第3話「宰相の沈黙」
「ギルベルト様、こちらの分類で合っていますか」
宰相府の書庫だった。天井の高い部屋に、壁一面の書架が並んでいる。古い紙と革装丁の匂い。学園の図書室に似ているが、規模が違う。ここにあるのは物語ではなく、王国の政務記録だ。
「合っている。その棚の右から三列目に、再審関連の書類がまとめてある」
ギルベルトが書架の間から顔を出した。宰相家の次男は、学園時代と変わらない穏やかな表情で、腕に書類の束を抱えていた。
「トーレス嬢、無理はしないでください。今日中に終わらせる必要はないので」
「いえ、証拠請求の期限がありますから。急ぎましょう」
私は書架の前にしゃがみ、背表紙に書かれた分類番号を確認した。宰相府の書庫は、学園の図書室よりも整理が行き届いていない。分類番号の振り方に統一感がなく、年代ごとに異なる体系が混在していた。
前世の司書の血が騒ぐ。整理したい。全部やり直したい。
だが今日はそれが目的ではない。ギルベルトの母の再審に必要な証拠請求書類を整理すること。それだけに集中する。
書類を一枚ずつ確認しながら、時系列順に並べ替えていく。冤罪当時の神殿裁判記録、監査局の人事異動記録、神託発行の日付と検証印の有無。
手が止まった。
「ギルベルト様」
「何かありましたか」
「この記録、三ヶ月分が丸ごと欠けています」
手にしていたのは、神殿裁判記録の綴りだった。冤罪が確定した年の春から夏にかけて、記録が存在しない。前の記録の日付と、次の記録の日付が三ヶ月以上離れている。
綴りの背を確認した。抜き取った形跡はない。最初から綴じられていなかったか、あるいは綴じ直されている。
「意図的に抜かれたものだと思います」
「根拠は?」
「綴りの通し番号が飛んでいます。七十八番の次が百十二番です。間の三十三件分が存在しません」
ギルベルトが私の隣にしゃがみ、綴りを覗き込んだ。近い。肩が触れそうな距離だった。書庫の薄暗さの中で、彼の横顔が近くにあった。
集中しなさい、ロゼリア。
「この空白期間の記録が見つかれば、冤罪の経緯が完全に再現できます」
「どこにあると思いますか」
「宰相府にはないはずです。抜かれた記録の原本は、神殿の記録庫に保管されている可能性が高いです。神殿裁判の記録は、神殿側にも控えが残る決まりですから」
ギルベルトは頷いた。その目に、静かな怒りがあった。母の冤罪が、どれほど周到に作られたものだったか。記録を抜くということは、証拠を隠すということだ。誰かが意図的に、真実を見えなくした。
「神殿記録庫へのアクセス申請を、正式に出しましょう」
「ええ。証拠請求書類に、この空白の事実を添えて提出します」
私は鞄から便箋を出し、空白期間の詳細を書き留めた。通し番号、欠落件数、前後の記録の日付と内容の要約。証拠請求の根拠として、この情報が必要になる。
書庫を出て、廊下を歩いた。
宰相府の廊下は広い。壁には歴代宰相の肖像画が並び、天井からは魔道灯が白い光を落としている。私の靴音が、やけに大きく響いた。
ギルベルトが半歩前を歩いている。この廊下を歩くとき、彼は自然に半歩前に出る。案内する側の立場。宰相家の人間としての所作だ。
角を曲がったとき、前方から足音が聞こえた。
重く、規則正しい足音だった。
廊下の向こうから、一人の男が歩いてきた。
背の高い壮年の男性。灰色がかった黒髪を後ろに撫でつけ、宰相府の正装を隙なく着こなしている。表情は、ない。感情を読ませない顔だった。
空気が変わった。
ギルベルトの背筋が、わずかに硬くなった。
「父上」
ギルベルトが立ち止まり、軽く頭を下げた。
父上。
ヴァイス宰相だった。
王国の最高権力者の一人が、廊下の向こうに立っている。その目が、ギルベルトの後ろにいる私を捉えた。
心臓が跳ねた。
威圧、というのとは違う。ただ、見られているだけだ。だが、その視線には計測するような正確さがあった。私の服装、姿勢、立ち位置、ギルベルトとの距離。すべてを一瞬で読み取っている。
「父上、こちらがトーレス嬢です。再審の書類整理を手伝ってくれています」
ギルベルトの声は落ち着いていた。だが、私には分かった。彼の声が、ほんの少しだけ硬い。
深く一礼した。
「トーレス子爵家のロゼリアでございます。本日は宰相閣下のお屋敷にお邪魔いたしております」
最敬語だ。子爵令嬢から宰相への挨拶。身分差に見合った最大限の礼を尽くす。
宰相は、私を見ていた。
長い沈黙だった。廊下の魔道灯の光が、白く二人の間に落ちている。
「ご苦労」
それだけだった。
三文字。声に感情はなかった。褒めてもいない。咎めてもいない。ただ、認知しただけ。子爵令嬢が宰相府にいるという事実を、処理しただけの反応だった。
宰相は私から視線を外し、ギルベルトを一瞥して、そのまま廊下を去った。
足音が遠ざかっていく。
私は頭を下げたまま、宰相の足音が完全に消えるまで動かなかった。
「すみません」
ギルベルトが言った。
「父は、ああいう人です」
「いえ、お忙しい方ですから」
平静を装った。だが、手のひらが冷たかった。
ご苦労。
たった三文字。だが、その三文字の中に含まれていたものを、私は読み取っていた。宰相は私を拒絶しなかった。だが歓迎もしなかった。子爵令嬢が宰相府に出入りしているという事実を、現時点では黙認している。それだけだ。
