先生と私の座標【後編】
カタカタカタ…
みんなが、シャーペンや鉛筆などで数式を書いている。数学教師かつ使用人の葉沙実は、生徒たちの間を練り歩いていた。
ふと、葉月のペンケースを見る。
定規のようなプラスチック製のものがたくさん詰まっていた。
かれこれ一週間、表面上ピンチヒッターとしてこの教室で数学を教えている。
それから葉沙実の読みの通り、行方不明の人は増えなくなった。
生徒が8人行方不明になっているこの教室に葉沙実がいのるは、校長に頼まれて調査をしているためである。
歩いていると、部屋の作りが変わっていることに気がついた。
「?」
葉沙実は首を傾げた。
3列目と4列目の間に十字のように、人が1人通れるくらいの隙間があるのだ。
その列のところに席と同じ感覚で彫刻が施されたタイルが埋め込まれていた。
気になったが、タイマーがなったので教壇に小走りで戻った。
担任の教師でもないため、長居もできない。
授業が終わり、廊下に出ると、科学担当の麻里奈に出会った。
それほど仲は良くないが、趣味の話くらいはする。
「妹ってば、分度器ばっかいじくってて…形が好きなんだそうです」
麻里奈には、歳の離れた妹がいるらしく、仲が良さそうだ。
「また後で、麻里奈先生」
職員室に戻ったら亜豆に睨まれ、廊下に来てと言われた。
「ねぇ、葉沙実。私に隠し事してない?」
亜豆が、葉沙実に尋ねた。
私は、角に身を潜める。
「隠し事って?」
葉沙実が聞き返す。
「とぼけても無駄。最近、怪しいし」
亜豆が葉沙実に指をさした。
私───葉月は堪えきれずニヤリと笑った。
亜豆先生は、私のクラスの国語を担当しているのだ。それで、私たちのことをこそこそ嗅ぎ回っていると情報を漏らしたら都合よく動いてくれた。
「あの子たちのこと、何調べてんのよ!」
亜豆が葉沙実につかみかかる。
「最近豆知識も教えてくれないし!」
亜豆はさらに激しくなる。
「理性ある人間だと思ってたのに!なんで!」
いつもと違う亜豆先生の姿に、葉沙実先生は困惑しているだろう。
亜豆先生が変なのは、私が亜豆先生に興奮剤を打ったからだ。
いま、理性がないのは亜豆先生の方だ。
なんだってやる。彼のためなら────。
「亜豆、落ち着いて」
葉沙実が声を張り上げた。
「うわあ!」
葉沙実と亜豆がもみ合い、倒れ込んだ。
周りには誰も来ないようになっている。
「何を隠してるの!こんなんだから寿一様にも呆れられるのよ!」
「寿一様は関係ないでしょ!わかった!言うからっ!」
葉沙実は暴れる亜豆を押しのけた。
「校長先生から、秘密裏で依頼を受けたの。生徒がデモを起こすかもしれないって」
葉月は目を見開き、笑った。
思った通りだ。放課後こそこそ動き回ってて、怪しいと思った。
だから、許すわけにはいかないんだ。
仇をとって、大切なものを取り戻す。
それがみんなの願い。
葉月は勢いよく廊下へ飛び出した。
「っ…いたた」
葉沙実は目を覚ました。
かれこれ数時間は眠っていただろうか。
茶色のフローリング。三列目と四列目の間の隙間。
ここはA組の教室だ。
1週間何もなかったから、何かあるとは思ってたけど…
やられたな、と思う。葉沙実は、数時間の出来事を思い出していた。
亜豆にいきなり襲われ、葉沙実は揉み合っていた。
ずしりと乗っかってくる体重。
充血した亜豆の目。尋常じゃない。
「うわあ!」
バランスを崩し転倒。亜豆に秘密を打ち明けた、そのあと━━━
プシューーー!!!
