公爵閣下。わたしがあなたと愛を育むつもりだと思っているのでしたら、それはとんだ勘違いですよ
「目障りだ、さっさと連れて行け」
夫の怒鳴り声が屋敷中に響き渡る。
五年ぶりに、国境地帯の駐屯地から帰ってきた夫のバリトンボイス。
イーズデイル王国軍の将軍である彼は、この声で将兵を鼓舞し、王国軍を勝利に導いたのだ。
その救国の英雄である彼が、わたしの形式上かつ書類上の夫なのである。
王国の英雄でありイーズデイル王国軍の大将軍である夫とは、婚儀の席で会話を交わすどころか目と目さえ合わせていない。というか、ベールに隔たれ顔をまともに見ていない。夫もまたわたしの顔を見ていないはず。おざなりだった初夜でも、真っ暗な中で顔がわからなかった。夫は、寝台で儀式的に行われたエクササイズが終ると寝台から飛び降り身支度を整え、さっさと部屋から出て行ってしまった。そして、眠る間も惜しいとばかりに月明かりの中を国境地帯へと戻って行った。
結局、そのときには彼の顔を見なかった。バリトンボイスだということさえ知らなかった。
そして、それ以降彼は帰ってこなかった。
一度たりともだ。
そんな夫が突然帰ってきた。
驚きよりも当惑してしまった。
クレイグは、わたしだけでなく息子のレンのことも大嫌いである。
まだ五歳のレンは、マッキントッシュ公爵家の使用人たち曰く「愛くるしい神童」らしい。
たしかに、黒い瞳で黒髪でのっぺりとした顔で小柄なわたしに似ていない。
彼の外見については、感謝している。外見だけは、元夫の遺伝子を継いでくれたことを。
レンがわたしの憧れの金髪碧眼ということを差し引いても、彼は可愛いし利口すぎる。もっとも、この評価は親バカによるものだろうけれど。
そんな「愛くるしい神童」であるレンに怒鳴り散らす夫は、ここが戦場にいるかのように殺気立っている。
怒鳴られたレンは、怯えることなくニコニコと彼を見上げている。
「なにをしている。目障りだと言っただろう? おまえもだ。はやく出て行け」
レンの殺人的なニコニコに、彼は動じることはなかった。
さすが「戦場の獅子」と異名を持つだけのことはある。
「クレイグ、ひどすぎるぞ」
「旦那様、ひどすきます」
エントランスで出迎えている使用人たちから、いっせいに抗議の声があがった。
「お疲れのところ申し訳ありませんでした」
使用人たちに視線を送り、レンを足元に引き寄せながら頭を下げた。
「ご無事で安心いたしました」
「閣下、ご無事でほんとうによかったです」
足元でレンが言った。
打ち合わせておいたのだ。
「ふんっ! 無事なのは当たり前だ。おれは、おれのやるべきことをやったまで。祝われる筋合いはない」
「失礼いたしました。なにかございましたらお呼びください。さあ、レン。行きましょう」
一礼すると、足許でレンもきびきびと頭を下げた。
それから、彼に背を向け歩きはじめる。
彼がわたしや息子を嫌うのも無理はない。
そして、わたしもそんな彼に何も期待はしていない。
というよりか、すべてを諦めている。
諦めていれば、なにがあっても失望することはない。残念だったりショックだったりもない。
すべてを諦めてからラクになった。
これほどラクなことはないだろう。
元夫は、このイーズデイル王国の現国王である。彼は、はっきりいって愚王である。イーズデイル王国建国以来の出来の悪い王といっても過言ではない。
そんな彼が国王の座に就けたのは、ひとえに彼の生母である王太后のお蔭である。
前国王の死後、彼女は前国王の側妃たちを一掃した。もちろん、それだけに止まらない。側妃たちの息子、つまり王子たちをも一掃した。
一掃、というのは「暗殺」か「刑死」。つまり、「死」の一択である。
というわけで、彼女の可愛い息子が国王の座に就くしかなかった。
ということで、その妻であるわたしが王妃になった。
しかし、元夫はわたしのことは興味も関心もなかった。というか、大嫌いだった。もっとも、わたしも彼のことが好きではなかったけれど。
わたしは、産まれる前から王子である彼の婚約者と決まっていた。その運命を背負っていたわたしは、実家であるロックフェラー公爵家のためにひたすら王妃教育や政務をこなしてきた。
わたしが元夫に代わって政務をこなしている間、彼は遊びまくっていた。レディとの遊びだけではない。賭け事やいかがわしい遊びにものめりこんでいた。レディは、気に入れば身分を問わず囲った。側妃に出来る身分ではないレディは、旧宮殿に住まわせていたのだ。
そんな元夫の評判がいいわけはない。彼の愚かさは、いまや国内だけでなく諸外国にも知れ渡っている。
元夫とわたしの関係は、関係と呼べるほど接触がなかった。夜のエクササイズにいたっては、王太后の命によって義務的に行っただけである。
ひとえに、後継者を得るために。
それも数度のことだった。
そして、レンを身籠っていることに気がつく前、わたしは追放された。
