一 銀色の少女
夜道を一頭の馬が疾走していく。その背の騎手は全身傷だらけだ。主人の命令を受け、彼はこの地方最大の都市ルーティーの中で最も大きな屋敷を目指し、ひた走っていた。
「開門っ。アゴル家エルト様の命により、アルティナ様へ申し上げたき事あり、参上致した。開門をっ」
それから数十分後。息を引き取った騎手を別室に安置して、ヒュドルトを姓に名乗るその屋敷の一室に、三つの人影が集まっていた。一つは老人、一つは少女、一つは青年である。室内は、重苦しい雰囲気に包まれていた。
アゴル家からの使者がもたらした知らせは、あまりにも不幸な知らせであった。ヒュドルト家の一人娘、アルティナの幼なじみであるアゴル家の双子、エルトとシェルがクリネスと名乗る人物に率いられた一団に襲われ死亡したというのである。
燃えるような緋色の髪に金色の瞳を悪戯っぽく輝かせた、少年らしい活発さを持っていたエルトとシェル。いずれ、この友情が愛情に変わるのだろうと、アルティナが密かに思っていた二人である。
「アルティナ様。覚悟をお決めになられた方がよろしゅうございます」
老人が言った。
「そんな事、簡単に言わないでよ……」
一人だけ椅子座っている少女、アルティナがそう応じると
「情けない。それがヒュドルト家の末裔たる方のお言葉ですか」
と老人が嘆いた。
「まあまあ、ネア殿。アルティナ様はまだ一四歳。本来なら儀式に参加する事さえ許されない御年です。それをいきなり、神宝を手に入れる旅に出ろ、言われてもそうそう納得はなさらないでしょう」
「ヒューザー殿!」
老人の達者な声が響いた。
「事態は、我らの想像をはるかに越えておるのですぞっ。クリネスとか申す奴らは、“魔法”を使って西の辺境の民を害しておる。まして、守護家の内シャマイラ家とアゴル家までが敗れ去った。かつての戦士団が存在せぬ以上、我らに残された術は神宝を手にする事のみ。現当主のジェルミー様がご病気の今、ただ一人の正当な後継者たるアルティナ様が、その任に当たられるのは、当然の事ではござらぬかっ」
唾を飛ばして力説するネア老人を、真っ赤な目を腫らしたアルティナは睨みつけた。肩の辺で揃えた銀の髪が軽く揺れ、蒼氷色の瞳が不満を最大限に訴える。美少女と呼ぶに相応しい容貌が台なしだ。
「ネアはいいわよ。そうやって、私に押し付ければそれで済むんだから」
「押し付ける?何という事をおっしゃるのですっアルティナ様っ」
一気に血圧の上がったネア老人にアルティナはなおも
「だってそうじゃない。どれぐらいかかるかわからない旅に出ろ、なんて押し付け以外の何ものでもないわ」
と言い募る。
「アルティナ様っ」
「とにかく、私はいやよ。海の果てなんてとんでもない所へ行くなんて、ごめんだわ」
「アルティナ様っ」
さらに血圧を上げ、ゆで蛸状態になってネアが地団太を踏む。
「ネア殿、落ち着いて。アルティナ様もそんなネア殿を刺激するような言動は謹んで下さい」
ヒューザーがいつものように仲裁に入る。アルティナが産まれた時から些かも変わらない、美しく穏やかな顔が彼女を見つめた。
「わかっておいでのはずですよ。聖蛇オロスの血脈にして、水を司った魔法を使うヒュドルト家。その後継者がどのような責務を負うのか。儀式に参加しなくても、常々ネア殿から教わっておられるはず。そうですね?」
アルティナは黙って頷いた。
「クリネスの狙いは、守護家の殲滅です。それさえ成し遂げれば、神宝などないにも等しい。そうなれば、人間達を支配する事など容易いこと。人間には、“魔法”に対する力などありませんからね。ここまで言えば、おわかりですね?こうしてこの屋敷にいても、奴らは襲ってきます。もしかしたら、すでに土の家系、ラントゥ家のビフォーレ様も命を落とされたかもしれません。大人しく殺されるのを待つか。実戦を兼ねて旅に出て、神宝を手にし、聖蛇の御加護の下、奴らと戦うか。どちらを選ばれますか、アルティナ様」