スプレーが葉沙実に向けて噴射された。
目が見えなくなり、うずくまっていたところ意識を失った…
思い出してもゾッとする。
中学生の行動とは思えない。
本当に、中学生だったのだろうか。
「うぅ…」
横から、弱々しい声が聞こえた。
「松本先生?」
そこに横たわっていたのは、A組の担任の松本だった。
「あれ、葉沙実先生」
もう一つ、声が聞こえた。
「拓人君?なんで」
ぼんやりと立っていたのは高身長の青年、拓人だった。
「え?プシューっと」
話が容量を得ない。
私は頭を振り、周りを見渡した。いつもと違うのは…
壁や黒板にあちこち数式が書きながられていることだった。
なぜか上には蛍光灯ではなく「π」や「√ 」の形がぶら下がったシャンデリアになっている。
「おしまいだ、おしまいだ。だから数学は」
松本が教室の隅で何かを呟いている。
この時は話が通じないため、放っておこう。
「あ、先生。なんか書いてあります」
拓人が黒板の隅を指さしていた。
そこには、小さな文字が書かれていた。
〈あそこへ行くと自由になる〉
あそこ、とは。
意味のある落書きではなさそうだ…
葉沙実は肩を落とした。校長の信頼を断ち切ってまで断るべきだったか?
それはできない。
こんなにも数学づくしの事件、初めてだ。
ドアにも鍵がかかっていて、窓も板で塞がれており、出るのは難しそうだ。
そこで私は、最大の異変に気がついた。
私の着物である。
私は青紫のアゲハ蝶の着物を着ていたはずだ。
なのに今は、死人がきるような白い服になっている。
松本や、拓人も同じだ。
服を着替えさせられたことにショックを受けながら、情報を整理しようとした。
皮肉にも私のノートと鉛筆は教壇の上にあり、謎を解いてみろと言う挑戦状のようにも思えた。
・生徒が8人行方不明
・出席番号の数列がフィボナッチ数列
・9個余りの席→もう1人休み
・松本先生はその存在を隠そうとしている
そこまで書き終えたとき、テレビが急に映った。
「こんにちは、松T、葉沙実先生、拓人」
そこにいたのは、葉月と…
もう2人、見知らぬ少女がいた。
「先生、あの2人は、キョウカとキキです」
拓人が私に耳打ちした。
大塚鏡華と伊藤希妃。
行方不明になっていた生徒のうちの2人だ。
「はは、死人みたいな格好だね。松T」
葉月が笑う。
拓人を見ると、拓人の腰にキツネの面がぶら下がっていることに気がついた。
「ここから出れる方法は…」
〔葉月〕と書かれた名札が揺れる。
「謎を解くこと、かな」
鏡華が続きを引き継いだ。
「松T、後悔してる?」
希妃がケタケタと笑った。彼女は、プリンセスのようなふりふりした服を着ている。
「自由になれるといいね、バイバイ」
葉月が手を振ると、テレビはプツン、と音を立てて切れた。
どうやら彼女たちのテロの目的は松本への復讐だということを葉沙実は知った。
───自由になれるといいね、バイバイ
葉月の言葉から言うと、あの落書きは関係あるらしい。
「松本先生、何をしたんですか?」
「…」
「松本先生!」
松本はいくら聞いても口を閉じたままだ。
聞き出すのは無理か。
0、自由、8人…
「あっ!」
葉沙実は叫んだ。気がついたのだ。
この教室が座標になっていることに。
6かける6の広めの教室。
いなくなった生徒たちの席が、その数を表していて、座標になっていたら。
「拓人君、いなくなった子たちの席を教えて」
葉沙実がそう言うと、拓人は目をパチパチさせていたが、
「はい」
と言って葉沙実を案内した。
全て足すと…
「(0、0)…」
そこへ向かうと言っても。
0の列がないのだ。
「先生!3列目と4列目のタイル。あそこが0なんじゃ…」
拓人が叫んだ。
彫刻の施されたタイル。あそこか。
葉沙実はそこへ移動し、タイルを外そうとした。
タイルが外れる。
「パンパカパンパンパーン♪」
テレビが再びつき、音がなった。
「まさか、こんなに早く解かれるとは、驚いたな」
葉月が画面の中でくるりと回った。
「じゃあ、松Tたちを自由にしてあげる」
タイルを外したところから、プシュゥ、とガスらしきものが出てきた。
吸っただけで眩暈がし、葉沙実は床に膝をついた。
「殺して、自由にしてあげる」
「!!」
とっさに拓人を見る。
拓人は、キツネの面をしていた。
「先生、騙してごめんなさい。これ、ガスマスクなんです」
キツネの面の向こうから声がした。
なんで、拓人がいたのか。
私に早く謎を解かせて、毒ガスを放つためだったのだろうか。
「でもまだ、30点です」
「さ…」
声が出ない。
「そう。全て解かないと」
キツネの面を被った葉月たちが教室の中に入ってきた。
葉月から、酸素ボンベを渡された。
「これには、20分ぶんの酸素が入ってる。謎は解けたら窓を割って毒ガスを外に出して、空気と馴染ませる。
解けなかったら、酸素がなくなってガスを吸って葉沙実先生は死んじゃう。どう?松Tも、助けてあげよっか」
かなりリスキーだが、乗るしかない。
ボンベを受け取り、吸っていると意識がしっかりしてきた。
松本もボンベで酸素を吸っている。
「どうしてここまで子供のわたしたちが行動できたのかなぁ?」
葉月の試したような口調。
溢れる自信。彼女は、この状況を楽しんでいる。
あれ?
