ハサミの日常、プロローグ
「本当に申し訳ありません」
使用人の葉沙実は、心底うんざりしていた。
主人にも、あたりとはずれがある物だ。ハズレの時は、何がなんでも難癖をつけてくる。
葉沙実は、大規模な屋敷に位置する学校の数学教師と、使用人をつとめていた。
それで、葉沙実の教え方が間違いだと、主人の寿一が難癖をつけてきたのである。
数学教師に算数も任せるのが悪い────
なんて事、言えない。0、1、2、3…それから数学と算数は始まるのだ。
怒られた要因は、葉沙実が二桁、三桁の引き算をインドの方法を生徒たちに教えたことにある。
例えば、
123ー17
は、くり下がりが必要だ。
くり下がりをなくすために、
123ー17→123ー20
(123+3)ー20 (引かれる数に、引く数から引いた分だけ足す)
=106
このように、
引く数の一の位をゼロにして計算するというものだった。
インド人の考え方に葉沙実は衝撃を受け、数学の教え方を一任されていたため、子供たちに教えようと思った。
なのにどうだろう?なぜこのような事で叱られなければいけないのだろうか…。
でも、こどもたちのためなら。そう思うと耐えられた。
「聞いているのか?葉沙実」
しまった、ぜんぜんきいてない。
「もう一回言っていただけますか」
「次から、筆算を教えるんだぞ」
数学についてはお前に一任する…そう言ってくださっていたのに。
我が子が関係するとなればいつもこうだ。
「はい」
筆算はもう教えていたのだけど、面倒だから言わないでおいた。
部屋を出て、ふぅと息をはく。
廊下の先に、桃色の着物を着た女性がいた。
ここは皆、特に職員は着物を着るという謎のルールがある。
雰囲気を壊さないためだそうだ。
桃色の着物の女性は、女性というよりかは少女のような顔立ちだが、葉沙実より一つ年上の24歳だ。
「あ、葉沙実せんせー。こんにちは。お叱りですか?」
こちらに気づいたようだ。
「亜豆先生。まぁ、そんなとこです」
亜豆の問いに対して、葉沙実は苦笑いを返した。
亜豆はピンク系の着物を好んで着ていて、ふわふわした雰囲気をまとっている。
生徒がどこにいるかもわからないし、主人や目上の方がいるかもしれないので敬語を使っているが、亜豆とは昔からの仲良しで、呼び捨てで呼び合う仲だ。
「放課後、豆知識について教えてくださいね♪」
亜豆がくりくりとした目で葉沙実を見る。
「もちろんです!」
怒られて落ち込んだ気分もなくなり、葉沙実は元気に返事をした。
今日はどんなことを話そうかな…と胸を膨らませる。
亜豆がいるおかげで学校にもつとめる側として楽しくこれている。
ありがたいなぁ、と思った。
亜豆とわかれ、葉沙実は歩き出した。
声が聞こえる。
━━━A組の、谷川くん、退学になるかもしれないんだって
━━━なんで?
━━━不登校になって、数学の授業だけなら受けれるって言ったらしいんだけどね、それを先生が許さなくて、授業日数が足りなくて退学になったらしいよ
━━━誰かがいじめたらしいの
━━━誰,誰?
━━━それはね…
屋敷は、噂に満ちている。
心底どうでもいいことが大抵だ。
教室に着いた葉沙実は、周りを見渡した。
「よろしくお願いします」
日常が、始まった。
「じゃあ、今日は7に関する豆知識を教えるね」
放課後、亜豆と葉沙実は葉沙実の部屋に集まっていた。住み込みで働いているの使用人の葉沙実の部屋に集まっている。亜豆は使用人ではなく、国語の教師なので(葉沙実も数学教師なのだけど)屋敷の外に住んでいるのだ。
「この数、みて」
葉沙実はハサミの描かれたノートを取り出し、鉛筆で数を書いた。
142857
「14287?」
亜豆が反応する。
「うん。これに、2から順番に数字をかけていくと…」
142857 × 2 = 285714
142857 × 3 = 428571
142857 × 4 = 571428
142857 × 5 = 714285
142857 × 6 = 857142
「何のへんてつもないように見えるけど…」
亜豆がノートを覗き込んだ。
葉沙実は数字に印をつけていった。
「1」(4)〈2〉『8』【5】〝7〟× 2 =〈 2〉『8』【5】〝7〟「1」(4)
「ん?」
亜豆が首をひねる。
「かけられる数と、答えにおんなじ数が使われてるの」
「…あっ!本当だっ!」
亜豆が叫ぶ。
葉沙実はニコリと微笑んだ。
他の式も同じだ。
「でも、これって、7に関係あるの?」
「それはね…」
鉛筆をノートに走らせる。
142857 × 7 = 999999
「何でこうなるの?」
亜豆の純粋な反応。やりがいを感じる。
「142857 っていうのは、1を7で割った時に出てくる数なんだよ」
1 ÷ 7 = 0.142857142857142857…
「へぇ…」
亜豆が満足そうにため息をつく。
「もっと面白いのがね…、1番上の式では、2が1番目にあって、2番目の式では、2が3番目にあって…って感じで、数字がぐるぐる回ってることなんだよ!142857のことを、循環数や周期数っていうんだよ!」
葉沙実は興奮して、亜豆の形を左右に揺らした。
亜豆が口を開く。
「…数学のことになったら、葉沙実の独壇場だよね」
亜豆の、お決まりのセリフだった。