涼しい顔をして、ヒューザーは苛酷な現実を突き付けてくる。アルティナが、淡い色で纏まった外見とは裏腹に、激しい気性を胸に秘めている事を知り尽くしていればこその発言だ。
「ヒューザーはネアと違って性格が悪い」
アルティナは上目使いにヒューザーを睨みつける。普通の男なら、ごめんね、と言ってやりたくなる可憐さも持ち合わせているアルティナだが、相手がそれ以上の美形では何の効果も発揮しない。相手が動じる様子がないと悟って、下唇を噛み締める。駄々子のような仕草にさすがのヒューザーも心を動かされたのか、
「大丈夫ですよ。お一人にはしません。ヒュドルト家の“衛人”である私も、当然ご一緒します」
と優しく言った。
「寂しいから嫌だって言ってるんじゃないの」
「では、なぜです?」
「怖い……」
「怖い?何がです?」
「私はね、まだ一四歳なのよ。まともに魔道書を読んだ事もないのよ。できる訳、ないじゃない。いくらヒューザーがいてくれたって、どこにあるかわからない海の国なんて、行けるわけないじゃない……」
「大丈夫。私がいる以上、この旅であなたが死ぬ事はありません。あなたを死なせない為に私がいるのですから」
ヒューザーのその言葉にネアが彼から目を反らせる。その微妙な動きにアルティナは気づかなかった。
「だけど、やっぱり怖いよ……」
実は、アルティナはまだ一度も呪文を使った事がない。使い方は知っている。それこそ産まれた時から今日まで、毎日のように精霊を呼ぶ“呼力”と支配力である“霊力”を高める訓練は積み重ねてきた。だが、実戦の経験は皆無なのだ。
かつては、絶大の威力を持つ“魔法”を使う守護家は人々の尊敬を受けていた。だが、魔物とて剣で殺す事ができ、魔法が特定の敵のみではなく、周囲の味方にも被害を与えると分かってから、守護家の活動の場は格段に減った。今では余程の事がない限り、守護家の力に頼る者はいない。
アルティナは、そうした使う必要がない、もしくはいつ使うかわからない力の使い方を習っていたのだ。従って、彼女は自分の力がどれほどのものか、全く知らない。もちろんその力で誰かを傷つけた事もない。それをいきなり使えと言われ、戦えと言われても、恐怖しか感じない。そのはずだ。
(私、どうにかなりそう……)
アルティナは、自分の中に“戦士”の血を感じていた。一番怖いのは、戦いではなく、戦いを欲している、もう一人の自分だった。蒼い目に欲情に似た炎がちらつく。体の芯が、戦いの予感に燃えている。それが、何よりも怖い。それをどう表現したら良いのか、アルティナにはわからなかった。
「アルティナ様……」
ネアが幼子のように震えるアルティナの手を握った。
「ヒューザー殿がおっしゃった通りです。旅立たれませ。せめてアルティナ様だけでも、守護家の血をお残しください。そのためにあなたはお生まれになったのですから」
「ネア……」
「できるなら、私もご一緒したいのですが、そういう訳にも参りますまい。ジェルミー様のお世話をせねばなりませんからな。どうぞ、これを」
ネアが一つの鍵を差し出した。
「何、これ?」
「書庫の引き出しの鍵でございます。そこにある魔道書をお持ちください。そして、ジェルミー様の枕元へお行きなって、“継承”を……」
ネア老人の目が涙で潤んでいる。アルティナは、理由もなく大声で泣きたくなった。いつまでも、“少女”でいたかった。ヒュドルト家の我がまま娘。お転婆な姫として町の人に愛された自分のままでいたかった。
「ネア。どうしても、戦わなきゃいけないの?」
「アルティナ様……」
「何もせずに死ぬのが本望とおっしゃっるのならば、それでも私は構いません。私の生死はヒュドルト家と共にあります。最後の血族であるあなたが死ぬと言うのなら、その死に殉じましょう」
「ヒューザー……」
流れるような長い銀の髪と、サファイアブルーの瞳をした青年は、アルティナが見た中で一番優しい顔をしていた。
が、ふいにその表情が変わった。アルティナを見つめていた瞳が大きく見開き、感動の色を湛える。