葉沙実はおかしなことに気がついた。
彼女の葉月とプリントされた名札。普通は苗字が書かれるはずだ。
私は葉月という名を下の名前だと思っていた。違った。
葉月は初めから苗字を名乗っていたのだ。
でも、どうして?
とりあえず、いってみるか。
「葉月。それは苗字ですね」
「それで?」
正解ということなのかはわからないが…
どうして苗字を名乗ったのか。
葉月は、私を試すつもりだったんだ。最初から────。
改めて、葉月を見る。私は、確信した。
「葉月さんは、どこにいるんですか?」
葉月の目が揺らいだ。
「何言ってんの?私はここに───」
「そうですね。『葉月』は居ますが、私が言っているのは生徒の葉月の方です」
葉沙実は葉月の言葉を遮った。
「私は、あなたの苗字を知らなかった」
葉月は何も答えない。
「葉月麻里奈。そういう名だったんですね」
意識がくらくらしていて気がついていなかった。
葉月にしては上背があることに。
麻里奈は科学の先生だ。薬品を盗み出したり、教室を閉めることも可能だ。
そして、麻里奈には、歳の離れた妹がいる。
───分度器ばっかりいじくっていて…
葉月のペンケースを手に取った。そこにはいくつもの分度器が入っていた。
私の仮説はこうだ。
麻里奈の妹が「生徒の葉月」なのではないか。
2人が共謀して、子供たちをまとめていたのではないか。
「ふふ、正解です」
麻里奈は笑った。
ドアから、キツネの面を被った生徒の葉月が入ってくる。
「葉沙実先生、よくわかったね。私の名前は…葉月紫帆」
葉月───紫帆が胸に手を当てながらいう。
「約束通り、命の安全は保証する。けど、身の安全は保証しない」
紫帆はキツネの面の向こうでニヤリと笑った。
「死にはしないけど、失明しちゃうかも」
さっきまで黙っていた、希妃が口を開いた。
しまった、酸素が切れ…
「けほっ」
咳がでる。
「先生、50点です」
拓人の声がした。
「謎は全て、解いてください」
声が降ってくる。
「なんで紫帆は、こんな事件を起こしたんでしょうか」
紫帆が拓人につかみかかる。
「ちょっと、拓人!」
「紫帆は元から、葉沙実先生と松Tを助けるつもりなんてなかった。自分の正義のために、先生のためだけに…」
どういうことだろう。
「拓人ぉ!」
ぱぁん、と音がして拓人の面が外れる。
鏡華がその面を回収した。
これでは、拓人が…
拓人はこちらを向き、スプレーを二つ投げた。
「謎を、解いてください。数学好きは、情では動きません」
拓人が咳き込んだ。
一つを松本に渡し、葉沙実は酸素を吸った。
──── 紫帆は元から、葉沙実先生と松Tを助けるつもりなんてなかった。自分の正義のために、先生のためだけに…
自分の正義のために、先生のためだけに?
拓人のいう先生とは、誰なのだろう。
今思えば、みんな私のことを───拓人は常には呼んでいなかったが────葉沙実先生と呼んでいた。
松本に対しては、松Tと呼んでいた。
彼らが区別する先生とは誰だ?
このクラスの数学を担当している御手洗先生か?
いや、ちがう。
紫帆と初めて会った時が思い出された。
──── 先生来なくなったし、御手洗先生も育休入っちゃったし、松Tも数学できないしで数学、しばらくなかったんですよ
御手洗先生と拓人たちがいう先生は別人だ。
先生が来なくなった。
もうひとつの休みの席。学校の噂───!
