第10話「モブの卒業式」
三年間のモブ生活も、今日で終わりだ。
朝、図書室の扉を開けた。最後の見回りだった。
棚は整然としていた。三年かけて分類を振り直し、目録を作り直した蔵書たち。背表紙の並びは正確で、一冊のずれもない。窓から差し込む朝の光が、古い書架を白く照らしていた。
カウンターの椅子に、最後に一度だけ座った。木が軋む音。三年間で身体に馴染んだ音だった。
目を閉じた。
古い紙の匂い。インクの匂い。埃の中に混じる、かすかな陽の匂い。
「おつかれさま」
昨夜と同じ言葉を、もう一度だけ言った。
立ち上がり、椅子を元の位置に戻した。カウンターの引き出しに図書室の鍵を置いた。次の管理係が来るまで、ミュラー教師が預かることになっている。
図書室を出て、扉を閉めた。振り返らなかった。
卒業パーティーの会場は、大講堂だった。
三年前の入学式と同じ場所。ステンドグラスの光。磨かれた石の床。だが今日は、花と布で飾り付けられ、中央に演壇が設けられていた。
席は身分順。私の席は後方だった。子爵令嬢の席。三年前と変わらない位置。
制服ではなく、卒業式用の正装を着ていた。子爵家の紋章が刺繍された、質素だが整った衣装。華やかさはないが、恥ずかしくはない。
席に着くと、隣にギルベルトが立っていた。
「最後まで見届けてください」
小さな声だった。穏やかだが、緊張の糸が通っている。
「はい」
ギルベルトは前方の席に戻った。宰相家の次男として、上位の席に座る。ここからでは、彼の背中しか見えない。
会場が埋まっていく。公爵家、侯爵家、伯爵家。前方にカティアの白い髪が見えた。ヴィオラの赤い髪。エレーヌの黒い髪。三人とも、正装で背筋を伸ばして座っている。
来賓席に、見慣れない顔ぶれがあった。神殿の法衣を着た人物が二人。宰相が手配した神殿監査局の監査官だろう。
聖女マリアンヌは来賓席の端に座っていた。白い法衣に聖印。穏やかな微笑みを浮かべている。三年前の入学式と同じ顔だ。
王太子アレクシスが、演壇の横に立っていた。近衛が一名、壇の下に控えている。
学園長が開会の辞を述べた。卒業生への祝辞。来賓への礼。形式的な言葉が続く。
そして、王太子が演壇に上がった。
「卒業生の皆さん。今日は祝いの日であると同時に、私から皆さんに告げなければならないことがあります」
会場が静まった。
アレクシスの声は落ち着いていた。だが、その目には覚悟があった。
「まず、私自身のことから話します。王太子選定試験の際、私の魔力測定値に神殿による補正が加えられていました。これは私の知らないところで行われたものですが、結果として不正確な数値が記録に残りました。この事実を、本日ここで公表します」
会場がざわめいた。王太子が自らの試験記録の問題を公の場で口にした。前代未聞のことだった。
アレクシスは動じなかった。
「そして、この補正を行ったのは、聖女マリアンヌ・セレスティアの関与する神殿の一派です」
ざわめきが、波のように広がった。
アレクシスは書類を手に取った。私が整理した書類だ。
「以下は、聖女マリアンヌの在任期間中に行われた不正の記録です」
読み上げが始まった。
神託の偽装。的中率の低い神託を、事前の情報収集で補い、高精度に見せかけていたこと。神殿監査局の監査官二名を政治工作で左遷し、検証機能を形骸化させたこと。検証印のない神託を公式のものとして運用し、複数の貴族に冤罪を着せたこと。
一つ一つの事実が、日付と文書番号とともに読み上げられた。
マリアンヌの顔から、微笑みが消えた。
「これは誤解です」
マリアンヌが立ち上がった。声は柔らかいままだったが、目が違っていた。
「神託は本物です。わたしの能力に疑いを——」
「神殿監査局の見解を求めます」
アレクシスが遮った。
来賓席の監査官が立ち上がった。
「神殿監査局より報告いたします。聖女マリアンヌ・セレスティアの在任期間中に発行された神託のうち、検証印が付されたものは全体の二割に満たず、残りの八割は正規の検証手続きを経ておりません。記録を照合した結果、神託の内容と実際の事象の間に重大な不一致が認められました」
会場の空気が変わった。ざわめきではなく、静寂だった。