「ああ。あなたは、死ぬ事よりも、戦う事の方が怖いのですね。戦う事で変わってしまう自分が怖いと。……やはり、“聖婚”で産まれた方だ。戦いの予感に欲情しておられる。まだ、“儀式”も済ませていないというのに……」
ヒューザーのしなやかな指が、アルティナのうっすらと赤い頬に触れた。
「ヒューザー、何言ってるの?どうして私が怖いと思ってる事がわかるの?“聖婚”で産まれたって、どういう事?」
アルティナは脅えた目でヒューザーを見つめた。ヒューザーが優しく穏やかな表情をしているだけに、一層その言葉の意味が恐ろしい。目の前にいる“衛人”である美貌の青年が、まるで自分の知らない生き物のように見えた。
「ヒューザー殿っ。この非常時にアルティナ様に何を言う気じゃ」
ネアがアルティナを庇うように、ヒューザーとの間にその萎びた老体を滑り込ませた。
「私は、感動しているのです。この非常時だからこそ、この方が産まれたのだと。ああ、聖蛇オロスに誉あれ。ヒュドルト家こそ、やはり聖蛇の真の末裔。水という蛇にとって必要不可欠なものを司る家系だからこそ、アルティナ様という方が産まれたのです。この方なら、心配せずともクリネスなどという邪心者を滅ぼしてくださる。私は、今程ヒュドルト家の衛人であった事に感謝した事はありません」
恍惚とした表情で、ヒューザーがアルティナを見つめる。
「ヒューザー、どうしたのよ、一体」
「気になさらないで下さい。これは、私にしかわからない喜びです」
「ネア?」
アルティナは、自分を守るように立つ老人に答えを求めた。いつもそうすれば、怒りながらでも、老人は答えをくれた。だが、今日は
「私にもわかりません。所詮、私は人。この期に及んでは何もできない、無力な存在にしかすぎません」
と悲しそうに首を振るだけだった。
「アルティナ様、お急ぎを。クリネスがいつここへやってくるかわかりません。とりあえず、これを」
ネアはそう言って、革袋をアルティナに持たせた。
「金と宝石が入っています。当分はこれで十分にしのげましょう」
「ネア……」
「さあ、早く書庫へ。そして、ご寝所へ」
「結局、ネアも私に戦えって言うのね。それが、今という時代にヒュドルト家の一人娘として産まれた私に要求される事だって言うのね」
アルティナは、そう呟いた。
「生きていて頂きたいのです、アルティナ様に。私が一生懸命お育てした、たった一人の姫様である、あなたに」
アルティナは、じっとネアを見つめた。自分を産んですぐに死んでしまった母の代わりに今まで育ててくれた人だ。その老人が、涙で顔を濡らしながら、戦えと言う。
「ネア。私がどんなになっても、怖がらないで怒ってくれる?」
「怒らせるような事をなさるのですか?」
「そうじゃなくって……」
「アルティナ様は、アルティナ様ですよ。心配なさる事は何もありません。ただお心のままに、ご自分の命を大切になさって、生き延びて下されば、それで十分です」
「ネア……」
アルティナはネアに抱き着いた。とめども無く涙が溢れ、少女の頬を濡らす。ヒューザーはじっとそれを見ていたが、やがて
「アルティナ様、書庫へ。一刻を争う時ですから」
と声をかけた。
「うん」
アルティナは、童女のように両腕で涙を拭った。手の中の鍵をぎゅっと握り締める。冷たい金属の感触が、動揺する心を支えてくれるようだ。
「ネア、父様をお願いね。ヒューザー、行くわよ」
そう言ったアルティナは、もう泣いてはいない。幼さを残しながらも、ヒュドルト家の後継者としての誇りを取り戻した顔をしている。ヒューザーは、はい、と返事をしながら、そんなアルティナを満足そうに見つめた。
屋敷の地下に書庫はある。その重い扉を開けて、アルティナは一番奥にある書棚の引き出しに手を触れた。深呼吸を一つして、鍵を差し込む。確実な手応えの後、かちり、というかすかな音がした。
「開けるわ」
