流れる^n
流れる^1
「やってきましたぁ、夏休みっ!」
亜豆が声を張り上げた。
そう、やってきたのだ。夏休みが。
プール特有の塩素の匂い。
浮き輪のゴムの匂い。
全てがウキウキする。
数学教師かつ使用人の葉沙実は、国語教師の亜豆、理科(主に化学)教師の麻里奈、その妹の紫帆を連れてプールに来ていた。
「葉沙実先生。寿一様から休みもらえて良かったですね」
麻里奈が微笑んだ。
「はい」
寿一を説得するのがこれまた大変だったのだ。
ふんっと鼻から息をだしながら難癖ばかりつけてくる寿一を収めるのには苦労した。
もう、思い出したくない…
よし、忘れよう。
葉沙実たちがやってきたプールはその名も、幾何学プール。
科学館と繋がっている、ちょっと珍しい屋外プールだ。
遠くでトンボがブーンととんでいる。
小さい頃ヤゴを育てていたのを思い出した。
「拓人と、先生も誘ったんです。先生はまだ傷が残っててって感じなんですけど、拓人には恥ずかしいからって断られました」
紫帆がラッシュガードをいじりながら言った。
彼女の言う先生とは、彼女を数学好きにさせた谷川という男子のことである。
「そりゃ、女子4男子1なんて年頃の男子にはきついね」
亜豆が、屈伸をしながらいった。
「亜豆先生、行く気マンマンですね」
葉沙実が言うと、
「そもそも行くし」
と亜豆は口を尖らせた。
亜豆は、校長に葉月に興奮剤を打たれたと知らされてもなお、紫帆と麻里奈と仲良くしている。
懐が深い。
秘密裏で受けた事件だったが、例外として亜豆と、事件関係者には話しても大丈夫になった。
「なんか、平和ですね」
屋敷で起こった、モーツァルト肖像画切り抜き事件の後なので、なんだか平和だ。
遠くでは蝉の鳴き声が聞こえる。
その事件により、もう1人新たな仲間が加わっていて、今ここにもいるのである。
「神崎、今めっちゃワクワクしてます」
神崎笑里先生。
音楽担当の先生で、一人称が神崎という少し変わった先生だ。
モーツァルト肖像画切り抜き事件でお世話になった。
「よし、流れるプール後で行くか!」
この後、解決したはずのモーツァルト肖像画切り抜き事件のせいで永遠に流れることになろうとは、思っても見なかった。
§ § §
モーツァルト肖像画切り抜き事件。
その事件に見合う事件名がないほど、事件を要約した名前だった。
音楽室にあるモーツァルトの肖像画が切り抜かれていたのである。
そして、余った部分に、「kikagaku.」と切り抜かれていた。
幾何学。それがどうしたのだろうか。
それにしても、事件に続き事件だ。
この屋敷の治安、大丈夫だろうか…。学校の信頼を落とさないために私に依頼してくるのも頷けるが…
他の人に頼んでくれないかな、と思う。
「葉沙実。お前に依頼をしたい」
私は前回のように、引き受けてしまった…。
§ § §
「おーい葉沙実、先生」
亜豆が慌てて先生、を付け加えた。
それを見ていた紫帆がクスリと笑う。
「私の前だから敬語だったり、先生ってつけたりしてるんでしょ?大丈夫です。誰にも言いません」
いや、そう言うわけには…
「じゃぁ、お言葉に甘えて。葉沙実、浮き輪膨らませようよ」
お言葉に甘えて、か。
「うん、わかった」
空気が出てくる機械を差し込むと、ぐんぐん浮き輪が膨らんでいく。
あっという間に、本当にあっという間に、スイカの模様の浮き輪が完成した。
「よし、紫帆ちゃんも向こう空いてるから行ってもいいよ」
亜豆が紫帆にいった。
「はーい」
水色のフリルのついたセパレートタイプの水着を着た紫帆は、ピンクの浮き輪を持って向こうへ行った。
「葉沙実の浮き輪かわいいな。桔梗の柄だ」
「でしょ」
少し前から使っている浮き輪だ。
手首には防水加工のしてあるシリコンの青いブレスレットがついている。
家族から送られてきたものである。
普段滅多に送られてこないのに。
雰囲気を壊さないので大丈夫だ。
青色が好きなので、気がついたら青色のものばかり持っている。
今着ている水着も、青色だ。
「麻里奈さーん、笑里さーん、紫帆ちゃーん。流れるプール、行きましょー」
誰よりもテンションが高い亜豆は、みんなを先導して流れるプールに入っていった。
パシャン。
冷たい。今日はよく晴れていて、水面がキラキラ光っている。
宝石のような、夏をぎゅっと閉じ込めたような水面。
流れるプールは、浮き輪で浮いている葉沙実たちを流していく。
「いいですね、屋外プール。神崎、初めてなんです」
笑里がつぶやいた。
§ § §
「あのぉ、モーツァルトって、数学と関係、あるんでしょうか。神崎、よくわかんなくて」
