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円環(後編)



 阿寧を失い、初潮を迎えた私の身体は乱れた。


 体の中を血の波が寄せては返すようにつねに波打っているようだった。

 一日ごとに様子の変わる体を持て余しながら、突然に生まれてはじめて一人きりにされた私は荒れた。

 阿寧が穏やかに演じていた皇帝は、私になると苛烈になった。伽藍洞のように広い朝堂は肌寒く、玉座は冷えていて腹の痛みを無駄に増幅させた。





 一年が経った。季節が一周すると、私と体の折り合いもつきはじめた。


 慣れてくると、月ごとに血の流れる世界もそう悪いものではなかった。薄紗を一枚めくってみれば、そばにいる女たちが皆それぞれに血を流していることが分かったというのも大きい。表には出ず、裏に隠されているその温かさは、ひとりぼっちの私を、目には見えない綿でそっと包むようだった。



 阿寧の死は、私に深い喪失を味わわせた。

 だが同時に阿寧という輪郭をくっきりと残したことに私は一年をかけてようやく気がついた。


 阿寧を失い、阿寧を得る。不在ゆえにその存在が浮かび上がる。


 朝堂以外では喋ることがなくなっていた私は、この怒涛の一年でまた口下手に戻っていた。阿寧がいないとめっきり口数が減る。

 誰かに聞かせようと言葉を探すこともなく、そうすると喋り方さえ忘れてしまうようだった。


 久しぶりに阿寧に話したいと思えた私は、女官に大きな姿見を用意させた。


 黄色くテラテラと輝く鏡面に、阿寧が映った。


「皆下がれ」


 人払いをしてから、私は大きな銅鏡に向かって話しかけた。


「阿寧、そちらはどうだ。こちらはまた冬が来たぞ」


 私と阿寧はまったく違った。同じなのは顔形だけだった。

 いや、それも同じようにと整えられただけで実際にはそれほど顔も似ていなかったのかもしれない。


 私と阿寧は「皇帝」というひとつの名前しか持たず、朝廷という舞台で「皇帝」という同じ役を演じることが義務だった。


 周囲が私たちを同一の役者として扱うが故に、私たちは同じ姿形だと思い込んでいただけかもしれない。


 私たちは実際にはそれほど似ていなかったと阿寧を失った今では思う。


 「阿寧」と私は鏡面に向かって呼びかけた。

 笑えることに、阿寧が死んで失われたのは「阿澄」という私の名の方だった。


 もう誰も私を阿澄と呼ぶ者はいない。

 阿寧の名は私が生きる限り繰り返されるのに。死んだくせに名を持ち続けるとは贅沢なことである。


「反転しているな。私たちはどうにもおかしい」


 クスクスと笑うと、鏡面の姿も笑う。


 お互いを呼ぶためだけの名は二人でつけた。

 目をつむって竹簡に筆を落とし、筆先が指した文字をとって呼び名にしたのだ。

 女官も私たち二人を識別するなといわれていたので、私たちは同じ者として扱われた。だからどうしても私の名前は阿寧とともに消えてしまう性質を持つのだった。


「阿寧。私の転がした筆は本当は“烈”の字を指していただろ。阿寧がズルをして隣にあった澄の字に変えているところを見たぞ。まぁ私も目を開けたのだから同じか」




 その日から、私は少しずつ鏡面を使って言葉を取り戻していった。見たものを言葉に置き換え、それをまったく別の違うものに繋げて言葉を飛躍させ、自分のなかに落とし込む行為。阿寧とふたりで重ねてきた空想である。


