未来ではなく過去を見て
夕方のニュースを、音だけで聞いていた。
画面を見なくても、だいたい内容は分かる。
「いじめ」「第三者委員会」「調査」「再発防止」
その単語の並びが聞こえた瞬間、少しだけ胃の奥が重くなる。
ここ最近、やけに多い。
いじめという言葉で包まれてはいるけれど、映像に映るのは明らかに暴力だ。
殴る、蹴る、押し倒す、首を絞める。
それを複数人で囲み、笑いながら撮影している。
私はそのたびに思う。
これは本当に「いじめ」という言葉で済ませていいものなのだろうか、と。
事件が起きた学校の校長は、決まって深く頭を下げる。
「このような事態を重く受け止め」
「事実関係を確認し」
「生徒の心のケアを最優先に」
言葉は丁寧で、順序も整っている。
けれど、ひとつだけ引っかかる。
その対応が始まるのは、いつも動画が拡散されたあとだ。
被害者が声を上げたからではない。
学校が異変に気づいたからでもない。
炎上したから、世間が騒いだから、スポンサーや教育委員会が動いたから。
そう見えてしまう。
もしあの動画が、内輪だけで消費されていたら。
もし誰も外に持ち出さなかったら。
その暴力は「指導の範囲」「子ども同士のトラブル」「誤解」で終わっていたのではないか。
そう考えると、背中が少し冷える。
学校はよく「見守る立場」と言う。
過干渉にならないように。
生徒の自主性を尊重するために。
その言葉自体は、たぶん正しい。
でも、見守るという行為は、本来、見ていることが前提のはずだ。
見ていなかったのではないか。
あるいは、見えていたのに見ないふりをしていたのではないか。
問題が表に出ると困るから。
学校の評価が下がるから。
自分の立場が危うくなるから。
ニュースキャスターは最後に言う。
「今後は再発防止に努めるとのことです」
その言葉を聞くたび、私は少しだけ目を伏せる。
再発防止、という言葉は便利だ。
過去を切り離し、未来の話にすり替えることができる。
けれど、被害者にとって過去は終わっていない。
身体に残った痛みも、心に染みついた恐怖も、今も続いている。
炎上してから動く正義は、正義なのだろうか。
誰かが壊れてからでなければ、守られない安全は、安全なのだろうか。
テレビの音量を下げる。
画面には、また別の学校の名前が映っている。
同じ構図、同じ謝罪、同じ言葉。
私は思う。
本当に必要なのは、頭を下げることではない。
炎上を恐れることでもない。
声にならない違和感や、教室の空気の歪みを、問題が起きる前に「問題だ」と認めること。
それだけなのに、と。
けれど、その「だけ」が、いちばん難しいのだろう。
だから今日もまた、いじめという名の暴力は、事件になってから、ようやく事件として扱われる。




