表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

4/4

何もないことが、全てだった

ストーブが止まった。灯油が切れたのだ。


部屋の中に、冷気が忍び込んでくる。ゆっくりと、確実に。まるで招かれざる客のように。


「やっぱり探しに行かないと。」僕が言った。

「そうだね。」


藍は毛布に包まっていた。顔色が悪い。このままでは凍死する。そう思った瞬間、その可能性が妙に現実的に感じられた。凍死。静かな死に方だ。眠るように、と誰かが言っていた。


「一緒に行く?」

「ううん。留守番してる。」


藍は首を横に振った。


「一人で大丈夫?」

「大丈夫。」


彼女の声には力がなかった。でも、それ以上は言わなかった。言っても無駄だと、何となくわかっていた。


僕は厚手のコートを着て、外に出た。


雪はやんでいたが、積雪は膝まであった。歩きにくい。一歩一歩が重い。


ガソリンスタンドの跡地に向かう。そこに、灯油の貯蔵タンクがあったはずだ。もう何度も汲みに来ているから、残りは少ないだろう。でも、何もしないよりはましだ。


街は静かだった。雪が音を吸収している。足音すらも、どこか遠い。


途中、凍りついた車を幾つも通り過ぎた。中には、まだ人の姿が見える車もある。スリープ状態の人々。死んでもいないが、生きてもいない。彼らは夢を見ているのだろうか。それとも、ただ虚無の中を漂っているのだろうか。


