽出した時系列表、エレーヌが準備した証言内容の草稿。すべてを法廷用の書式に仕上げる、最後の夜だった。
「問題ありません。証言はこの順序で」
書類を確認しながら答えた。エレーヌの証言内容は、神殿内部での脅迫の事実を時系列で語るものだ。マリアンヌの指示で弟を人質に取られたこと、その脅迫のために沈黙を強いられたこと。法廷で語られるべき内容を、過不足なく、感情に流されず、事実として提示する構成になっていた。
エレーヌが書斎の椅子に座り、草稿を読み返していた。穏やかな表情だったが、手元の紙を持つ指先がわずかに白くなっている。力が入っている。
「緊張していますか」
「少しだけ」
エレーヌが微笑んだ。学園時代、閉架書庫で怯えていた頃とは違う笑みだった。だが、完全に恐怖がないわけではない。神殿法廷に立つということは、あの経験をもう一度言葉にするということだ。
「エレーヌ様。無理はなさらないでください」
「無理ではありません。これは、わたしが選んだことですから」
エレーヌの声は静かだったが、揺るぎがなかった。
扉を叩く音がした。
ギルベルトだった。
「失礼します。カティア嬢から伝言を預かっています」
ギルベルトが書斎に入り、書類の山を見て一瞬足を止めた。それから、苦笑に近い笑みを浮かべた。
「相変わらず、すごい量ですね」
「全部必要なものです」
「分かっています」
ギルベルトが椅子を引き、机の端に座った。カティアからの伝言を伝えた。証言者の出廷手続きは完了。カティアが公爵家の人脈を使い、神殿法廷への出入り許可を証言者全員分確保してくれたとのことだった。
「カティアは手が早いわね」
エレーヌが感心したように言った。
「公爵家の政治力は伊達ではないですから」
私は書類の最終確認に戻った。
法廷に提出する証拠の構成。これが、明日のすべてを決める。
神殿法廷の手続きでは、証拠は提出順に読み上げられる。つまり、どの証拠を最初に出し、どの証拠を最後に出すかで、法廷全体の印象が変わる。構成の順序が結論を左右する。
前世の記憶が蘇った。レファレンス資料の作成。利用者が求める情報を、最短距離で、最も説得力のある形で提示する。そのために、情報の並び順を設計する。
法廷の証拠構成も同じだ。
最初に、冤罪の事実を示す。ギルベルトの母が罪に問われた経緯と、その根拠となった神託の内容。
次に、神託の虚偽を証明する。神殿記録庫から発見された原本控え。検証印の不在。監査局に提出されなかった未検証神託の一覧。
その次に、冤罪が意図的に作られたことを示す。宰相府の記録に残る三ヶ月の空白。通し番号の欠落。記録の意図的な抜き取り。
最後に、証言で補強する。エレーヌの証言。神殿内部で行われた脅迫の事実。
この構成なら、誰が読んでも——誰が聞いても——同じ結論に辿り着く。ギルベルトの母は無実だ、と。
「構成を確認してください」
ギルベルトに書類の束を渡した。
ギルベルトが一枚ずつ目を通した。時間をかけて、丁寧に。やがて顔を上げた。
「完璧です」
「ありがとうございます」
「いつも思うんですが」
ギルベルトが書類を机に戻しながら言った。
「トーレス嬢の作る書類は、読む人間の思考の流れを先回りしている。だから、読んでいて疑問が湧かない。質問する前に、答えが次の行に書いてある」
褒められている。だが、今夜はそれに浸る余裕がなかった。
「構成は問題ないとして、手続き上の懸念が一つあります」
「保守派の司祭ですか」
「はい」
神殿記録庫の文書。ギルベルトが正規の手続きで閲覧・複写したものだ。だが、記録庫を管理していた司祭は終始非協力的だった。閲覧を遅らせ、複写に時間をかけさせた。
あの司祭が、再審の場で「保管手続きに瑕疵がある」と異議を申し立てる可能性がある。
「閲覧許可書の写し、複写手続きの記録、受領印。すべて揃えてあります」
ギルベルトが言った。
「ですが、司祭が手続き自体を問題にした場合、こちらの書類だけでは反論が弱いかもしれません」
エレーヌが口を開いた。
「それについては、わたしが補足書類を準備してあります」
エレーヌが鞄から薄い書類の束を取り出した。