葉沙実は、笑里に聞き込みをしていた。
青色のシリコンのブレスレットが揺れる。
モーツァルトの肖像画が切り抜かれていたこと自体は、そんなに大ごとになることではない(大したことだけど)
問題はそこからだ。
音楽室の机の板が全て鏡になっていたのだ。
その鏡にはkikagakuと文字が彫られていたことから、同一犯なんじゃないか、と言うことだった。
お金のかかることができるから大人なんじゃないかとか、工業の人なんじゃないのかとか、色々予想した。
「あ、葉沙実先生。神崎、気づいちゃいました。これ、本物の鏡じゃなくて、紙の鏡です」
笑里が指を鏡張りになった机に当てて自慢げに微笑んだ。
「横から見ると、写った指と、神崎の指がくっついてますよね。偽物の証です」
笑里は、小学生の夏休みキットで紙の鏡がついており、本物と比べてみたところ、本物は指が離れ偽物はくっつくことに気がついたのだと言う(そのことに驚いて腰を抜かしたらしい。つくづく変わっている)。
「なるほど…」
葉沙実は深く考え込んだ。
「あぁ!これ、剥がせます。綺麗に」
笑里が机の鏡を綺麗にぺりぺり剥がしていく。
「か、勝手に剥がさないでください!」
笑里の自由気ままな行動に葉沙実は呆れつつあった。
笑里は手を止め、鏡を元に戻した。
葉沙実は口を開いた。話を戻すために。
「モーツァルトが数学に関係あるのか、という話ですが。モーツァルトも数学を愛していたんです」
§ § §
「ひゃー冷たい。ちょ、紫帆、顔にかけないで」
麻里奈が紫帆と水合戦をしている。
あいにく葉沙実は水鉄砲を持っておらず、借りるにしても2000円はした。
そんなお金があれば、小説が二冊くらい買えてしまう。それが葉沙実の考え方だった。
「おりゃぁ!」
同じく水鉄砲を持っていない亜豆は、水鉄砲を借りる気満々だったが、財布を眺めた後、「やっぱやめた!」と手で水をすくって遊んでいる。
流れるプールとは言うと、入ってすぐに休憩時間になり、水鉄砲を紫帆が持ってきていたことと麻里奈もちゃっかり持って来ていたこともあって、亜豆がそっちに興味をそそられたから、流れるプールは後にしよう、となった。
「幾何学プールて、なんか怪しくない?」
亜豆が座っている葉沙実に話しかけてきた。
「なんで?」
「私さ、校長先生に頼み込んで捜査に加わったじゃん」
そういえば、そうだった。
少し面倒な案件だと亜豆に話すと、「手伝いたい!」といって亜豆は校長に直談判しに行ったのである。
「そこでさ、幾何学ってなんか、ちょろっと出てきてた気がするんだよね」
「そうだったっけ?」
「うん」
亜豆が首をブンブンと縦に振る。
「だとしても、関係ないんじゃないかな」
えー、と亜豆が声をあげる。
ここは屋敷の最寄りの科学館にくっついているプール、というだけなのだから。
「今度こそ、流れるプールいこ」
水合戦がひと段落つき、浮き輪を抱えて流れるプールに葉沙実たちは入った。
「のどかだ」
笑里が上を見上げる。
「はいはーい。みんな注目!葉沙実先生が、豆知識を教えてくれるよ!」
亜豆が突然、声を上げた。
「えぇ…」
突然すぎる。何を話そうか…
葉沙実は青いシリコンのブレスレットをいじった。
「お願いします、葉沙実先生!」
紫帆が目をキラキラさせる。
葉沙実が悩んでいる間にも葉沙実たちは流れていく。
「じゃぁ、笑里先生もいることだし、音楽の話でもしましょうか」
「数学じゃないの?」
亜豆が驚いた声を出す。
「うぅん、ちゃんと数学」
葉沙実はニヤリと笑った。
「1オクターブって何音?」
葉沙実は麻里奈、紫帆、笑里、亜豆に問いかけた。
「12音」
みんなの声がハモる。
「なんで?」
葉沙実が問うと、笑里以外のみんなが黙り込んだ。
「神崎、説明するの苦手で…葉沙実先生にパスします」
§ § §
モーツァルト肖像画切り抜き事件。
モーツァルトの肖像画が切り抜かれたのが、数学に関係あるとしたらモーツァルトが数学を愛していたことにあるかもしれない。葉沙実はそう、睨んでいた。
「モーツァルトって音楽家なのに、数学を愛していたんですか?神崎、びっくりです」
笑里がオーバーなリアクションをする。
また腰を抜かしてしまうんじゃないかと不安になったが、大丈夫そうだった。
「音楽家の中にも、理数系の才に恵まれた人は、少なくないんです。例えば、指揮者のエルネスト・アンセルメは数学科の教授にもなっているんです」
「神崎、エルネストさん、大好きなんです。知りませんでした」
笑里が手を口に当てる。
「モーツァルトは、父から算数を学ぶとそれに熱中して色々なものを書き散らかしたんです」