ヒューザーが無言で頷く。アルティナは、ゆっくりと引き出しを開けた。
「へ?」
場違いな程、気の抜けた声を出していた。中に入っていたのは、水晶玉が一つだけ。書物など、どこにもない。
「何でこれが魔道書なの?書っていうからには、本でしょう?」
「いいえ。それが魔道書です。ヒュドルト家のみに伝わる魔法の知識を封じた水晶玉。手にとってごらんなさい」
とりあえず、アルティナはヒューザーの言う通りにした。
「うわっ」
手に乗せた途端、その水晶玉がアルティナの中に吸い込まれていく。少しずつ、それが沈み込んでいく度にアルティナの頭の中に言葉が浮かんでは消えていく。だが、忘れるわけではない。しまい込まれていくのだ。
水晶玉が完全にアルティナの中に潜り込み、手の甲から抜け落ちた。澄んだ音をたてて床を転がっていくそれを、アルティナはぼんやりと見ていた。
「アルティナ様」
ヒューザーがアルティナの体を揺する。アルティナの息が荒い。体も熱を持っているようだ。
「アルティナ様、しっかりなさって下さい」
歴代の当主に仕えてきたヒューザーだが、今までこんな反応を示した人物はいなかったと内心で焦る。
「ヒューザー……これが、ヒュドルト家の知識なの?こんな……こんな事が本当にできるの、この私に?」
「できます。それ以上の事もできるようになります。現当主であるジェルミー様からの“継承”を済ませられれば」
アルティナは脱力してしまった体をヒューザーに預け、自分の中を駆け巡った“知識”を喜ぶ血と戦っていた。
「ヒューザー。私、やっぱり怖い。自分が何をしてしまうか、わからない。どうしよう。ものすごく、怖いよ」
「恐れる必要はありません。思う存分戦う事が、聖蛇オロスの御心に適う事のなのですから」
ヒューザーは、アルティナを優しく抱き締め、そう囁いた。
「聖蛇オロス……妹オロネスと契り眠りについた蛇神。本当にいるの?」
「おられますよ。そうでなければ、なぜあなたが今ここにいるのです?あなたは、オロネスが産んだ、四人の人頭蛇身の兄弟の末裔なのですよ」
アルティナは、ヒューザーの言葉を否定したかった。ネアに見せられた始祖の肖像は、完璧なまでの美貌を持った完全体のヒューマノイドだったからだ。
「聖蛇オロスの子、ヒュドルト。その末裔。それさえなければ、私、戦わずに済んだのにね」
「まだ、ためらっておいでですか?魔道書を手にし、その知識を己の物になさっても?」
「だからよ。手しなければよかった。血が騒ぐの、さっきよりももっと。戦いが近くなった事もあるんだろうけど、この呪文を使ってみたくて仕方ないの。でも、そうしたら、きっと私は、今の私じゃなくなる」
「それが、戦いの神でもあった聖蛇の末裔の証しです。アルティナ様。ジェルミー様の御寝所へ、参りましょう」
アルティナは、ゆっくりとヒューザーから離れ、床に転がった水晶玉を拾いあげた。そして、それを引き出しに仕舞い鍵をかけた。最後にもう一度、ちらりと目を遣ってから、アルティナは書庫の扉を閉め、父の眠る寝室へと向かった。
「父様、失礼します」
この前、そう声をかけたのは何年前の事だろうか。アルティナは、呼ばれない限り父の元へは行かない。何故かネアがそうしろと言ったからだ。ヒューザーもそれに関してネアに異議を唱えなかったせいもある。アルティナも強いて父に会いたいとは思わなかったから、今日まで何の疑問も持たずにきていた。
静かに扉が開いた。中には父付きのメイドがいるのだ。深々とアルティナに頭を下げるその老女は、いつも必要以上の事は口にしない。今日も
「先程からお待ちでございます」
と一言だけ話すと脇へ退き、アルティナとヒューザーに道を譲った。
「父様。アルティナでございます」
「うむ」
父はそれしか言わない。途方にくれたように、アルティナはヒューザーを見上げた。
「お側へ」
ヒューザーに促されて、ようやく一歩、寝台に近づく。
「父様」
「アルティナ。もっと側へ来て、私の手を取りなさい」
