霊界混雑中につき
天井から吊るしたロープを見上げながら、桐山は静かに息をついた。
何もかもが嫌になった。学校でも仕事でも、誰かに必要とされたことなんて一度もない。
──学歴もなかった。
高校には進学したものの、結局のところうまく馴染めずに中退した。
履歴書を書くたび、「中卒」の文字にペンを止める。面接でも、それだけで門前払いを食らったことは一度や二度ではない。
「どうせこのまま生きていたって──」
そのとき、誰もいないはずの部屋に、声が響いた。
「待ちなさい!」
振り返ると、そこにはふわりと宙に浮く──どう見ても幽霊な存在がいた。
輪郭は煙のように曖昧で、顔も手足も今にも消え入りそうな透明さだ。
「自ら命を断つとは、何事ですか!」
幽霊が怒鳴る。が、なぜか怖くはなかった。
「……幽霊に説教される筋合いはないだろ」
「ありますとも!」
幽霊は胸を張った──胸はほぼ見えなかったが。
「現在、霊界は深刻な“霊体密度過多”です。未練を抱えた魂であふれかえり、足の踏み場もございません!」
「足……ないだろ、お前」
「そういう問題ではないのです!」
その真剣な訴えに、桐山は思わず吹き出しそうになった。
「つまり、俺が死んでも成仏できないってことか」
「その通り。あなたが今死ねば、未来永劫ぎゅうぎゅう詰めの霊界で押し寿司のように過ごすことになります!」
押し寿司の亡霊──。想像すると少し情けなくなった。
「じゃあ俺にどうしろと?」
幽霊はピシリと指を立てた。
「あなたには未練がある。勉強が好きだったでしょう? 高卒認定、取ってみませんか? 私がサポートします!」
問答無用の勢いで、その日から幽霊の“補習”が始まった。
毎晩、決まった時間にふわりと現れ、英語や数学、理科を淡々と教えてくる。
しかも教え方がうまい。板書こそないが、口頭の説明はわかりやすく、何よりも励まし方がやさしかった。
──そういえば、中学のときも。
いじめられながらも、勉強だけは好きだった。あのとき、ひとりだけ味方になってくれた教師がいたことを思い出した。
半年後、桐山は高卒認定に合格した。
「ありがとう、幽霊さん。少しだけ、自分に期待してみたくなったよ」
幽霊は、いつになく真剣な声で言った。
「大丈夫、あなたならやれます」
ふと、桐山は尋ねた。
「なあ、幽霊さん。お前にも未練があるんだろ? だから成仏できてないんだよな?」
しばしの沈黙のあと、幽霊はかすかに微笑んだ──気がした。
「私は……守るべきものを守れなかった。プレッシャーに負け、逃げてしまったのです。でも、今はとても清々しい気分です」
そして、幽霊の体が淡い光に包まれ始めた。
「高卒認定、合格おめでとう。桐山くん」
そう言って、幽霊は静かに天へ昇っていった。
──思い出した。
いじめられていたあの頃、ひとりだけ、必死に自分を守ってくれようとした先生がいた。
モンスターペアレントに攻撃され、学校を去ってしまった、あの人。
「……まさか、あんた……」
問いかけたが、返事はもう、届かない。
けれど、胸の中にほんの少し、温かさが残っていた。