 私の吐いた息が銅鏡を曇らせた。

冬だ。つまりまた緑河の国境が脅かされる季節だ。


 阿寧が死んでから、私は長城建設に賛成していた重臣たちの位をことごとく下げた。

 長城の代わりに、この夏には大々的な濁河の治水をはじめた。一度目の工期は夏と秋にかけて行われ、すでに終わっている。


 反対する意見には耳を貸さずに独断で治水に邁進する様子に、重臣たちからは「苛烈帝」と陰口を叩かれたが、どうでもよかった。


「冬にはまた緑河が凍るな」


 長城の建設は一年前からひとつも進んでいなかった。














 それからさらに数年が経った。

 私はまだ皇帝として生きている。


 阿寧が死んでから、穏やかだった緑河が暴れ出し北方からの侵攻を防いでいるので、長城がなくともなんとか国は形を保っていた。


「陛下は禍を避ける福をお持ちです。あの気難しい大臣たちも言っています。陛下は自分たちには見えていない先のものが見えている明君だと」

「明君?」


 親しい女官の言葉に私は苦笑いを返した。


「明君なわけがない。天下のことも民のことも国のことも、一度だって考えたことのない者は暗君か、小人というんだ。大義もないしな」

「またそうやって露悪的なことを……。陛下は明君ですよ」


 目の前には盛り上がるような水量をたたえた緑河がある。

 深緑色の水面は春の陽気のなか、ぬるりとして一見穏やかに見える。河幅はかなり広く、遠く対岸は霞んで見えない。

 今年もこの緑河は凍らずに増水を繰り返して、北からの侵略を防いだ。

 理由は知らないし、興味もない。


 国境への視察と称し、宮中を久しぶりに抜け出した私は、気まぐれに暴れ続ける緑河を見ていた。


「皆、陛下には水の加護があると口をそろえていいます。緑河は加護をもつ陛下を守る自然の長城だと」


 加護。そんなものはない。

 私にあったのは、阿寧だけだ。


 私が強行した(まつりごと)は、阿寧を殺した朝廷と真逆の方針をとるという一面しかなかった。


 大義も利も情もない。阿寧が死んだあの時に可だったものを不可にし、不可だったものを可にしただけだ。


 先が見えるという大臣からの評も、阿寧の敷いた治世という河が地図としてあり、それを目印に違う選択を続けてきただけだ。その蓄えも、尽きはじめている。

 阿寧が皇帝だった年月に、私が追いつこうとしているのだ。


 阿寧の反対を選ぶことしかしない私には、阿寧の触れたことのない政策の是非はさっぱり判断できない。


 私は阿寧が選ばなかった方、進まなかった方の道なのだ。




 ひとりになりたくて、女官を下がらせた私は緑河の川縁にゆっくりと近づいた。珠簾のかかるいつもの視界で、足元の砂利を注意深く踏んでいく。


 シシャラ、シシャラ。砂利と珠簾が呼応して、音を立てた。



 そういえば一年前。私は大臣たちに請われて赤子を産んだ。ひどく骨の折れる公務だった。


 出産は長時間に渡り、生死をさまよい、月経とは比べ物にならないような大量の血を流した私の体はたいへんに疲弊し襤褸布のようになった。

 なんというか、生命が私の体の栄養を根こそぎ濾し取って通過していったように思う。


 これまで自分を河の流れに見立てる想像を何度もしてきたが、出産で私は砂利だった。赤子という力強い流れが通過した砂利。残された瓦礫。


 精魂尽きかけた砂利のような私と、床に額を擦りつける侍医。気絶する欽天監。と、その首を絞めようとする侍衛。それらを蹴散らしながら大きな盥を抱え働き続ける女官たち、といった有様のお産は、大臣たちに強烈な印象を残したらしく、この一回かぎりで朝廷で子を産めとは言われなくなった。向いていなかったので、それは有り難い。


 私と同じく汗をびっしょりとかいた産婆と女官が足元で歓声をあげた。


「陛下、お産まれになりましたよ。玉のような赤子にございます」


 意識の薄れるなか、布にくるまれた赤紫色の生命を見た私は、こういったらしい。


「……なぜ一人なのだ。一人ではこの世は手探りで辛いであろう……」


 ポカンと口を開けた産婆と女官たちは、それから大きな笑い声をあげた。


「陛下ったら! 人はたいてい一人で産まれてくるものですよ!」


 カラカラと笑う女たちの声が疲弊しきった私を優しく包む。


「まったく天子様のお言葉は、私たち凡人には理解できませぬ」


 何を言う、と私は思った。一人きりで世に落とされ、指標もなく道を選ぶ者の方こそ超人だろう。そういってやりたかったが、口は動かずに意識は途切れたのだった。


 私は出産には向かない。それがよく分かる経験だった。


「阿寧が先に産んでくれていたら、私は絶対に避けた」


 一年前を思い出し、私はいまだに回復しない体の疲労感から苛々と阿寧に呼びかける。

 川縁に辿り着いた私は、緑河の水面に阿寧を見ていた。


 一歳になる赤子は宮中の女たちが大切に育ててくれている。ほとんど会わないので顔も忘れた。名も知らぬままだ。そのうち自分で筆を転がし名を決めるだろう。


「お、阿寧。今日は頭に雲を乗せているじゃないか。似合うぞ」


 水面にゆらゆらと映った冠の上に、上空の雲が重なって見える。


「そうだ。阿寧の好きな濁河は治水が功を奏して豊河と名を変えたぞ」


 目の前の緑河に背を向けて、私は水源を同じくする濁河、改め豊河の方向に視線をやった。ここから豊河は見えない。二手にわかれた大河は、地表からではどちらかの姿しか見えないのだ。


「雪解けは大河となり海原へと向かい、龍とともに雲へと還り、雨垂れとなって落ちてくる。太師がいっていたな」


 また緑色の水面に向かって話しかける。こちらを見る阿寧は私とともに年をとってくれる。


「大河に比べて私たちはこうも小さく一時(いっとき)の刹那なものなのに、砂利のような体のなかで無限に膨らむ孤独は一体、どうしてこんなにも大きいのだろうな」


 ひとりぼっちの私は阿寧に話しかける。


「この孤独を抱えながら、人はひとりで先の見えぬ世を生きねばならぬらしい。たいへんなことだな」


 空には雁の群れが飛び、雲が浮かんでいる。緑河の水面は穏やかで、優しく微笑む阿寧を映し続けていた。


 鳥の眼を持ち大地を俯瞰する夢を、私は見なくなっていた。






半蛇円環伝

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