葉沙実はニコリと笑った。
「モーツァルトで有名なのが、『音楽のサイコロ遊び』ですよね」
『音楽のサイコロ遊び』とは、「音楽の技法を知らない人でもたくさんの曲を作ることができる」
と言われていた。
奏者はまずサイコロをふたつ用意する。
16小節からなる曲の全てには2から12の番号がつけられた11種類の小説の選択肢があり、『どれを演奏するかは2つのサイコロを振って出た目の数の羽によって決めなさい』とモーツァルトの指示があるらしい。
その出た目の数によって曲の種類もいろいろ変わってくるのだという。
「確か、そんなのがありましたね。で、神崎、小さい頃ピアノ習ってたんです。その時弾いていたのが確か、モーツァルトの『音楽のサイコロ遊び』だったと思います。それで…」
笑里は最後の方の言葉を濁した。
「それで?」
葉沙実が聞き返す。
「そのころ、男子に『さいころしたことある?』って言われて…。で、神崎、『すごろくしたことある?』かと思って、あるっていっちゃったんです。それから、神崎笑里はサイを殺したことがあるって言われるようになって。でもいまになって考えるとー『サイコロしたことある?』って文法的におかしいじゃないですかー。だけど、その頃の神崎、子供で…サイコロが嫌いになったんで、『音楽のサイコロ遊び』、嫌になって、駄々こねて、飛ばしてもらったんです」
聞き返して、損した。
「その…えっと」
話そうとしたこと忘れた。
「うーんと。あ、そうだ。何通りあるか、計算してみましょう」
葉沙実はハサミがプリントされたノートと鉛筆を取り出した。
「『全16小節のうち、例外として8小節目には1種類、16小節目には2種類しか選択肢が用意されていない』なのでこうなります」
葉沙実は数式をノートに連ねた。
1×2×11^14=759499667166482…
「約760兆通りもあるんです」
「うわぁ、すごいです。こんなにあるんですか。『音楽のサイコロ遊び』、神崎、今度やってみます」
笑里が目を輝かせた。
「ところで、この、『^』ってなんですか?」
笑里がノートの『^』を指差した。
「『ハット・キャレット』っていって、2^2は4ってなって、何かの何乗を表す、アプリとかで使う記号です」
葉沙実が説明すると、笑里はあぁ、と声を漏らした。
「この記号、塾で出てきました。先生が読み方わかんなくて、『2やま2』って読んでました」
この先生、暇があれば余計なことを喋る…。
§ § §
「1オクターブが12音って決めたのは、紀元前6世紀、ギリシャの哲学者であり数学者のピタゴラスさんなんです」
「え、音楽家じゃないの」
亜豆が声を上げる。
「うん。ピタゴラスさんは周波数などをいろいろ計算して、1オクターブは12音って定めたんだ」
その計算は、ノートがないので割愛しておこう。
「神崎、考えるんです。もし、1オクターブが12音じゃなかったらって…」
笑里はうっとりとした表情になった。
「…」
笑里が何か言うと思って皆黙っていたのだが、笑里は何も言わなかった。
「え?神崎、何か言いました?」
笑里が目をパチパチさせる。
「ぷっ」
紫帆が噴き出した。
「葉沙実先生。面白かったです。また、お願いします」
「やっぱさぁ、ノートがないとだよね、ノートが。面白さ、二分の一」
亜豆が不満げにぼやいた。
「今回は、ちょっと割愛。調べてみて」
葉沙実は亜豆に笑いかけた。
葉沙実たちは流れるプールの二周目に突入しようとしていた。
流れる^2
§ § §
「亜豆、ちょっと相談が」
モーツァルト肖像画切り抜き事件で行き詰まった葉沙実は亜豆に相談していた。
亜豆は例外が認められて事件捜査に仲間入りしたのだ。
「今聞いた話で気になったんだけど。モーツァルトに幾何学って関係あるわけ?」
亜豆は疑問を口にした。
亜豆のピンクの髪飾りが揺れる。
「そこは…流石に専門外だからなぁ」
葉沙実は天を仰いだ。
「じゃあ、行くしかないじゃん」
亜豆がニッと笑う。
「どこに?」
「図書館に、だよ」
屋敷には、隣接する図書館がある。
そこで調べればいい、というのが亜豆の考えだった。
「私、司書資格も持ってるし、どんとこいよ!」
亜豆がどん、と胸を叩いた。
図書館は吹き抜けになっていて、開放感がある。
入り口の正面にカウンターがあり、そこで本が借りられるらしい。
カウンターの奥には二つの階段があり、中央で交差している。
まるで、どこかのお城みたいだ。
ま、屋敷もお城みたいな内装だけど。
図書館の静かさが、心地よい。
ベートーヴェン、バッハ。
有名な音楽家の本が並んでいる。
モーツァルト、モーツァルト…
ん…?
