第1話「図書室の外」
封筒を開く手が、少しだけ震えた。
トーレス子爵家の屋敷は、王都の外れにある。大通りから二本入った静かな通り沿いの、小さな石造りの邸宅。公爵家や侯爵家の屋敷と比べれば、庭も部屋数も控えめだ。
卒業してひと月。私はこの屋敷で、家の事務を手伝いながら暮らしていた。
領地の帳簿の整理、使用人への指示、季節ごとの備品の発注。子爵家の令嬢としてやるべきことは、学園にいた頃より多い。だがどれも地味で静かな仕事だった。
図書室の管理係と、そう変わらない。
違うのは、あの場所がないことだ。
古い紙の匂い。埃が金色に舞う午後の光。カウンターの椅子の軋み。棚の間を歩きながら背表紙を確認する、あの規則的な時間。
ここにはない。
朝の光が差し込む書斎の机で、私は封筒の中身を取り出した。
便箋が一枚。筆跡は見慣れたものだった。穏やかで端正な文字。学園の図書室で返却カードに名前を書いていたときと、同じ手だ。
ギルベルト・ヴァイスからの手紙。
短かった。
「トーレス嬢
母の再審が正式に開始されました。 宰相府から神殿法廷に申請が受理され、公判の準備に入っています。
つきましては、再審に必要な追加証拠の整理について、 あなたの力を借りたいと思っています。
一度、宰相府までお越しいただけないでしょうか。 詳細は直接お伝えします。
ギルベルト・ヴァイス」
便箋を机に置いた。
トーレス嬢。
卒業の夜、廊下で「ロゼリア嬢」と呼んでくれた人が、手紙では「トーレス嬢」に戻っている。宰相府からの正式な依頼だ。公的な文書に私的な呼び方は使えない。分かっている。分かっているけれど、少しだけ、指先が冷たくなった。
再審が始まった。ギルベルトの母を修道院に送った冤罪の、やり直し裁判。卒業の日に決まったあの再審が、ようやく動き出した。
そして、私に力を貸してほしいと。
書類の整理。証拠の時系列構成。前世の司書スキルが求められている。あの卒業パーティーの夜と同じことを、もう一度。
行くべきだ。行きたい。
でも。
宰相府。
ギルベルトの家。
子爵令嬢が宰相府を訪れるということの意味を、私は理解していた。学園の図書室とは違う。あそこでは身分も家門も関係なく、本を借りて返すだけの場所だった。
王都の社交界では違う。子爵家の娘が宰相家の屋敷に出入りすれば、それだけで噂になる。何の用があるのか、どんな関係なのか、誰が誰に取り入ろうとしているのか。
面倒なことになる。
でも、見て見ぬふりはできない。
この性分は、三年間で変わらなかった。変わるはずもなかった。
便箋を引き出しにしまい、返事を書こうとしてペンを取った。
そのとき、もう一通の手紙があることに気づいた。封筒の紋章はヴァレンシュタイン公爵家。
カティアからだった。
「ロゼリア
来週、わたくしの主催で茶会を開きます。 あなたも来なさい。 断ることは許しません。
追伸——宰相府に用があるなら、 茶会のついでに王都を訪れたことにすればよいでしょう。 カティアより」
思わず、小さく笑った。
カティアはもう知っている。ギルベルトの母の再審のこと。そして、私が宰相府に行く理由が必要なことも。
公爵令嬢の茶会に招かれた子爵令嬢が、ついでに王都を巡る。それなら不自然ではない。
ありがたかった。同時に、こうして誰かの名前を借りなければ動けない自分の立場を、改めて感じた。
ペンを取り、ギルベルトへの返事を書いた。
「お手紙ありがとうございます。お力になれることがあれば参ります。来週、カティア様の茶会に出席する予定がございますので、その折にお伺いいたします」
書き終えて、封をした。
学園にいた頃は、図書室の扉を開ければ会えた。
今は手紙を書いて、理由を作って、名目を用意して、ようやく会える。
図書室の外の世界とは、こういうことなのだ。
王都に出るのは、卒業式以来だった。
馬車の窓から見る王都の街並みは、春の光に溢れていた。石畳の大通り、立ち並ぶ商店、行き交う人々。学園の中からは見えなかった景色だ。
