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分蛇(前編)

 銅鏡というものを使ったことがなかった。


 国で一等に映りのいい鏡面が周りにはいくつもあったが、それを覗いたことはついぞない。




 私には生まれた時から瓜二つの顔をした阿寧という存在が隣にいた。双生児である。

 乳母や女官たちは日々私と阿寧の髪に同じ回数だけ櫛を通し、同じ香油を馴染ませた。光の角度で変わる髪の艶さえも同じになるように仕上げられた私たちは、鏡面を必要としなかった。


 今日の支度の最中もそれは同じだった。ふと横を見やれば阿寧も同じようにこちらを向いた。

 互いの姿が銅鏡に映った像のように私たちはそっくりだった。


「阿澄、どうしたの」


 気のいい阿寧はそういって首を傾げる。


 「どうもしない」と、私は返事をした。隣を見たのは、女官が結った髪とともに冠を留めた簪がどれなのか知りたかったからだ。


 阿寧の頭にあったのは、伽羅木の簪だった。滑らかな曲線が入り組んだ白雲を模した装飾のついたものだ。阿寧によく似合う。


 簪の形を確認し、すぐに前へと向き直った私と違い、阿寧はこちらに寄ってきた。私の視線から、簪を気にしたと気づいたらしい。


「この白雲を模った簪、好きだな。頭に雲を乗せてると思うと楽しくなるから」


 そういって阿寧は笑った。背後には動く阿寧のせいで身支度が進められずに不満そうな女官がいる。


 この寝殿には私と阿寧、そして顔馴染みの女官と乳母しかいなかった。

 季節は春。開け放した戸口から温かな光と花の香りが入ってくる。


 「阿澄」とまた阿寧が呼んだ。私をそう呼ぶのは阿寧だけだ。


「蝶が入ってきたよ。御花園から来たのかな」


 小さな蝶は鏡台に置かれていた白粉箱の隅にとまった。阿寧はどこから持ってきたのか、繊細な竹細工の虫籠の口を開け、そっと被せるようにして蝶を捕らえた。

 蝶の入った虫籠はいつのまにか私の手に押し付けられている。


「ここは鉢植えばかりで土が少ないから、阿澄と外に行った方がいい。そうでしょ?」


 身支度の最後に被せられる四方に珠簾のついた冕冠のせいで、阿寧の表情が隠れた。


 同時に私の視界にも珠簾がおりてきた。小さな(ぎょく)の連なったそれがシシャラ、シシャラと音を立てる。


 私と阿寧は同じ香油を使う。同じ長さの髪は同じ形に整えられ同じ簪をさす。

同じ衣。同じ沓。そして同じ皇帝の冠をかぶるのだ。


 阿寧は迎えに来た太監とともに部屋を出ていった。


 私も女官たちの片付けを邪魔しないように外に出た。阿寧の背中を見送って、広い前庭へと降りる階段の隅に腰をおろした。

 左右対称に造形された石畳敷きの前庭には、牡丹の鉢が規則正しく並んでいる。

 阿寧に押しつけられた虫籠を、私は膝に置いていた。


 虫籠のなかでは、蝶が外に出たそうに羽根を動かしている。胸に刺繍された五指の龍と目が合って嫌がっているのかもしれない。


 珠簾越しに春の庭を見ていた目を閉じると、朝堂の光景が広がった。阿寧がいま見ているだろう景色を私は容易に想像できるのだ。

 朝堂では、左右対称に並んだ文武百官が揃い膝をつき、礼をしている。立ち上がる際には幾人かがもたついた。


 石畳の庭は明るいのに対し、伽藍と広い太い柱の並んだ朝堂は薄暗い。だが、どちらも左右対称であることは同じだった。



 阿寧が朝堂にいる時、私は朝堂にはいない。

 私たちはそういうふうにできている。



 阿寧が書を学べば私は弓を習い、阿寧が宮中にいれば私は郊外に出るというふうに。私たちはつねに対極に配置される白と黒の駒のように日々を過ごしている。


 決めたのは、すでに隠居した太師だった。

先帝が非業の死をとげ、朝廷の武官の数が半分に削られたのは五年前。誰もが未だに口を噤むのは、当時の傷が癒えていないことを物語る。