葉沙実は首を傾げた。
どこにもモーツァルトに関する本の全てが、見当たらなかったのだ。
§ § §
「やっぱさぁ、流れるプールって、永遠に流れれるよね」
スイカの浮き輪にはまった亜豆が伸びをした。
「わ、わぁ、わ」
笑里が慌て始めた。
「こんなとこに滝、あったんですか。神崎、怖いです」
ちょっと先に滝のような水に打たれる場所があるのだ。
「さっきは向こうのルート流れましたから。あっちにはなかったんです」
ここのプールは何通りかの流れかたがあり、いろいろ楽しめるらしい。
「潜れば?」
亜豆がそういうなり、笑里は水中に潜った。
ドドドド…
額に無数の水がおちる。
豪雨に打たれている感覚だ。
「ぷっはぁ…」
潜っていた笑里が顔を出した。
雨をしのげて、ご満悦だ。
葉沙実は、外を見ておかしい、と思った。
「あれ?なんか、周りに壁があるような」
葉沙実は口を開いた。
プールから上がる。
「ちょ、葉沙実」
青いシリコンのブレスレットが水に濡れて光る。
亜豆たちもあわてて上がってくる。
少し歩くと、壁に当たった。
プラスチックのパネルだ。
外にはプールの景色が続いているのに、出ることができない。
どこもかしこも、プラスチックのパネルが続いている。
「閉じ込められてる」
麻里奈がつぶやいた。
何がどうしてこうなったんだろうか。
なんか最近、テロらしいテロが多くないか…?
「ねぇ、なんか科学的にプラスチックを溶かす薬品とかないの?」
亜豆が麻里奈の肩を掴んだ。
「プールに持ち込めるわけないじゃないですか。そうですね、協力な酸ならいけるかも」
無理だと言いつつ麻里奈は亜豆の問いに答える。
屋敷の経営者が何かやらかしたのだろうか。
葉沙実は不安になった。
私の身も保証されなくなったら…
「とりま、流れてみない?」
亜豆が伸びをした。
危機感がない。
「どっかで途切れてるかもよ」
確かに、言う通りだけど。
なんで私ばっかり。信頼を失ってまで断ればよかったのだろうか。
ここは屋外なのだけど、プラスチックパネルに囲まれて風がなくなっていた。
こんなに広かったっけ。
「いきましょう、葉沙実先生。神崎、迷ったら先に進め、派です」
笑里が頼もしく感じた。
§ § §
「モーツァルト関連の本があったはずなんですが、ごっそりなくなってます」
受付の女性が焦った声を出した。
シャンデリアの光が汗に反射している。
「でも…前代未聞なので、タブレット端末をお貸しします。雰囲気を壊すそうなので、ダメですが…」
岸本と書かれたネームプレートを付けている女性は、階段の裏へ向かった。
「え、裏に部屋ある。まじか」
亜豆がつぶやいた。
階段の裏なので暗い。
「タブレット、ありました。こちらにきてください」
岸本が手招きする。
「モーツァルトは、ヴィーンのフリーメスインの支部に入会していたようです。そのシンボルマークがコンパスと定規がモチーフなんですが、この真ん中のGを見てください」
岸本がタブレットを指差す。
葉沙実と亜豆はタブレットを覗き込んだ。
Gは、「神Godと幾何学geometryを意味している」らしい。
なるほど、幾何学ってこのことなのか…。
綺麗なシンボルだと思った。
「あなた様が探しているのは見つかったかと」
…?
なぜか、モヤモヤした。
モヤモヤを抱えたまま、葉沙実と亜豆はお礼をいって図書館を出た。
〔次編へ続く〕