灰色の路地、奇跡の出会い
日が傾き始めると、スラムの空気はさらに淀む。
昼間の熱気と、地面から湧き上がる湿気が混ざり合って、息をするだけで肺が汚れていくような気分になる。 私は足を引きずるようにして、迷路のような路地を歩いていた。
「……はぁ」
ため息しか出ない。
今日は何か仕事がないかとあちこち回ってみたけれど、結果は散々だった。
荷運びの日雇い仕事は「女には無理だ」と門前払い。
酒場の皿洗いは「赤ん坊連れはお断り」と塩を撒かれた。
そりゃそうだよね。
いつ泣き出すかわからない赤ん坊を背負った、薄汚れたエルフなんて、誰が雇いたいと思う?
私だって逆の立場なら、関わりたくないと思うかもしれない。
世知辛いなんて言葉じゃ片付けられない、冷徹な現実がそこにあった。
背中のティアは、ぐずりもせずに大人しくしている。 それが逆に心配だった。
お腹が空きすぎて、泣く元気もないんじゃないか。
そう思うと、胸が締め付けられるように痛む。
ごめんね。役立たずな母親でごめんね。
足が棒みたいに重い。 靴底がすり減ったブーツを通して、石畳の冷たさと硬さが直に伝わってくる。
喉が渇いた。 お昼に食べたカビてない部分のパンなんて、とっくに消化されてしまった。
私の胃袋は、もう何時間も前から空っぽであることを訴え続けている。
でも、そんなの無視だ。 私の空腹なんてどうでもいい。
問題は、明日のティアのご飯だ。
今日手に入れたのは、誰かが落とした銅貨一枚だけ。
これじゃあ、明日食べるパンの耳すら買えやしない。
「……帰ろうか」
誰に言うでもなく呟いて、私は小屋への帰路についた。
もうこれ以上歩き回っても、体力を消耗するだけだ。
夕暮れのスラムは危険。 酔っ払いや、たちの悪い連中が動き出す時間。
影が濃くなるにつれて、私の不安も濃くなっていく。
早く、あのボロ小屋に戻らなきゃ。
あそこは寒くて汚いけど、壁があるだけマシな聖域だから。
薄暗い裏路地に入る。 ここは人通りが少なくて、ゴミの不法投棄場所みたいになっているエリアだ。
腐った木材や、錆びた鉄くずが山積みになっている。
カラスが数羽、何かをついばんでいて、私が近づくとバサバサと不吉な音を立てて飛び去った。
怖い。
自分の足音が、やけに大きく響く。
ティアを守れるのは私だけ。 背中の紐をぎゅっと握りしめて、足早に進む。
その時だった。 角を曲がった先で、ふと異質な色彩が目に飛び込んできた。
「……え?」
思わず足が止まる。 スラムには似つかわしくない、鮮やかな紫色の四足獣。
壊れて捨てられていた馬車の上に、それがいた。
「ね、ねこ……じゃないよね……」
猫にしては、ひと回りもふた回りも大きい。
中型犬くらいのサイズはあるだろうか。
全身が艶やかな紫色の毛で覆われていて、夕陽を浴びてキラキラと光っている。
スラムの汚泥の中で、そこだけ切り取られたみたいに綺麗だった。
そして何より目を引いたのは、その額。
長い毛の間から、宝石のようなものが埋め込まれているのが見える。
アメジストみたいな、透き通った紫色の石。
魔物? いや、魔獣? 知識としては知っているけれど、こんな間近で見るのは初めてだ。
危険な生き物かもしれない。 普段なら、すぐに背を向けて逃げ出していただろう。
でも、私の目は、その動物そのものよりも、その口元に釘付けになってしまった。
彼(彼女?)は、口に太い木の枝を咥えていた。
そしてその枝には、握り拳くらいの大きさの果実が、たわわに数個生っている。
熟した赤色。 表面にうっすらと蜜が浮いているのが見えるほど、瑞々(みずみず)しい。
リンゴ? それとももっと高級な果物? 種類なんてわからない。
わかるのは、「間違いなく美味しい」ということだけ。
ゴクリ、と喉が鳴った。 逃げなきゃいけないのに、足が動かない。
視線が、あの赤い果実に吸い寄せられて離れない。
あれ一つあれば、ティアにお腹いっぱい食べさせてあげられる。
すり潰して果汁をあげれば、ビタミンだって摂れる。
欲しい。 喉から手が出るほど欲しい。
グゥゥゥゥゥ――。
間の悪いことに、私のお腹が盛大に鳴った。
静まり返った路地に、情けない音が響き渡る。
あぁ、もう。 恥ずかしいとか、そんなレベルじゃない。
自分の生存本能が、理性を飛び越えて叫んでいるみたいだ。
ビクッとして身構える。 襲われるかもしれない。
ところが、その動物は襲いかかってくるどころか、コテリと首をかしげた。
「キュ?」
愛らしい鳴き声。 大きな金色の瞳が、私をじっと見つめている。
敵意は……なさそうだ。 それどころか、好奇心旺盛な子供みたいな目をしている。
そして、その視線が私の背中――ティアの方へと移った。
動物の目が細められる。 まるで、赤ん坊を慈しむような表情。
次の瞬間、額に埋め込まれた宝石が、カッと淡い光を放った。
「え? な、なに?」
魔法? 攻撃されるの?