 生き残った者はみな疲労し、空席の目立つ閑散とした朝堂で、太師は乾いた口を開いた。


「今の朝廷は、もう何かを失うことには耐えられぬ。新帝を失うことは決してできぬのだ」


 つまりはそういうことだった。阿寧が宮中で死んでも、同所にいない私は生き残る。

 私が死んでも、阿寧は別の場所で生き残る。


 同時に二箇所に存在できる、失われない皇帝として、私たちは選ばれたのだ。




 主に皇帝として玉座につくのは阿寧だった。私は阿寧の()えの役で、正確にいえば皇帝の影武者のような存在だ。

 不満はない。

 むしろ玉座に縛られた阿寧には、申し訳ないとすら思う。


 今日もやることもなく階段に座わり、陽を浴びていると、やはりやってきた侍衛に外に連れ出された。


 「本日は狩りをいたしましょう」と侍衛はいった。

 輿の中で着替えをさせられ、裏門から宮中を出る。途中の官舎で馬に乗り換えた。


 はじめから外出着を着れば良いと思うが、阿寧と同じであることを強調するために朝の支度は同じにされるのだ。


 阿寧は宮中にいることが多いので、必然的に私は外に弾かれることになる。

 宮中で禍が起こった時、福が起こった時に()()()()()()()というのが私の役割だからだ。

そうでなかった先、選ばなかった選択、もしあの時と思い返したもう一方の道。


 阿寧の進む方向と並走しつつも違った方向に進むのが私の役目だった。


 侍衛とはそれほど遠くへは行かないが、ひと月ほど、見聞を広め身体を鍛えるためという体面で郊外をまわることもある。

 庶民上がりの侍衛は私によく農村の暮らしを見せた。それを私は気に入っていた。


 今日も侍衛に弓を習いながら狩りをし、外での馬の世話を教わった。寄らせてもらった農家では昼餉を馳走になる。

 阿寧に押しつけられた蝶は、そこの子どもらとともに空に放した。繊細な細工の虫籠を珍しがられたので、食事のお礼にとそれを渡した。

 よくよく見れば、あれは阿寧の手製だった。宮中の品ではないから大丈夫だろう。阿寧にはまた作ってもらえばいい。材料となる竹が必要かと思い侍衛に頼むと、すぐに竹林を見つけてくれた。土産ができた。阿寧はこういうものを殊更喜ぶ。


 今日は日帰りだったらしく、私は日の暮れる前に宮中へと戻された。馬に乗ったので夕暮れにはまた腹が空いていた。




 生まれた時から対極ではあるが、私と阿寧は出来るだけ同じ寝殿で寝食をともにする様にも促されていた。

 まったく別の皿から別のものを食べながら、朝堂で起きたことを阿寧は私に事細かに話してくれる。いつ入れ替わっても不足のないように、見たもの聞いたものは共有しておけといわれている。


「そしたら三の大臣がこういったんだ。田畑を守る治水よりも、異民族の南下を防ぐ長城の建設を進めるべきだって。そして私の話す順になったから、私は―――あ。この棗の糖蜜漬け美味しい。阿澄も食べて。好きな味だと思うから」


「白の器のものは食べられない。決まりだ」と私がいっても阿寧は諦め悪く、給仕に視線をやった。


「ねぇ、これを一つだけでいいから、阿澄の黒い器に乗せてくれない?」

「器の料理はそれぞれの厨房が作るもの。混ぜることはできませぬ」


 給仕にすげなく断られた阿寧は子どものように足をバタつかせた。


「毒はどう見たって入っていないじゃない。二人で同時に泡を吹いて倒れたりしないってば。食事の種類まで分ける必要がある? 厨房も器も別でいいから、せめて同じ料理を作ってくれたっていいじゃないか。違ったものを一緒に食べても楽しくないよ」

「遅効性の毒かもしれない」

「阿澄は黙っててよ!」


 もう!と阿寧は怒ってまだ残っていた白い器をすべて下げさせてしまった。

 私も仕方なく食事を終える。


 日中に皇帝として振る舞う阿寧は、寝殿では口調が幼くなる。皇帝としての役割がほぼない私は、いつか来るその時のために日頃から口調は崩すなといわれているので、そこは反転している。


