第7話「宰相の問い」
宰相府からの呼び出し状を手に、私は正装に着替えた。
子爵家の屋敷の鏡の前で、襟元を整えた。淡い青の正装。母が仕立て直してくれた衣装。夜会のときと同じものだ。これしかない。だが、これが私の正装だ。
呼び出し状の文面は簡潔だった。「トーレス嬢。本日午後、宰相府にてお話ししたいことがあります。ヴァイス」。ギルベルトの名前ではない。宰相本人の名前で届いた呼び出し状だった。
ギルベルトの同席なし。
子爵令嬢が宰相と一対一で面会する。異例どころの話ではない。通常ならば、子爵家の当主が同席するか、少なくとも家門の代理人が付き添う。だが呼び出し状には「トーレス嬢」とだけあり、同席者への言及はなかった。
カティアの夜会から三日後のことだった。
社交界で私の名前と功績が明かされた。公爵令嬢と侯爵令嬢が公の場で語った。その報告は、宰相の耳に当然届いている。
宰相が動いた。
馬車に乗り、宰相府に向かった。窓の外を流れる王都の街並みを見ながら、呼吸を整えた。手のひらが冷たい。前回の「ご苦労」を思い出した。あの三文字。感情のない声。政治で計測する目。
今日は、あの目の前に一人で立つ。
宰相府の正門を潜った。
従者に案内され、廊下を歩いた。歴代宰相の肖像画が並ぶ、見慣れた廊下。だが今日は、ギルベルトが半歩前を歩いていない。私一人の足音だけが、広い廊下に響いていた。
執務室の扉の前で、従者が立ち止まった。
「お待ちしておりました。どうぞ」
扉が開いた。
宰相の執務室は、広かった。壁際に書架が並び、中央に大きな執務机がある。窓から午後の光が差し込み、机の上の書類を照らしていた。
ヴァイス宰相は、執務机に向かっていた。書類仕事をしている。私が入室しても、すぐには顔を上げなかった。
一礼した。深く。
「トーレス子爵家のロゼリアでございます。本日はお呼び立ていただき、恐縮でございます」
最敬語。子爵令嬢から宰相へ。この距離に見合った、最大限の礼。
宰相は書類に目を落としたまま、しばらく無言だった。
筆を走らせる音だけが、部屋に響いていた。
長い沈黙だった。一分か、二分か。体感ではもっと長く感じた。立ったまま、頭を下げたまま、待った。これは試されている。子爵令嬢がこの沈黙に耐えられるかどうかを、宰相は見ている。
やがて、筆の音が止まった。
宰相が顔を上げた。
「トーレス嬢。君に一つ聞きたい」
声に感情はなかった。前回の「ご苦労」と同じ、平坦な声。だが、今日は三文字では終わらなかった。
「お座りなさい」
執務机の前に、椅子が一つ用意されていた。促されて座った。背筋を伸ばし、膝を揃え、手を膝の上に置いた。子爵令嬢としての所作を、一つも崩さない。
宰相の目が、私を見ていた。
廊下ですれ違ったときと同じ、計測する目。だが、今日は距離が近い。執務机を挟んで、二メートルほど。宰相の目の奥にあるものが、前よりも鮮明に見えた。
疲労。
この人は、疲れている。王国の最高権力者として、聖女の空位を埋め、神殿との軋轢を処理し、息子の再審を進め、社交界の噂を管理している。その全てを背負った顔だった。
「息子は君をどう思っている」
直球だった。
「そして君は、息子をどう思っている」
心臓が、一つ大きく鳴った。
社交辞令ではない。宰相が求めているのは、建前ではなく本心だと分かった。この人は政治家だ。建前と本心の区別がつく。ここで社交辞令を返せば、それ自体が答えになる。本心を言えない程度の関係だ、と。
「ギルベルト様は」
声が出た。思ったより落ち着いていた。
「ギルベルト様は、私にとって——」
言いかけて、止まった。
何と言えばいい。
学園の図書室で出会った。書類を拾ったのが最初だった。神殿監査局の人事記録を渡して、彼の関心が変わった。脅迫メモを共有して、母の冤罪を打ち明けられて、共犯者になった。卒業の夜に手を握られて、図書室の外の世界を見ませんか、と言われた。
それから、宰相府の書庫で一緒に書類を整理した。廊下で宰相とすれ違った。クラウスに部外者と呼ばれた。ギルベルトは「彼女は僕が信頼している人だ」と言った。
全部を、一言で言わなければならない。
「ギルベルト様は、私に図書室の外の世界を見せてくださった方です」
宰相の目が、わずかに動いた。
「私は——この方の隣に立ちたいと思っています」
言った。
言ってしまった。
宰相の前で。王国の最高権力者の前で。子爵令嬢が、宰相家の次男の隣に立ちたいと。