父の言葉に従って、さらに一歩寝台へ近づいたアルティナは、驚きのあまり声を上げそうになった。
寝台で眠る父の体は衰弱しきっていた。やせ細り、骨と皮ばかりで、それは肉体というより魂を入れておくだけの器にしか見えない。ほんの少し力を入れればもろく崩れてしまいそうな父の手を、アルティナはそっと握った。
「大きくなった。ますます、あれに良く似てきたな……」
父はそう言って、懐かしそうにアルティナを見つめた。
「母様にそんなに良く似ているのですか?」
「似ている。生き写しだ……」
これほど幸せそうな父の顔を見るのは、初めてだ。アルティナは、不思議な思いで父を見つめた。
「ジェルミー様。“継承”を」
ヒューザーの、どこか冷めたような声がした。
「ああ、そうか……アルティナは、オロスの御元に行かねばならんのか。神宝を手にするために。くだらん……」
「父様?」
弱々しい声でありながら、隠しようのない侮蔑の響きがある。
「ジェルミー様。そのようなお言葉、ヒュドルト家の当主がおっしゃる事ではございません」
「ヒューザー。私はお前を今程憎いと思った事はない。ヒュドルト家の衛人。お前が憎くて仕方がない。お前さえいなければ、私はジゼールと契るような事はしなかった」
「そうでしょうか?私には、本望を遂げられたように見えましたが?」
「ヒューザーっ貴様……」
アルティナは、二人が目には見えない火花を散らして舌戦を交わすのを、息を殺して聞いていた。
父が口にした名が母の名であろうと見当はつく。そう、アルティナは母の名さえ知らないのだ。ネアも、そしてヒューザーも今まで教えてはくれなかった。母の事は何一つ知らない。ただ、自分を産んですぐに死んでしまったという事しか、知らない。
「“儀式”などと言いながら、お前達“衛人”があのクジに仕掛けをしていたことぐらい知っている。我々は、お前達のおもちゃではない」
父はまだヒューザーに食ってかかっていた。まるで、この時のためだけに今まで生きてきたのだと言わんばかりの勢いだ。
「ジェルミー様。落ち着かれませ。お体に障ります」
「アルティナよ、ヒューザーに心を許すな。お前もいつこれの犠牲にされるか、わからぬぞ」
「父様……」
アルティナは思わずヒューザーを見た。ヒューザーは柔和な表情のまま、すっと手をジェルミーの方へ伸ばしていった。繊細な指先がジェルミーのか細い首にかかる。
「ヒューザーっ。何するつもり?」
「喉を封じただけです。これ以上会話をお続けになれば、呼吸器に過度の負担がかかります」
父の目が、憎悪に燃えている。アルティナと同じ蒼い目に浮かぶ虹彩が縦に細長く変わっていく。それは、蛇の目だ。
「父様の目が……ヒューザー?」
「大丈夫です。この目が聖蛇の末裔の証しだと思って下さい。ジェルミー様はここで呪文を使おうとなさっておられるのです」
「呪文?どうしてっ」
「私をそれほど憎んでおいでだからですよ」
アルティナは頭が混乱してしまった。
クリネスが自分の命を狙っていると聞かされ、伝説でしかないと思っていた、神の眠る海の国へ“神宝”を取りに行く旅に出ろと言われ、そのために父から“継承”を受けろと言われた。ところが、その父は痩せ衰え、戦士としての能力はほとんど無いにもかかわらず、ヒューザーに敵意を剥き出しにする。気が狂いそうだ。
「父様、ヒューザー、いい加減にしてっ。一体何があったの?“儀式”のクジってどういう事?それと母様とどういう関係があるのっ」
アルティナの叫びにジェルミーの“気”が消えた。目が普段と同じ、人間の目に戻っている。
悲しい目が、アルティナを見つめていた。喉を封じられているために、何も言えないのだ。だが、万感の思いを込めたその父の眼差しは、アルティナの胸に悲しい予感を抱かせた。父の体から力が抜けていくのがわかる。もう、全てを諦めてしまったようだった。
「ジェルミー様。腕を」
静かな声でヒューザーが言った。父は、何の抵抗も見せずに、剥き出しの腕をヒューザーに委ねた。
