何もないことが、全てだった
ストーブが止まった。灯油が切れたのだ。
部屋の中に、冷気が忍び込んでくる。ゆっくりと、確実に。まるで招かれざる客のように。
「やっぱり探しに行かないと。」僕が言った。
「そうだね。」
藍は毛布に包まっていた。顔色が悪い。このままでは凍死する。そう思った瞬間、その可能性が妙に現実的に感じられた。凍死。静かな死に方だ。眠るように、と誰かが言っていた。
「一緒に行く?」
「ううん。留守番してる。」
藍は首を横に振った。
「一人で大丈夫?」
「大丈夫。」
彼女の声には力がなかった。でも、それ以上は言わなかった。言っても無駄だと、何となくわかっていた。
僕は厚手のコートを着て、外に出た。
雪はやんでいたが、積雪は膝まであった。歩きにくい。一歩一歩が重い。
ガソリンスタンドの跡地に向かう。そこに、灯油の貯蔵タンクがあったはずだ。もう何度も汲みに来ているから、残りは少ないだろう。でも、何もしないよりはましだ。
街は静かだった。雪が音を吸収している。足音すらも、どこか遠い。
途中、凍りついた車を幾つも通り過ぎた。中には、まだ人の姿が見える車もある。スリープ状態の人々。死んでもいないが、生きてもいない。彼らは夢を見ているのだろうか。それとも、ただ虚無の中を漂っているのだろうか。
僕は立ち止まって、その一台を覗き込んだ。
運転席に座っているのは、三十代くらいの男性だった。スーツを着ている。恐らく、仕事に向かう途中だったのだろう。顔は穏やかだった。苦しんでいるようには見えない。
ふと思った。
この人は、今の方が幸せなのかもしれない。
目標を追いかける必要もない。競争する必要もない。評価される必要もない。ただ、眠っている。永遠に。
僕は車から離れた。
ガソリンスタンドに着くまでに、一時間以上かかった。タンクから灯油を汲み出す。容器に半分ほど入った。これで数日は持つだろう。
帰り道、僕は同じルートを戻った。雪の上に、自分の足跡が残っている。来た道を、そのまま帰る。まっすぐな線。
アパートに戻ると、藍は同じ場所で毛布に包まっていた。
「ただいま。」
「おかえり。」
僕はストーブに灯油を入れて、火をつけた。暖かい空気が部屋に広がっていく。
「ありがとう。」藍が言った。
「別に。」
僕はコートを脱いで、藍の隣に座った。二人で、ストーブの炎を見つめる。
「ねえ。」藍が口を開いた。「私たち、いつまでこうしてるんだろうね。」
「さあ。」
「いつか、灯油もなくなる。缶詰もなくなる。水も止まる。」
「そうだね。」
「それで、終わり。」
藍は淡々と言った。
「怖くない?」僕が聞いた。
「怖くない。というか、もう怖いとか怖くないとか、よくわからない。」
彼女はストーブの炎を見つめたまま、続けた。
「昔はさ、死ぬのが怖かった。というか、死ぬまでに何かを成し遂げなきゃいけないって思ってた。そうしないと、生きた意味がないって。」
「でも、今は?」
「今は……生きた意味なんて、最初からなかったんだって思う。意味を探すこと自体が、強迫観念だったんだって。」
炎が揺れている。規則的なようで、不規則だ。
「私たち、何も成し遂げてない。」藍が言った。「大学も中退した。仕事もしてない。家族も作ってない。社会に貢献してない。何もない。」
「うん。」
「でも、それでいいんだって、今なら思える。何もなくても、ただ在るだけで、それだけで。」
僕は何も言わなかった。言葉が見つからなかった。
「変だよね。」藍が小さく笑った。「世界が終わって、やっと自分を許せた。」
ストーブの炎が、彼女の横顔を照らしていた。
その時、僕は思った。
藍は美しい、と。
それは恋愛感情とは違う。もっと別の何か。存在そのものに対する、ある種の畏敬。生きている、という事実への。
「僕もだよ。」僕は言った。「僕も、やっと楽になれた。」
藍は僕の方を向いた。
「楽になれた、か。」彼女が繰り返した。「そうだね。楽になれた。」
それから、また二人で黙った。
部屋の中は暖かくなっていた。でも、窓の外は相変わらず白い。雪に覆われた世界。何もない世界。
「明日は何する?」藍が聞いた。
「わからない。」
「私も。」
それでいい、と思った。
明日のことは、明日考えればいい。いや、考えなくてもいい。ただ、明日が来たら、その時また考えればいい。
夜になった。
でも、その日は僕たちは別々の部屋に戻らなかった。
なんとなく、居間で過ごした。藍は毛布に包まったまま、僕はストーブの番をしながら。言葉を交わすでもなく、ただそこにいた。
深夜、藍が眠った。
規則的な寝息。生きている証。
僕も、いつの間にか眠っていた。