馬車がヴァレンシュタイン公爵家の前を通り過ぎ、宰相府の正門前で止まった。
深呼吸をして、馬車を降りた。
宰相府は王城に隣接する大きな石造りの建物だった。この国では宰相府は官庁であると同時にヴァイス家の邸宅でもある。正面が執務棟、奥が私邸という造りで、政務と家族の生活が同じ敷地の中にあった。正門には衛兵が二名立っている。私は訪問の書状を見せ、取り次ぎを待った。
衛兵の目が、一瞬だけ胸元の紋章に向いた。トーレス子爵家の蔦の紋章。王都では見慣れない家紋だろう。
「ギルベルト・ヴァイス様にお取り次ぎをお願いいたします。トーレス家のロゼリアと申します」
衛兵が中に入り、しばらくして戻ってきた。
「どうぞ、お入りください」
案内されたのは、応接間ではなかった。正面玄関を入ってすぐの広間。高い天井に、宰相家の紋章が刻まれた大理石の柱。
広間の奥に、一人の男性が立っていた。
ギルベルトではなかった。
背が高い。髪の色はギルベルトに似ているが、目つきが違う。穏やかさがない。代わりに、磨き上げられた冷たい礼節がある。
「お待ちしておりました。弟の学友の方ですか」
声は丁寧だった。だが、言葉の選び方に含みがあった。「学友」。それ以上でもそれ以下でもないと、線を引く言い方だ。
「お手数をおかけしました」
浅く会釈された。それだけだった。
クラウス・ヴァイス。宰相家の長男。ギルベルトの兄。
第一印象は、冷たい壁だった。
敵意ではない。子爵令嬢に対する敵意など、わざわざ持つ必要がない。ただ、ここはあなたの来る場所ではない、という空気が、態度の端々に滲んでいた。
「弟は書庫におります。ご案内いたします」
クラウスは背を向けて歩き出した。私はその後ろを歩いた。廊下は広く、壁には歴代宰相の肖像画が並んでいる。子爵家の屋敷とは、すべてが違った。
足音が、石の床に響いた。自分の足音が小さく聞こえた。
「ロゼリア嬢」
書庫の入口で、ギルベルトが待っていた。
深い青の目が、こちらを見た。学園で毎日見ていた目と同じ色だ。でも、表情が少し違った。安堵が混じっていた。
「来てくれたんですね」
「お力になれることがあればと思いまして」
ロゼリア嬢。手紙では「トーレス嬢」だったのに、顔を合わせれば名前に戻る。この人は、文字と声で距離が違うのだ。
クラウスが後ろに立っている。兄の前でも「ロゼリア嬢」と呼んだ。それが意図的なのか無意識なのか、分からなかった。
私はギルベルトに向かって丁寧に一礼した。ここでは学園の図書室のような距離感では話せない。
「兄上、あとは僕が対応します」
「ええ。お客様を案内するのは、本来なら使用人の仕事だけれど」
クラウスは微笑んだ。形だけの笑みだった。踵を返して廊下に消えた。
足音が遠ざかるのを待って、ギルベルトが小さく息をついた。
「兄は、気にしないでください」
「いいえ、お兄様のおっしゃることは理解できます」
子爵令嬢が宰相家長男に意見できる立場ではない。身分が違う。格が違う。クラウスの言葉がどれほど不当であっても、この廊下で私が反論することは、社会の秩序を無視する行為になる。
「理解できるのと、気にしないのは違うでしょう」
ギルベルトの声が、少しだけ低くなった。
「気にしないでください、と言ったのは——あなたにそんな顔をさせたくないからです」
私は何も答えなかった。代わりに、書庫の扉に目を向けた。
「書類を見せていただけますか」
話を仕事に切り替えた。ギルベルトは一瞬、何か言いかけたが、口を閉じて扉を開けた。
宰相府の書庫は、学園の図書室より遥かに広かった。
天井まで届く書架が何列も並び、行政記録、外交文書、法令集が整然と配架されている。さすがに分類は崩壊していなかった。宰相府の専属書記官が管理しているのだろう。
ギルベルトが奥のテーブルに書類の束を広げた。
「これが、母の冤罪に関する書類の写しです。再審の申請書類は宰相府から提出済みですが、追加証拠が必要です」