全て、繋がった。
「こんな噂、聞いたことあるかな」
葉沙実は立ち上がった。
酸素ボンベを外す。
「━━━A組の、谷川くん、退学になるかもしれないんだって
━━━なんで?
━━━不登校になって、数学の授業だけなら受けれるって言ったらしいんだけどね、それを先生が許さなくて、授業日数が足りなくて退学になったらしいよ
━━━誰かがいじめたらしいの
━━━誰,誰?
━━━それはね…松本先生」
ここにいる葉沙実以外の全員の目が見開かれた。
「あの9つ目の席は、谷川君。つまり、みんなが言う『先生』の席だったのではないですか?」
紫帆は、黙ったままだ。
「谷川君が退学をせざるを得ない状況に追い込んだ松本先生が、許せなかったんじゃないですか?」
苦しい沈黙。
「先生」
憔悴しきった拓人の声がした。
「100点です」
謎を解いたと言うことだろうか。
「…ハハ」
乾いた笑い声が聞こえた。
「…ハハッ」
その笑い声の持ち主は紫帆だった。
紫帆はキツネの面を外した。
「そうだ。そうだよ。松Tが許せなかった。先生を自殺未遂に追い込んだ松Tを!」
「え?」
「ごめんなさぃぃ」
松本がうずくまる。
谷川君が、自殺未遂を起こした…?
「今は意識不明で、いつに目覚めるかわかんなくて」
紫帆の目に涙がたまる。
「先生のおかげで私は、フェルマーの最終定理に出会えたのにっ」
ぼろぼろと涙が落ちる。
「先生のおかげでっ数学が好きになれたのに」
紫帆は必死に涙を拭っている。
「私、恋愛とか、好きとかわかんなくて、みんなからいじられてた。だけどっ。先生のこと、人のこと、初めて恋愛として好きになった!」
紫帆は叫んだ。
「先生が死ぬなら、私だって死ぬ…」
「それで、いいんですか」
葉沙実は紫帆の言葉を遮った。
「これから、たくさんの数学に出会えるかもしれないのに」
「先生がいないなら、数学なんて…」
「先生はまだ生きてるでしょ!」
葉沙実は紫帆の肩を掴んだ。
だめだ、くらくらする…
「そうですね。葉沙実先生の言う通りです」
拓人が口を開いた。
他の3人はキツネの面を外し黙りこくって、涙を流している。
何を思って、何を考えているのか…
拓人は、窓の板の前で構えた。
すると、板に向かって思い切りけりをいれた。パァン、と板が割れる。
そして今度は椅子をもち、窓を割った。
外の空気が入ってくる。
呼吸が楽になった。
「拓人君…」
葉沙実は拓人の名を呼んだ。
「先生、僕、助けて欲しかったんです。紫帆を、先生を。僕が浪人していたの、知ってますか?」
葉沙実はゆっくり頷いた。
「小学校の頃、いじめられてて。中学に入学しようとしたら、そこの校長にダメだと言われました。いじめの主犯格の父親だったんです」
そんなことがあるのだろうか。中学は義務教育の範囲内なのに。
「この学校に来て、数学が好きになって、先生が来なくなって…でも、その原因を力ずくで潰すのは違うと思っていました」
拓人の目にも涙が浮かぶ。
「ありがとうございます、葉沙実先生」
拓人は、紫帆たちを犯罪者にしたくなかったのだ。
自分の命を脅かしてまで…
紫帆がおぼつかない足取りでやってきた。
そして、口を開いた。
「負けました。亜豆先生の言葉を借りると、葉沙実の…いや、葉沙実と拓人の独壇場ってやつですね」
──後日談──
谷川君は、後日、目を覚ました。
紫帆が面倒を起こした、と深く私に謝ってきた。
退学の話も無くなったが、松本先生は他の学校で働くことになった。
あの子たちが、松本先生を許すことはないだろう。そしてその逆も、ないだろう。
A組の子たちはクラスが解散になり、クラスが変わったが、皆、退学になることはなかった。
大事をとって私と、拓人君も数日入院したが、少し体がだるかったくらいで、失明することもなかった。
紫帆さんと、谷川君が手を繋いで歩いてるところを見かけた。
儚い、夏の匂いがした────。