夢は見なかった。
ただ、暗闇の中を漂っていた。
それは、心地よかった。
目覚めると、藍の姿がなかった。
毛布だけが、丸められて置いてある。ストーブの火は消えかけていた。灯油を足す。炎が大きくなる。
窓の外は、また雪だった。
「藍?」
返事はない。彼女の部屋のドアは開いている。中を覗くと、誰もいなかった。
玄関を見る。彼女のコートがない。ブーツもない。
外に出たのだ。一人で。
僕は慌ててコートを羽織った。手袋を探す。見つからない。もういい。素手のまま、外に出た。
雪はまだ降っている。足跡がすぐに消えていく。でも、かすかに残った痕跡を辿る。藍の足跡は、街の中心に向かっていた。
「藍!」
叫んでも、雪が声を吸い込んでいく。
走る。雪の中を。息が切れる。冷たい空気が肺を刺す。
どれくらい走っただろう。時間の感覚がない。
ふと、立ち止まった。
目の前に、大きな広場があった。かつては噴水があり、人々が行き交っていた場所。今は一面の雪原だ。
その中心に、藍がいた。
立ち尽くしている。空を見上げて。
「藍。」
今度は叫ばなかった。静かに、名前を呼んだ。
彼女は振り返った。
「ごめん。起こしちゃった?」
「心配した。」
「ごめん。」
藍はまた空を見上げた。僕も隣に立って、同じように空を見た。
灰色の空から、雪が降ってくる。無数の白い粒。一つ一つが、ゆっくりと落ちてくる。
「きれいだなって思って。」藍が言った。
「そうだね。」
「昔は、雪が降っても気づかなかった。傘さして、早く建物に入ろうとしか思わなかった。」
彼女の声は静かだった。
「でも今は、雪を見られる。一粒一粒が、全部違う形をしてるんだって。そういうの、知らなかった。」
僕は何も言わずに、ただ聞いていた。
「ねえ。」藍が僕の方を向いた。「私たち、生き残ったんじゃなくて、生まれ直したのかもしれない。」
「生まれ直した?」
「うん。前の世界では、私たち生きてなかった。ただ、動いてただけ。機械みたいに。でも今は……今は、本当に生きてる気がする。」
藍の目は、いつもより輝いて見えた。
「変だよね。何もない世界で、やっと生きてるって感じられるなんて。」
僕は藍の言葉を反芻した。
生まれ直した。
そうかもしれない。前の世界の僕は、確かに死んでいた。心が。魂が。ただ、社会に要求される動作を繰り返していただけだった。
「寒くない?」僕が聞いた。
「寒い。でも、寒いっていう感覚がある。それが嬉しい。」
藍は両手を広げた。雪が、彼女の手のひらに降り積もる。
「生きてるって、こういうことなんだね。」
彼女はそう言って、笑った。
本当の笑顔だった。この数日間で、初めて見る、心からの笑顔。
僕も、笑っていた。
二人で、雪の中に立って、笑っていた。
何がおかしいのかわからない。でも、笑えた。
「帰ろう。」僕が言った。
「うん。」
来た道を戻る。二人の足跡が、雪の上に並んでいる。
アパートに戻ると、部屋は冷え切っていた。ストーブの火が消えていた。また灯油を入れて、火をつける。
「ありがとう。」藍が言った。「探しに来てくれて。」
「当たり前だよ。」
僕たちは濡れたコートを脱いで、ストーブの前に座った。
「お腹空いた。」藍が言った。
「何か作る?」
「うん。何か作ろう。」
僕たちは缶詰を開けた。それから、藍が栽培していた野菜を少し。大したものは作れないが、それでも、二人で料理をするという行為には、何か特別なものがあった。
鍋に火をかける。湯気が立ち上る。部屋に匂いが広がる。
「いい匂い。」藍が言った。
「ほんとだね。」
匂いを感じている。味を感じている。温度を感じている。
生きている。
料理ができた。二人で食べた。
「美味しい。」藍が言った。
「缶詰なのに?」
「うん。美味しい。」
僕も、美味しかった。
それは缶詰の味がしたからではない。生きている、という実感の味がした。
食事が終わって、皿を洗う。藍が拭く。
「ねえ。」藍が言った。「明日も一緒にいていい?」
「ずっと一緒にいるだろ。」
「そうじゃなくて。明日も、こうやって。一緒に。」
彼女は少し照れたように、視線を逸らした。
「うん。」僕は答えた。「明日も、一緒に。」
その夜、僕たちは初めて、同じ部屋で眠った。
別々の布団だったけれど、同じ空間で。
暗闇の中で、藍の寝息が聞こえた。
生きている音。
僕も、眠りについた。
夢を見た。
それは懐かしい夢だった。大学のキャンパス。満員電車。オフィスビル。
でも、怖くなかった。
それはもう、遠い世界の出来事だった。
僕は、こちら側にいる。
藍と一緒に。
この、何もない世界で。
でも、何もないことが、全てだった。