とっさにティアを庇おうと身を固くした、その時。
フワリ。
動物が咥えていた枝から、果実が一つ、音もなく離れた。
落ちるんじゃない。 空中に浮いている。 まるで目に見えない手が、そこにあるみたいに。
「え? え?」
パニックで思考が追いつかない。
赤い果実は、プカプカと風船みたいに空中を漂って、ゆっくりと私の手元へと近づいてくる。
幻覚? お腹が空きすぎて、とうとう頭がおかしくなっちゃったのかな。
でも、目の前の果実はあまりにもリアルだ。 甘酸っぱい香りが、鼻先をくすぐる。
私は恐る恐る、両手を差し出した。
すると、果実はふわりと私の掌の上に降り立った。
ずっしりとした重み。 冷んやりとした感触。 夢じゃない。本物だ。
動物を見ると、彼は「キュルル」と喉を鳴らした。
尻尾をパタパタと振っている。 これって……。
「く、くれるの?」
震える声で尋ねる。 言葉が通じるのかわからないけど、聞かずにはいられなかった。
動物は、嬉しそうに「キュッ!」と短く鳴いた。
まるで「食べていいよ」と言っているみたいに。
嘘でしょ。
こんなスラムの真ん中で、見ず知らずの魔獣に施しを受けるなんて。
人間や同族のエルフには冷たくあしらわれてばかりなのに。
獣の方がよっぽど優しいなんて、皮肉な話だよね。
でも、今の私には、この果実がダイヤモンドより価値がある。
「あ、ありが……」
ありがとう、と言おうとした。 その時だった。
「おーい、ブイ~!」
遠くから、男の人の声が聞こえた。
若くて、ハリのある、よく通る声。
このスラムの空気には似つかわしくないほど、明るくて能天気な声色だ。
「キュッ?」
その声に反応して、動物――ブイと呼ばれたらしい――は耳をピクリと動かした。
あ、飼い主がいたんだ。 当然か。
こんな綺麗な毛並みをしてるんだもん、野良なわけがない。
ブイは私の方を一度だけ振り返ると、嬉しそうに声のした方へと駆け出した。
軽やかな足取りで、ゴミの山を飛び越えていく。
「あっ……」
引き止める間もなかった。 あっという間に、紫色の後ろ姿は路地の角を曲がって消えてしまった。 後に残されたのは、私と、背中のティアと、手の中にある赤い果実だけ。
しばらくの間、私は呆けていた。
狐につままれた気分だ。 いや、猫につままれた、かな。
掌にある果実をもう一度見る。 やっぱり本物だ。
かぶりつきたい衝動を抑えて、私はそれを大事に胸元の服の中にしまった。
ここなら、誰にも見つからないし、ティアにも潰されない。
路地にはもう誰もいない。 風が吹いて、ゴミ山からカサカサと乾いた音がするだけ。
さっきの男の人の声も、もう聞こえない。
ブイ。
不思議な名前。 不思議な生き物。 そして、不思議な優しさ。
私は、誰もいなくなった薄暗い路地に向かって、深く頭を下げた。
「……ありがとう」
声に出して言うと、涙が出そうになった。
今日初めて触れた「優しさ」が、あまりにも温かかったから。
どこの誰だかわからないし、もう二度と会えないかもしれないけれど。
この果実一つで、私たちは明日も生きていける。 文字通り、命の恩人だ。
顔を上げると、さっきより少しだけ、足取りが軽くなっている気がした。
早く帰ろう。 帰って、ティアにこれを食べさせてあげよう。
この子がどんな顔をして喜ぶか想像すると、自然と口元が緩んだ。
薄汚れたスラムの風景は変わらない。
悪臭も、寒さも変わらない。
でも、胸のポケットに入っている果実の重みだけが、私に少しだけの希望をくれていた。
私は大事に胸を押さえながら、夕闇の迫る路地を抜けて、我が家であるボロボロの小屋へと急いだ。