僕は立ち止まって、その一台を覗き込んだ。


運転席に座っているのは、三十代くらいの男性だった。スーツを着ている。恐らく、仕事に向かう途中だったのだろう。顔は穏やかだった。苦しんでいるようには見えない。


ふと思った。


この人は、今の方が幸せなのかもしれない。


目標を追いかける必要もない。競争する必要もない。評価される必要もない。ただ、眠っている。永遠に。


僕は車から離れた。


ガソリンスタンドに着くまでに、一時間以上かかった。タンクから灯油を汲み出す。容器に半分ほど入った。これで数日は持つだろう。


帰り道、僕は同じルートを戻った。雪の上に、自分の足跡が残っている。来た道を、そのまま帰る。まっすぐな線。


アパートに戻ると、藍は同じ場所で毛布に包まっていた。


「ただいま。」

「おかえり。」


僕はストーブに灯油を入れて、火をつけた。暖かい空気が部屋に広がっていく。


「ありがとう。」藍が言った。

「別に。」


僕はコートを脱いで、藍の隣に座った。二人で、ストーブの炎を見つめる。


「ねえ。」藍が口を開いた。「私たち、いつまでこうしてるんだろうね。」

「さあ。」

「いつか、灯油もなくなる。缶詰もなくなる。水も止まる。」

「そうだね。」

「それで、終わり。」


藍は淡々と言った。


「怖くない?」僕が聞いた。

「怖くない。というか、もう怖いとか怖くないとか、よくわからない。」


彼女はストーブの炎を見つめたまま、続けた。


「昔はさ、死ぬのが怖かった。というか、死ぬまでに何かを成し遂げなきゃいけないって思ってた。そうしないと、生きた意味がないって。」

「でも、今は?」

「今は……生きた意味なんて、最初からなかったんだって思う。意味を探すこと自体が、強迫観念だったんだって。」


炎が揺れている。規則的なようで、不規則だ。


「私たち、何も成し遂げてない。」藍が言った。「大学も中退した。仕事もしてない。家族も作ってない。社会に貢献してない。何もない。」

「うん。」

「でも、それでいいんだって、今なら思える。何もなくても、ただ在るだけで、それだけで。」


僕は何も言わなかった。言葉が見つからなかった。


「変だよね。」藍が小さく笑った。「世界が終わって、やっと自分を許せた。」


ストーブの炎が、彼女の横顔を照らしていた。


その時、僕は思った。


藍は美しい、と。


それは恋愛感情とは違う。もっと別の何か。存在そのものに対する、ある種の畏敬。生きている、という事実への。


「僕もだよ。」僕は言った。「僕も、やっと楽になれた。」


藍は僕の方を向いた。


「楽になれた、か。」彼女が繰り返した。「そうだね。楽になれた。」


それから、また二人で黙った。


部屋の中は暖かくなっていた。でも、窓の外は相変わらず白い。雪に覆われた世界。何もない世界。


「明日は何する?」藍が聞いた。

「わからない。」

「私も。」


それでいい、と思った。


明日のことは、明日考えればいい。いや、考えなくてもいい。ただ、明日が来たら、その時また考えればいい。


夜になった。


でも、その日は僕たちは別々の部屋に戻らなかった。


なんとなく、居間で過ごした。藍は毛布に包まったまま、僕はストーブの番をしながら。言葉を交わすでもなく、ただそこにいた。


深夜、藍が眠った。


規則的な寝息。生きている証。


僕も、いつの間にか眠っていた。


夢は見なかった。


ただ、暗闇の中を漂っていた。


それは、心地よかった。


目覚めると、藍の姿がなかった。


毛布だけが、丸められて置いてある。ストーブの火は消えかけていた。灯油を足す。炎が大きくなる。


窓の外は、また雪だった。


「藍?」


返事はない。彼女の部屋のドアは開いている。中を覗くと、誰もいなかった。


玄関を見る。彼女のコートがない。ブーツもない。


外に出たのだ。一人で。


僕は慌ててコートを羽織った。手袋を探す。見つからない。もういい。素手のまま、外に出た。


雪はまだ降っている。足跡がすぐに消えていく。でも、かすかに残った痕跡を辿る。藍の足跡は、街の中心に向かっていた。


「藍!」


叫んでも、雪が声を吸い込んでいく。


走る。雪の中を。息が切れる。冷たい空気が肺を刺す。


どれくらい走っただろう。時間の感覚がない。


ふと、立ち止まった。


目の前に、大きな広場があった。かつては噴水があり、人々が行き交っていた場所。今は一面の雪原だ。


その中心に、藍がいた。


立ち尽くしている。空を見上げて。


「藍。」


今度は叫ばなかった。静かに、名前を呼んだ。


彼女は振り返った。


「ごめん。起こしちゃった?」

「心配した。」

「ごめん。」


藍はまた空を見上げた。僕も隣に立って、同じように空を見た。


灰色の空から、雪が降ってくる。無数の白い粒。一つ一つが、ゆっくりと落ちてくる。


「きれいだなって思って。」藍が言った。

「そうだね。」

「昔は、雪が降っても気づかなかった。傘さして、早く建物に入ろうとしか思わなかった。」


彼女の声は静かだった。


「でも今は、雪を見られる。一粒一粒が、全部違う形をしてるんだって。そういうの、知らなかった。」


僕は何も言わずに、ただ聞いていた。


「ねえ。」藍が僕の方を向いた。「私たち、生き残ったんじゃなくて、生まれ直したのかもしれない。」


「生まれ直した?」


「うん。前の世界では、私たち生きてなかった。ただ、動いてただけ。機械みたいに。でも今は……今は、本当に生きてる気がする。」


藍の目は、いつもより輝いて見えた。


「変だよね。何もない世界で、やっと生きてるって感じられるなんて。」


僕は藍の言葉を反芻した。


生まれ直した。


そうかもしれない。前の世界の僕は、確かに死んでいた。心が。魂が。ただ、社会に要求される動作を繰り返していただけだった。


「寒くない?」僕が聞いた。

「寒い。でも、寒いっていう感覚がある。それが嬉しい。」


藍は両手を広げた。雪が、彼女の手のひらに降り積もる。


「生きてるって、こういうことなんだね。」


彼女はそう言って、笑った。


本当の笑顔だった。この数日間で、初めて見る、心からの笑顔。


僕も、笑っていた。


二人で、雪の中に立って、笑っていた。


何がおかしいのかわからない。でも、笑えた。


「帰ろう。」僕が言った。

「うん。」


来た道を戻る。二人の足跡が、雪の上に並んでいる。


アパートに戻ると、部屋は冷え切っていた。ストーブの火が消えていた。また灯油を入れて、火をつける。


「ありがとう。」藍が言った。「探しに来てくれて。」

「当たり前だよ。」


僕たちは濡れたコートを脱いで、ストーブの前に座った。


「お腹空いた。」藍が言った。

「何か作る?」

「うん。何か作ろう。」


僕たちは缶詰を開けた。それから、藍が栽培していた野菜を少し。大したものは作れないが、それでも、二人で料理をするという行為には、何か特別なものがあった。


鍋に火をかける。湯気が立ち上る。部屋に匂いが広がる。


「いい匂い。」藍が言った。

「ほんとだね。」


匂いを感じている。味を感じている。温度を感じている。


生きている。


料理ができた。二人で食べた。


「美味しい。」藍が言った。

「缶詰なのに?」

「うん。美味しい。」


僕も、美味しかった。


それは缶詰の味がしたからではない。生きている、という実感の味がした。


食事が終わって、皿を洗う。藍が拭く。


「ねえ。」藍が言った。「明日も一緒にいていい?」

「ずっと一緒にいるだろ。」

「そうじゃなくて。明日も、こうやって。一緒に。」


彼女は少し照れたように、視線を逸らした。


「うん。」僕は答えた。「明日も、一緒に。」


その夜、僕たちは初めて、同じ部屋で眠った。


別々の布団だったけれど、同じ空間で。


暗闇の中で、藍の寝息が聞こえた。


生きている音。


僕も、眠りについた。


夢を見た。


それは懐かしい夢だった。大学のキャンパス。満員電車。オフィスビル。


でも、怖くなかった。


それはもう、遠い世界の出来事だった。


僕は、こちら側にいる。


藍と一緒に。


この、何もない世界で。


でも、何もないことが、全てだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