エレーヌが立ち上がった。
「わたしは、証言いたします」
声は小さかったが、会場の隅まで届いた。
エレーヌは語った。弟の治療を人質に取られたこと。聖女の手先の神殿下級神官から指示を受け、カティアを孤立させる工作に加担させられたこと。その指示が文書として存在すること。
カティアへの噂が捏造だったと証言する者も、会場から名乗り出た。カティアが集めた証言者だった。
ヴィオラの調査資料が状況証拠として提示された。噂の発生時期と聖女の入学時期の一致。工作の痕跡。
すべてが、一つの絵として完成した。
マリアンヌは立ったまま、会場を見回した。
「この告発の裏で糸を引いている者がいるはずです。誰がこれを——」
マリアンヌの目が会場を探った。ギルベルトを見た。カティアを見た。ヴィオラを見た。エレーヌを見た。
だが、その視線は私のところで止まらなかった。
後方の席に座る子爵令嬢を、聖女は認識していなかった。
「……誰です、それは?」
マリアンヌが呟いた。
会場が一瞬、静まった。それから、かすかなざわめきが起きた。聖女が、自分を追い詰めた相手の名前すら知らない。三年間、同じ学園にいて、一度も視界に入らなかった人間に足元を崩された。
そのことの意味が、会場にゆっくりと広がった。
マリアンヌの聖女の地位は剥奪された。神殿裁判にかけられることが、監査官から告げられた。エレーヌを脅迫していた神殿下級神官も、証拠に基づいて拘束された。監査局の形骸化に加担した神殿副官については、免職の上、鉱山送りとする処分が併せて通達された。
アレクシスは試験記録の補正を自ら公表したことで、王としての誠実さを示した。王太子の地位は維持された。
カティアの冤罪が公に晴れた。ヴィオラの名誉が回復された。
ヴィオラの取り巻きだった二人の令嬢が、ヴィオラの冤罪が晴れた直後に近寄ってきた。「わたしたちは信じていましたわ」と口を揃えた。ヴィオラは二人を一瞥し、「もういいわ。あんたたちとは終わり」とだけ言った。二人は顔を青くして、人混みに消えた。
ギルベルトの母の冤罪について、再審が決定したことが宰相から通達された。
パーティーが終わった後、私は会場を出て、旧館に向かった。
図書室の前の廊下。朝、鍵を置いて出たばかりの扉。
もう管理係ではないから、中には入れない。
廊下の壁にもたれて、息をついた。
足音が聞こえた。
ギルベルトだった。正装の上着を少し着崩して、廊下を歩いてきた。
「やっぱりここにいた」
「会場には、もう用がなかったので」
「僕もだ」
ギルベルトは私の隣に立った。壁にもたれず、こちらを向いたまま。
「三年間、ずっと言いたかったんです」
「何をですか」
「全部あなたのせいですよ、ロゼリア嬢」
初めて、名前で呼ばれた。トーレス嬢ではなく。
「書類を拾ったのも、資料を見つけたのも、ハンカチを拾ったのも、日付を並べたのも、薬学書を棚に置いたのも、メモを届けたのも、情報をまとめたのも。全部、あなたがやったことだ」
「……それ、苦情ですか」
「両方です」
ギルベルトの口元がほころんだ。三年間で初めて見る、作り物でない笑顔だった。
「それと、もう一つ」
ギルベルトが手を伸ばした。
私の手に、彼の手が重なった。
「僕と一緒に、図書室の外の世界も見ませんか」
手のひらが温かかった。
三年間、モブでいようとした。透明でいようとした。関わらないように、巻き込まれないように。
でも、書類を拾い、資料を渡し、ハンカチを拾い、日付を並べ、本を棚に置き、メモを届け、情報をまとめた。その全部が、ここに繋がっていた。
モブではなかった。
最初から、モブではなかったのかもしれない。
涙はこぼれなかった。泣くような場面ではなかった。ただ、胸の奥にあった三年分の何かが、静かにほどけていくのを感じた。
手を、握り返した。
「図書室の外は、あまり詳しくないんですが」
「大丈夫です。僕が案内しますから」
廊下の窓から、夕暮れの光が差していた。三年前の入学の朝と同じ、橙色の光。
でも、あの日とは違った。
隣に、人がいた。
(完)
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