「聖蛇オロスの長子、ヒュドルトの血と力を継ぐ者よ。古よりその血の中に伝わる全てを今ここに、新たなる当主ヒュドルト=アルティナに与えん」
ヒューザーの声が朗々と部屋に響く。いつのまにか握られた、銀のナイフがジェルミーの腕を切り裂いた。
「ヒューザーっ」
「アルティナ様。ジェルミー様の傷口に口づけをなさいませ。そして、その血をお飲み下さい。それが、“継承”です」
「やだっ。そんなのできないっ」
「アルティナ様」
(アルティナ、私の血を飲みなさい。そうしなければ、ヒュドルト家の全てが失われてしまう。それだけは、してはならない。いずれせねばならない事だ。何も知らずにしなくてはならない、というのは辛かろう。だが、運命と思って受け入れなさい)
「父様」
アルティナの頭の中で父の声がした。
アルティナは、父の枕元にひざまづいた。恭しくその腕を両手で捧げ持ち、涙を流しながら、赤い血が零れる傷口に唇を押し当てた。生暖かい血が、アルティナの口の中に流れ込む。一度も口にした事がなくても、何故か誰もがすぐにわかる、あの独特の味が口控内に広がる。
アルティナは、自分の細胞の一つ一つが歓喜の声を上げていると思った。古の記憶が蘇る。水晶玉から伝えられた“知識”が細胞の全てに満ち、口伝よりも確かに、自分に伝えられた力を感じる。戦う術を思い出した喜びが全身を貫いていた。
ゆっくりと立ち上がり、アルティナは唇についた血を舌でちろりと嘗めとってから、父の腕をその体の上においた。
「父様。これより、アルティナは聖蛇オロスのいらっしゃる、海の国、シャナルを目指して旅立ちます。ヒュドルト家の末裔として、立派に務めを果たせるよう、この地より祈っていて下さいませ」
わざと形式ばった言い方をして、アルティナは父に背を向けた。部屋を出ようとした、その背後から
「ヒューザー。娘の命を徒に弄ぶのだけは止めろ。それだけは、お前の主人として、このヒュドルト家の当主として命じる」
と父の弱々しい、だが、明確な意志の力を感じさせる声が聞こえた。
「わかっております」
ヒューザーが振り向く。
「ジェルミー様。私とて、アルティナ様をお守りしたいのです。そう、歴代で一番初代に近い、この方だからこそ……」
ヒューザーの、アルティナを見る目にいつもとは異なる感情が宿った。愛情とも忠誠とも付かないその微妙な光にジェルミーは、
「ヒューザー。頼むぞ。我が家の“衛人”として、アルティナを……私の娘を……」
と懇願した。ヒューザーは黙って頷くと、アルティナの背中を押して、部屋を出た。
ぱたん、と音がして、アルティナの背後で扉が閉まる。その場で扉に持たれたアルティナにヒューザーが
「アルティナ様。何も恐れる事はありません。ジェルミー様のご命令があった以上、私が全力であなたの命をお守りします」
と語り掛ける。アルティナはその姿勢のまま、彼女の美しい“衛人”を見上げた。
「私、オロス様の元へ行くまでに、一体何を知るんだろうね。戦いだけじゃなくて、きっと、守護家の事も、儀式の事も……そして、母様の事も知ってしまう。ヒューザー、約束して。他の誰かに告げられるより先に、あなたが全てを私に教えて。今すぐじゃなくていいの。今はまだ、受け止められないと思うから。でも、旅が終わるまでに必ず、全てを教えて。たとえそれが、どんな事であろうとも」
蒼い瞳に真剣な光を宿してアルティナが言う。ヒューザーは、銀色の少女にそっと微笑した。
「わかりました、アルティナ様。私の真の主」
やっと安心したようにアルティナが笑う。いつもと同じ明るい声で
「じゃ、行こうか」
そう言って、アルティナは屋敷を出た。
「海の国っていうんだから、とりあえず、港まで行こう。それからの事は、そこで考えればいいし、ね?」
「そうですね」
ネアが用意してくれた馬に乗って、二人は夜道を駆け出した。半月が、天空に白く輝く夜の事であった。
次回更新は9月2日です。