「神殿法の手続き規定です。記録庫の閲覧・複写に関する条項を抜粋し、ギルベルト様の手続きがすべて規定通りであることを条文ごとに対照させてあります」
私は書類を受け取り、目を通した。
条文の引用が正確だった。対照表の構成も明快だ。神殿法の用語が正しく使われており、手続きの各段階が条文と一対一で対応している。
「エレーヌ様、これは」
「学園時代に、神殿の手続きを嫌というほど見させられましたから」
エレーヌの声に、かすかな苦みがあった。マリアンヌの側にいた時間。望まない形で身につけた知識。だが、その知識が今、武器になっている。
「これがあれば、手続き上の瑕疵を主張されても即座に反論できます」
「ええ。そのために作りました」
エレーヌの目が、静かに光っていた。恩を返す、と言ったあの日の目と同じだった。
書類の最終確認が終わったのは、深夜を過ぎた頃だった。
エレーヌは先に帰った。明日の法廷に備えて休むように、と私が言った。エレーヌは「あなたこそ」と返したが、素直に帰ってくれた。
書斎にギルベルトと二人になった。
机の上に、完成した書類の束が積まれている。法廷提出用の証拠一式。構成順に番号が振られ、各証拠に出典と要約が付記されている。エレーヌの補足書類も挟み込んである。
「全部揃いました」
「ありがとうございます」
ギルベルトが書類の束を手に取った。重さを確かめるように、一度持ち上げた。
「この書類の中に、母の八年間が詰まっている」
声が、かすかに震えていた。
「八年分の冤罪を覆す証拠。それを、君が——トーレス嬢が作ってくれた」
「私だけではありません。ギルベルト様が記録庫で探し出し、エレーヌ様が補足書類を整え、カティアが出廷手続きを手配してくれました」
「でも、全部をつなげたのは君だ」
ギルベルトが書類を机に戻した。そして、私を見た。
「明日、法廷に来てほしい」
「傍聴席にいます」
「傍聴席ではなく」
ギルベルトが言った。
「証拠整理者として」
息が止まった。
「再審の証拠を整理した人物として、法廷に身元を登録すれば出廷が可能です。証拠の出典と整理方法を説明する役割。手続き上、認められています」
「それは——」
「君の名前を、法廷に出すということです」
分かっていた。社交界の夜会で名前を出したのとは、意味が違う。法廷に身元を登録する。公的な記録に、ロゼリア・トーレスの名前が残る。
宰相家との関係も、社交界での立場も、すべてが公になる。もう裏方には戻れない。
「分かりました」
答えた。
迷わなかった。
宰相の執務室で、隣に立ちたいと言った。あの日の言葉が嘘でないなら、ここで引くわけにはいかない。
「出廷します」
ギルベルトの目が、ほんの一瞬、揺れた。安堵か。喜びか。それとも、もっと深い何かか。
「ありがとう」
敬称がなかった。トーレス嬢でも、君でもなく、ただ「ありがとう」だけ。
一瞬のことだった。すぐに、彼はいつもの穏やかな表情に戻った。
「明日の朝、宰相府の馬車を子爵家に回します。法廷には一緒に向かいましょう」
「はい」
ギルベルトが書斎を出ていった。
一人になった書斎で、机の上の書類の束を見つめた。
明日、法廷に立つ。
証拠整理者として、自分の名前で。
怖くないと言えば嘘になる。法廷の場で、保守派の司祭が異議を唱えるかもしれない。宰相家の長男が、これを快く思わないかもしれない。社交界が、また何か言うかもしれない。
でも、この書類の束は嘘をつかない。
一枚一枚、私の手で確認した。通し番号を照合し、日付を並べ、出典を記した。前世の知識と、この世界での三年間の経験と、友人たちの力を全部注ぎ込んだ。
これが、私の仕事だ。
窓の外を見た。夜空に星が出ていた。明日の朝になれば、宰相府の馬車が来る。ギルベルトと一緒に、神殿法廷に向かう。
隣に立ってほしい。
彼はそう言った。傍聴席ではなく、法廷の場に。裏方ではなく、名前を持った人間として。
書斎の灯りを消した。
明日のために、少しでも眠らなければ。
書類は完璧だ。構成も、証言も、補足書類も、すべて揃っている。
あとは、法廷で、記録に声を与えるだけだ。