書類を手に取った。
冤罪当時の記録、神殿法廷の判決文の写し、当時の証人の名簿。ギルベルトが学園にいた頃から集めていた資料と、宰相府が公式に入手した文書が混在している。
私は椅子に座り、一枚ずつ確認を始めた。
日付を見る。文書番号を追う。時系列に並べ直す。前世の図書館で何千回とやった作業だ。手が勝手に動く。
十分ほどで、全体の構成が見えた。
「ギルベルト様」
「何か見つかりましたか」
「この書類の中に、不自然な空白があります」
冤罪が確定した時期の前後、数ヶ月分の神殿法廷の記録が欠けていた。判決文はあるのに、審理の過程の記録がない。
「記録が意図的に抜かれている可能性があります。あるいは、最初から作成されなかったか」
「……意図的に」
ギルベルトの目が細くなった。学園で神殿監査局の人事記録を見たときと、同じ目だった。
「この空白期間の記録が見つかれば、冤罪の経緯が完全に再現できます」
「どこにあると思いますか」
「宰相府にはないはずです。抜かれた記録の原本は、神殿の記録庫に保管されている可能性が高いです。神殿裁判の記録は、神殿側にも控えが残る決まりですから」
ギルベルトは頷いた。その目に、静かな怒りがあった。母の冤罪が、どれほど周到に作られたものだったか。記録を抜くということは、証拠を隠すということだ。誰かが意図的に、真実を見えなくした。
「神殿記録庫へのアクセス申請を、正式に出しましょう」
「ええ。証拠請求の書類整理に、あなたの力が必要です」
私は鞄から便箋を出し、空白期間の詳細を書き留めた。通し番号、欠落件数、前後の記録の日付と内容の要約。証拠請求の根拠として、この情報が必要になる。
書庫を出て、廊下を歩いた。
宰相府の廊下は広い。壁には歴代宰相の肖像画が並び、天井からは魔道灯が白い光を落としている。私の靴音が、やけに大きく響いた。
ギルベルトが半歩前を歩いている。この廊下を歩くとき、彼は自然に半歩前に出る。案内する側の立場。宰相家の人間としての所作だ。
角を曲がった先で、ギルベルトが振り返った。
「トーレス嬢」
トーレス嬢。廊下では姓に戻る。書庫の入口では「ロゼリア嬢」だったのに。この人の中で、場所によって距離が変わるのだ。宰相家の人間として、どこが私的でどこが公的か、無意識に線を引いている。
「また来ていただけますか。書類の量が多いので、一日では終わりそうにない」
「もちろんです。証拠請求の期限に間に合うよう、通わせていただきます」
「ありがとうございます」
穏やかな声だった。だが、目の奥に、もう一つ何か言いたそうな気配があった。
言わなかった。
私も、聞かなかった。
正門を出た。夕暮れの王都。石畳が橙色に染まっている。
馬車に乗り、子爵家の屋敷に向かった。窓の外を流れる王都の街並みを見ながら、学園時代のヴィオラの言葉がふと蘇った。
「あんたがいなかったら、あたしたちはばらばらのままだった」
そうだろうか。
本を並べ、書類を整理し、人と人をつなげただけだ。大したことはしていない。
いや。
大したことではないと思っていたから、三年間もモブのつもりでいられた。でも、卒業の日にギルベルトに手を握られて、知った。大したことではないと思っていたことが、実は誰にもできないことだったのだと。
なら、ここでも同じことをすればいい。
目の前のことを、一つずつ。
手を動かす。書類を整理する。日付を並べる。
それが、今の私にできることだ。
馬車が子爵家の門を潜った。
屋敷に入り、書斎の机に向かった。今日見つけた空白の記録のことを、忘れないうちに整理しておきたかった。
鞄から便箋を出し、空白期間の詳細を書き写した。通し番号七十八から百十二まで。三十三件の欠落。
クラウスの冷たい目を思い出した。宰相府の広い廊下。歴代宰相の肖像画。自分の足音の小ささ。
でも、あの書庫には、私にしかできない仕事がある。
明日からまた通う。空白を埋めるために。