 阿寧とは、同じだったり、対極だったり、反転だったり、入れ替わったりと、なかなかにチグハグで歪な関係にあるのだ。


「阿寧、三の大臣の話が途中だぞ。そこでお前はどう答えたんだ」

「もう忘れてしまった」


 すっかりへそを曲げた阿寧である。私は部屋にいた給仕や女官を下らせ、戸口に立っている守衛に「もう寝る」と声をかけて戸を閉めさせた。

 座卓で丸まっている阿寧をつつくと、さらに意固地になり顔を隠す。


「阿寧が忘れるわけない」

「忘れたっていったでしょ」


 私と違い、阿寧は文に才がある。一度聞いたり読んだりしたものは忘れないし、それを再構築するのも得意だ。


 三の大臣とは、阿寧が私のためにつけてくれた私たちだけの呼び名だった。何人もいる重臣。彼らの家や位による権力勾配、結びつきを口伝てだけで覚えなくてはいけないのは私には難しい。そこで阿寧は、私が理解しやすいよう大臣たちに呼び名を割り振ってくれたのだ。


「それより阿澄が話す番でしょ。今日はどこに行ったのか教えて」


 丸まったまま阿寧はいった。

 元来、私は口下手であったが、阿寧とその日の出来事を共有する習慣のために、少しは口が回るようになってきた。


「今日は森で狩りをしたあと、濁河をのぼった。数日前の雨でまた河が荒れたから、河と岸辺の境が曖昧で泥濘んでいた」


 興味を引けたようで、阿寧はようやく顔を起こした。


「続きは?」

「ああ、そうだな。……彼方の山々は薄墨のように奥へと溶け、空には鳶が弧を描き……」

「阿澄の言葉で話して。書を引用したりしないでよ」

「私が風景描写を蔑ろにすると、怒るのは阿寧だろう。なんだ、せっかく勉強したのに」

「阿澄が見て思ったことを教えてっていってるの!その方が目を閉じた時に阿澄の景色がよく見えるもの。ちゃんと! 阿澄の言葉で教えて!」


 いつもうるさい阿寧である。

 言葉を知らないといわれたから、阿寧の持つ書を読んで少しでも伝達の足しになるかと思った私が馬鹿みたいだ。


「あー……、泥水は臭った。瓦礫の溜まった道は難儀したし、土色の河は脇道まで飲み込んで河幅が太く輪郭が曖昧で、なんというか……不気味だった。ような、気がする。……満足か?」


 「うん」と阿寧は笑った。


 国で一等に大きな河は緑河という。

 西の雲乗山の雪解け水から始まる緑河は、大きな流れのまま東海へ注ぐ。

 この国を横切る緑河は、国境(くにさかい)の役目ももっていた。緑河より北の大地は遊牧民の部族がそれぞれ王をたてている。

 この国境代わりの緑河から分かれた二又の流れが国内へと流れ込む濁河だった。

 濁河はその名の通りよく氾濫を起こす暴れ河で、周りの農耕地をかき混ぜては戻り、また溢れては戻り、を繰り返す形を変える内地の大河だ。


「濁河はまるで肥大した蛇のようだった。だが夏になれば痩せて、また形を変えるだろう」

「私は濁河って好きだよ」

「私の話を聞いていたか?」


 「もちろん」と阿寧はいった。


「阿澄は河をよく蛇に例えるよね。私には水面が膨らんでいるなとしか思えないけど、きっと阿澄は鳥の眼を持ってるんだね。鳥の視線で河を見るもの。阿澄から聞く濁河って好きだよ」

「私は濁河が不気味だ。早く治水工事を進めた方がいいと思う。濁河が山から土を運び、撹拌し、土を肥やしていると太師に教わったが、こんなに暴れてはどうしようもない。土砂は腐るし、川辺で病が流行るのは嫌だ」

「そうだね。でも治水は後回しだってさ。今年も緑河は大人しく冬には綺麗に凍ってしまうだろうから、緑河にそって長城を建てることに決まったよ。それが今日の朝堂の結論。長城派が十五で治水派が三、どちらでもないのが十だった」