あの目は、カティアの茶会で品定めをしていた令嬢たちとは質が違った。あの二人は感情で見ていた。侮蔑や嫉妬で。
宰相は違う。
政治で見ていた。
この子爵令嬢は、宰相家にとって何なのか。利か、害か。それを測っている目だった。
ギルベルトが私の隣に戻った。半歩前ではなく、隣に。
「トーレス嬢」
「はい」
「父のことは、僕が——」
「大丈夫です」
遮った。ギルベルトが何を言おうとしたか、分かっていた。父に話をする、と言おうとしたのだ。私のことを認めてもらえるよう、取り計らう、と。
でも、それは違う。
「宰相閣下のご判断は、宰相閣下がなさることです。私がどうこう申し上げることではありません」
「しかし——」
「ギルベルト様」
私は彼の目を見た。
「私は、自分の仕事で示すしかありません。書類を整理して、証拠を揃えて、再審を成功させること。それ以外に、私にできることはありません」
ギルベルトは黙った。
その沈黙の中に、何かを言いたそうな気配があった。だが、彼は飲み込んだ。代わりに、小さく頷いた。
「分かりました」
穏やかな声だった。だが、目の奥にあるものは穏やかではなかった。
苛立ち、ではない。もどかしさだ。私を守りたいのに、私が守られることを受け入れない。そのことへの、行き場のない感情。
ごめんなさい、と思った。口には出さなかった。
ギルベルトが席を外した。
宰相に呼ばれた、と従者が伝えに来た。「少しお待ちいただけますか」と言い残して、ギルベルトは宰相の執務室に向かった。
書庫に一人残された。
静かだった。
書架に囲まれた空間。古い紙の匂い。窓から差す午後の光が、埃を金色に照らしている。
図書室に似ている、と思った。
でも違う。ここは宰相府だ。図書室には私の椅子があった。カウンターの定位置。あの椅子に座っている限り、私は図書室管理係だった。身分は関係なかった。
ここには、私の椅子がない。
壁際に立って、ギルベルトの帰りを待った。書庫の壁に背をつけて、天井を見上げた。
宰相に認められていない。
分かっていた。最初から分かっていた。子爵令嬢が宰相家に出入りすること自体が異例だ。カティアの茶会の名目があった学園時代とは違う。ここでは、私はギルベルトの依頼で来ているだけの、外部の手伝いだ。
それでいい。
今はそれでいい。
証拠請求書類を仕上げて、神殿記録庫の空白を埋める記録を見つける。再審を成功させる。それが、私にできる唯一のことだ。
感情で動いても、身分は変わらない。実績で示すしかない。
書庫の窓の外で、鳥が一羽飛んだ。午後の光の中を、まっすぐに。
ギルベルトが戻ったのは、半刻ほど後だった。
表情は穏やかだった。いつもの、読みにくい微笑み。だが、私は気づいた。目の奥が、少し暗い。
「お待たせしました。作業を続けましょう」
「はい」
何も聞かなかった。
宰相と何を話したのか。聞きたかった。聞く権利があるとも思わなかった。ギルベルトと宰相の間のことは、ヴァイス家の家族の問題だ。子爵令嬢の私が踏み込む領域ではない。
でも、分かっていた。
ギルベルトが何かを隠している。宰相に何か言われた。それを私に伝えないことを選んだ。
彼の優しさだと思う。
でも、優しさは壁にもなる。
二人の間に、初めて「言えないこと」が生まれた。学園の図書室では、何でも話せた。脅迫メモも、母の冤罪も、すべてを共有した。でもここは図書室ではない。宰相府だ。
ギルベルトが守りたいと思っている。私を傷つけたくないと思っている。
私は問い詰めない。彼の判断を信じている。
でも、胸の奥に小さな棘が刺さった。
カティアの茶会の棘とは違う。これは、もっと近い場所にある棘だった。
証拠請求書類は完成した。
空白期間の詳細、通し番号の欠落、前後の記録との整合性。すべてを時系列に整理し、請求の根拠を明記した書式に仕上げた。ギルベルトが内容を確認し、宰相府の公印を押す手続きを進めてくれる。
「これで神殿に正式提出できます」
「ありがとうございます。いつも通り、完璧な仕事です」
ギルベルトが書類を受け取りながら言った。微笑んでいた。だが、目が合う時間が、いつもより短かった。
宰相府の正門を出た。
夕暮れの王都。石畳が橙色に染まっている。茶会の帰りに見た光景と同じ色だった。
鞄の中には、証拠請求書類の控えが入っている。
やるべきことはやった。書類は完璧だ。空白を見つけ、根拠を整理し、請求の形に仕上げた。
でも、胸の中には二つのものが残っていた。
一つは、宰相の「ご苦労」という三文字。
もう一つは、ギルベルトが言わなかった言葉。
どちらも、今の私には変えられないものだった。
馬車に乗り、子爵家の屋敷に向かった。窓の外を、王都の街並みが流れていく。
認められていない。
でも、拒絶もされていない。
なら、まだやれることはある。
次は、神殿からの回答を待つ。記録庫へのアクセスが許可されれば、空白を埋める記録が見つかるかもしれない。見つかれば、再審の決定的な証拠になる。
一つずつだ。
手を動かす。書類を整理する。日付を並べる。
それが私の戦い方だ。学園でも、社交界でも、宰相府でも。
馬車の窓から、夕暮れの空が見えた。橙から藍に変わる、短い時間。
宰相の沈黙と、ギルベルトの隠し事。
二つの重さを抱えたまま、馬車は子爵家の門を潜った。
けれど、鞄の中の書類の重みだけは、嘘をつかない。今日、私の手が作ったものだ。
それを握って、私は馬車を降りた。