沈黙が降りた。
宰相は黙って聞いていた。表情は変わらない。感情を読ませない顔のまま、私を見ていた。
長い沈黙だった。執務室の窓から差す午後の光が、ゆっくりと角度を変えていた。
「子爵家の令嬢が宰相家の隣に立つことの意味を、理解しているか」
宰相の声は、静かだった。だが、その静かさの奥に、問いの重さがあった。
「はい」
「覚悟だけでは足りない」
宰相が言った。
「この家には、それを認めない者もいる」
クラウス。宰相は、長男の名前を出さなかった。だが、示唆は明確だった。
「存じております」
「それでも、か」
「はい」
迷わなかった。迷う余地がなかった。
クラウスの冷たい目を知っている。社交界の棘を知っている。宰相の沈黙の重さを知っている。全部知った上で、ここに座っている。
宰相が、ほんの一瞬、目を細めた。それが何を意味するのか、読み取れなかった。
「再審が終わるまでは、判断を保留する」
宰相が言った。
その言葉の意味を、即座に理解した。
明確な許可でも、明確な拒否でもない。保留。再審が終わるまでの猶予。つまり、再審の結果次第で判断する、ということだ。
再審が成功すれば——母の冤罪が正式に晴れれば——宰相がロゼリア・トーレスを認める可能性がある。
逆に言えば、再審が失敗すれば、この話はなかったことになる。
「承知いたしました」
頭を下げた。
「下がってよい」
立ち上がり、一礼して、扉に向かった。
背中に、宰相の視線を感じた。振り返らなかった。
扉を閉める直前、執務室の中を一瞬だけ見た。
宰相が机の上の書類に目を落としていた。その書類の一枚に、見覚えがあった。
告発書類のコピーだった。学園時代に私が整理し、アレクシス殿下に提出した書類。その控えが、宰相の執務机の上にあった。
宰相が、その書類のどこを見ているのか。分からなかった。だが、あの書類の整理精度に目を留めている可能性はあった。
扉を閉めた。
宰相府の廊下を歩いた。
足音が響いている。行きと同じ、私一人の足音。だが、同じ音のはずなのに、少しだけ違って聞こえた。
認められたわけではない。
拒絶もされなかった。
保留。再審が終わるまで。
つまり、道はまだ続いている。
廊下の窓から、午後の光が差していた。歴代宰相の肖像画が、光の中に並んでいる。この廊下を、何度も歩いた。ギルベルトの半歩後ろを。書庫への往復を。クラウスとすれ違った角を。
今日、初めて、この廊下で自分の言葉を使った。
図書室の外の世界を見せてくださった方です。隣に立ちたいと思っています。
あれは本心だった。飾りも計算もなかった。子爵令嬢としての建前も、前世の知識を持つ者としての打算も、何も混じっていなかった。
宰相の前で、裸の言葉を口にした。
それができた自分に、少しだけ驚いていた。
正門を出た。夕暮れの王都。いつもの橙色の光。
ギルベルトに会いたい、と思った。
思ってしまった。
会って、今日のことを話したい。宰相に何を聞かれて、何を答えたか。隣に立ちたいと言ったこと。保留という答えをもらったこと。
でも、ギルベルトは宰相から今日の面会のことを聞いているだろうか。知らないかもしれない。宰相が息子に伝えるとは限らない。
会いたい、と素直に思う自分に気づいた。
学園の図書室にいた頃は、こんな感情を自覚していなかった。ギルベルトが書庫に来れば嬉しかったし、来なければ少し寂しかった。でも、それを恋だとは思っていなかった。モブには恋愛イベントはないのだと、勝手に決めていた。
今は違う。
隣に立ちたいと、宰相の前で言えるくらいには。
馬車に乗った。窓の外を流れる夕暮れの街並みを見ながら、胸の中を整理した。
達成感がある。自分の言葉で宰相に向き合えたこと。逃げなかったこと。
不安もある。再審が終わるまで、という条件。再審の行方がすべてを決める。
そして、まだ遠い。
宰相の保留。クラウスの反対。社交界の視線。全部がまだ、目の前にある。
でも、今日、一つだけ確かなことができた。
私は自分の声で、自分の気持ちを、この世界で最も強い人間の一人に伝えた。
それは、書類を整理することとは違う種類の勇気だった。
馬車が子爵家の門を潜った。
再審の公判日が近づいている。神殿法廷に証拠を提出し、証言者が出廷する日。すべてが決まる日。
その日のために、やるべきことはまだある。
鞄を持って、馬車を降りた。書斎に向かった。書類の最終確認を、今夜中に終わらせなければならない。