 やはり三の大臣の話を覚えている阿寧である。


「冬に北方の王がまた緑河を渡って南下してくるのか」

「そうだね」


 朝堂の話しはここで終わった。記録を共有することだけが私たちの役割だからだ。


 私たちは女官は呼ばず、ふたりで寝支度をした。部屋を灯していた大量の蝋燭を、どちらが多く消せるか競争する。今夜も私が勝った。

 阿寧よりも身体の大きな私は、書は苦手だが乗馬と弓が得意だった。


 寝台に乗った阿寧は、乱れなく一つにまとめられていた髪を解きたがった。


「女官が嫌がるぞ」


 髪を解いて眠ると支度に時間がかかるのだ。


「頭が痛いんだもの」


 そういって阿寧は手を伸ばしてきて、私の髪も乱した。

 阿寧の支度が伸びれば、私の支度も伸びるので抵抗はしない。私たちは同じなのだ。


 だらりとおりてきた黒髪が寝巻きの肩と背中を包みこむ。二人とも黒い紗でも被ったような陰鬱な有り様だ。阿寧と私の髪は長く、寝台の上に黒黒と溢れた。


「髪を解いて眠ると絡むし、阿寧に髪を踏まれると痛い」


 不満をもらす私に、阿寧は「こうやって寝台の左右に流せばいいんじゃない?」と明るくいった。


 ふたりで並んで枕に頭を預けると、阿寧は寝台の右手に、私は寝台の左手に自分の髪を垂らした。女官が手入れする髪は艷やかで、寝台から滝のように落ちると、床では緑黒の生きた蛇のように這った。


 その様子に「私たち、河になったみたいだね」と阿寧は喜んだ。

 そういわれると、流した髪がゆったりと流れる緑河のような気がしてきた。キツイ結い上げから放たれた頭皮がサワサワとして、頭が水に浸かっているような心地になる。なるほど、髪を解くのも悪くない。


「私たちの頭が雲乗山で、私たちの頭には雲が乗ってるの」


 阿寧の声が隣から聞こえる。薄暗い寝台で二人きりの時、私たちはよくお互いの知っている風景を混ぜて空想の山河を想像する。

 私は目を閉じた。


「雲と山頂の雪の白が混じってる。その白が春に溶けだして河になる」


 阿寧の声を聞きながら、私は自分の頬が緑に苔むし、頭から木々が生えて茂る想像をした。


「私たちの髪にそって河が二又に流れる。水面は雲を映してるよ」

「……この位置だと、阿寧が緑河で私が濁河になるぞ」


 嫌だな、と私は思う。美しい深緑の国境としての役目もある緑河と、氾濫ばかりで形も歪な濁りきった濁河は水源を同じくするとは思えない様子の河なのだ。

 

「私は濁河は好きじゃない」


 半分眠りにつきながらいうと、隣の阿寧が動いたようでシシャラと髪の擦れる音がした。


「私は豊かな土を運んでくる濁河が好きだよ。濁河は南下して、私たちの見たことのない南の海に向かうでしょう?」


 夢の中で、私は太ったり痩せたりする濁河を見下ろす鳥になっていた。なぜ鳥であることが分かったかというと、隣に並んで飛んでいる阿寧が雁の姿だったからだ。阿寧が雁なら、私も雁ということになる。













 冬になった。

 私たちは揃いの外套を羽織り、部屋の中でも白い息を吐くようになった。宮中の鉢植えも葉を落とし、蝶たちは姿を消した。


 私は宮中の梅園をひとりで歩きまわって過ごしている。

 阿寧が北方との国境へと出ているので、私の居場所は宮中に固定されていた。


 いつもとは逆だ。


 皇帝の遠征ということで、もちろん朝廷は開かれず、しんしんと冷え込む宮中の入り組んだ通路と梅園を目的もなく彷徨うしか私にはやることがない。


 何か面白いものを見つけなければ、と私は焦っていた。


 阿寧は私の話を聞きたがるのだ。帰ってきた阿寧のために語ってやれるような風景や出来事を私は探していた。


 ようやっと園庭の奇岩の連なりの隙間に、越冬する蝶の蛹を見つけた時は嬉しかった。


 私は蛹をじっと見ながら、それをあらわす言葉を探した。どうしたら阿寧に伝わるかを考えるのは難しい。冬をあらわした書を女官に一冊探してきてもらい読むべきかもしれない。


 私と阿寧は神通力のようなもので視界を共有できる訳では無い。共有しているフリができて、想像ができるだけなのだ。

 双生児だからと特に天恵があるわけもなく、何かがあるように振る舞うことを求められているからそうしている。


 見たままを阿寧に伝えるには、他の人々と同様にそれに合う言葉を探す手間がいる。そういうわけで蛹の静かさだったり、そこに在るという手触りだったりを私は記憶しようとした。


 そんな時だった。冬の曇天のもと、静まり返っていた庭園に侍衛が駆け込んできたのは。



 疾駆けの馬車に詰め込まれた私は六日をかけて北の国境へとやってきた。一日ごとに冷えていく大地に、私は車のなかでうずくまり凍えていた。


 侍衛の話す言葉もあまり頭に入らない。私は阿寧が噛み砕いてくれる易しい言葉に慣れているため、急いた者の話す硬い言葉が苦手なのだ。


 「陛下が北王の弓矢に倒れました」という言葉がかじかんだ耳に入るが、いまだにそれを理解できない。


 軍営に到着すると、私は矢の刺さった血塗れの鎧を着せられた。阿寧のものだとすぐにわかる。


 顔に凍傷のある将軍が隣に来た。


「このまま輿でお運びしますから、合図をしましたら起き上がり、胸の矢を抜いて見せてください」


 「陛下」と将軍は私を呼んだ。それは阿寧が失われたという証しであった。


 馬車のなかできいた「矢に倒れた」という言葉が、ようやく私のなかに落ちてきた。


「陛下の兵士たちを鼓舞するためなのです。天子は失われていないと示していただきたい。どうか。どうか、お願いいたします」


 私は指示された通りに、復活する無傷の皇帝を演じた。


 高く掲げられた輿から見た国境は、凍りついた緑河に降り積もった雪で一面が白く覆われていた。


 すぐ近くまで迫っていた北王は、立ち上がった私を見てその足をとめた。

 その顔に驚愕の表情を見た私は、彼が阿寧を射たのだと直感した。自分の弓に絶対の自信があるからこそ、立ち上がった皇帝が信じられないのだろう。

 巫者の地位が高い北方では、よみがえりを畏怖するとも後で聞いた。


 あいつが阿寧を射った。


 その事実は一瞬で私の血を沸騰させた。私は背中に隠していた弓を取ると、阿寧の鎧に刺さっていた矢をつがえた。一気に弦を引き、放つ。


 私の返した矢尻は、もちろん北王に届く前に敵将によって叩き落とされた。

それでもよかった。

 自軍の士気を上げるというのが、私の役割だからだ。


 それからしばらくして、北王は軍を下げた。






 私が阿寧に会えたのは翌日の夜になってからだった。


 極寒の地で息をしなくなった阿寧は、硬く冷たくなっていた。

 さらに一回り小さくなったような体を抱き抱える。あまりの冷たさに心臓が竦んだ。


 冷たい阿寧と温かい私。

 死んだ阿寧と生きなくてはならぬ私。


「阿寧、こんな対極は嫌だ。私たちは同じはずだろう」


 皮膚の奥、臓物までもが冷え切っている阿寧を抱きしめていると、私の熱がどんどんと奪われていくのが分かった。


 きっとこのままくっついていれば、私たちは同じ温度になる。


 それは阿寧と記憶を共有していた時のような安心感を私にもたらす想像だった。


 阿寧の冷たさを受け入れ動かなくなった私に気付いたのは侍衛だった。すぐに飛んできた彼によって、私は阿寧と引き剥がされた。


「陛下は生きなくてはなりません!」


 阿寧が死んだのにか、と私は思ったが、確かに阿寧が死んだのなら私は死んではならぬのだろうとも思えた。私たちはそういうふうにできているのだ。


 血みどろの阿寧を抱き締めていたのに、私の衣に血はつかなかった。この寒さで阿寧の血は凍り、私に移ることすらなく時を止めていた。

 それがひたすらに悲しかった。


 だから、侍衛が「陛下! 出血されています」と騒ぎ出した時は嬉しかった。

 侍衛の言う通り、先ほどまでシミ一つなかった私の衣に鮮血が滲んでいるのを見たときには「ようやく」と思った。


 阿寧と同じになれた。


 少し遅れたが、阿寧の凍った血がようやく溶けて私を受け入れ移ってくれたのだと思った。いつもと同じように、私は阿寧とすべてを共有できる。時間や視界だけではない、痛みさえも、すべてだ。


 今思えば、すべては思い込みと勘違いだったのだが、この時の私は阿寧とともに死ねると本気で思っていた。

 侍衛の声が遠くに聞こえる。





 これが私の初潮であった。



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