結局、王太后は政務で活躍するわたしが目障りになった。自分の息子の評判が悪くなればなるほどわたしのそれがよくなっていく。しかも戦争を終結に導いたのである。彼女にすればよりいっそう脅威になっただろうし邪魔になっただろう。そこで決めたのだ。わたしを追い払おうと。
というわけで、王太后はわたしを戦争の英雄であるいまの夫クレイグ・マッキントッシュに押し付けた。
謁見の間でそれを言い渡されたわたしの驚きは口では言いあらわすことはできない。それはクレイグも同様だったに違いない。
「そんなものはいらん。ごめんだ」
まだ戦地にいたクレイグは、使者から命を受けた瞬間きっぱりハッキリくっきりそのように拒絶したらしい。
が、それは無視された。というか、もともと彼の意向は関係ない。
わたしを送りつけた。
わたしは、彼の領地に送られた。
レンを身籠っていることに気がついたのは、クレイグとの婚儀を終えた三ヶ月後だった。
クレイグに嫁ぐ直前、元夫と夜の定期エクササイズを行っていた。
つまり、微妙なわけ。
レンの父親がどちらなのかがわからないわけ。
レンは金髪碧眼。
そして、クレイグも元夫も同じである。
ふたりとも金髪碧眼。
美貌なのだ。
皮肉な話である。
名ばかりの夫であるクレイグ・マッキントッシュ将軍のお蔭で戦争は勝った。しかし、快勝したわけではない。それどころか、敵国同様かなりの痛手をこうむっている。
先の戦争は、クレイグの戦術とわたしのささやかな駆け引きでかろうじて勝ったにすぎない。
戦争で傷つき病んだのは、兵士だけではない。兵士以外のおおくの民間人もまた戦争の影響をこうむっている。
しかし、それにたいする医療体制は戦争中から不十分である。
戦争から三年以上経ったいまでもまだ医療体制は充分ではない。それどころか悪化の一途をたどっている。いまや戦争だけではない。各地の飢饉や流行り病なども重なり、医療は崩壊しかけている。
医療の問題は、王国全体の問題であり課題でもある。
マッキントッシュ公爵家は、領地内の土地が肥沃である。くわえて山や森が多く、鉱山まで有している。そのため、他の領地より裕福である。
王都から遠く離れたこの領地内に病院を建てることで、マッキントッシュ公爵領だけでなく、周囲やそれ以外の領地の領民たちにも医療を提供できるようになった。
もちろん、わたしの一存で決めたことではない。
いまだ緊迫状態にある敵国との国境線で睨みをきかせているクレイグに手紙を送り、彼の許可を得て行ったのである。
クレイグは、わたしのことは大嫌いだけれど領民は大切にしている。すぐに許可をしてくれた。それから、わたしの好きなようにしていいとまで言ってくれた。
そのことだけは、感謝している。
それはともかく、彼が国境線で防衛兼威嚇を続けていた五年間、わたしは病院のことも含めて領地とマッキントッシュ公爵家の経営を彼にかわってやってきた。
たしかに、わたしは王家がおしつけた傷物の妻。形式上であろうと肩書だけであろうと妻は妻である。
不在の夫の代理を務めるのは当たり前のこと。
というわけで、この五年間はレンを産んだ前後だけ休んだけれど、それ以外は経営に奔走した。
ありがたいことに、執事のリーアムやマッキントッシュ公爵家の管理人はまれにみるいい人たちである。
彼らに助けられ、支えてもらいながら五年間をのりきることができた。元夫や王太后に「王国を乗っ取ろうとしている悪女」と怖れられ遠ざけられたほど政務をこなした経験があったのもよかったのかもしれない。
とりあえず領地内の経営はうまくいっているといっていいだろう。
「わたしではなく、旦那様に確認した方がいいわよ」
「アン。クレイグではまだムリだよ……」
執事のリーアム・ホプキンズが領地内の病院の件で確認をしてきた。
クレイグが帰還した以上、わたしの出る幕はない。
リーアムと管理人に引継ぎを任せている。
あとは、旦那様にすべてを託せばいい。
が、習慣や癖で彼らはわたしに尋ねたり確認してくる。
「まだ引継ぎが終わっていないからな。早急に片付けたい案件は山積みだ」
困った表情のリーアムに苦笑するしかなかった。
彼の言う通りである。
クレイグは、五年間もの間緊迫状態にある国境を見張り、守り続けていた。領地に戻ってきて数日で疲れが取れるものではない。ましてや膨大な量と多岐に渡る情報を吸収できるわけはない。
「ごめんなさい。わたしの配慮が足りず、あなたを困らせてしまったわね。旦那様が執務につけるまで、いままで通りわたしがやります。だけど、『レディごときがしゃしゃり出るな』と不興を買わないかしら?」
以前の二の舞になりかねない。
以前は、しゃしゃり出たくなかったけれどそうするしかなかった。しかし、しゃしゃりでたからといって、すべてを掌中におさめようとしたわけではない。ましてや乗っ取ろうという気など微塵もなかった。
わたしは、愚かで怠惰な国王である夫のかわりに、できるだけのことをやったまでのこと。
その結果が裏切りだった。離縁されただけでなく、冤罪による追放。そして、嫌われ妻として下賜された。
「アン、心配はいらない。クレイグにはちゃんと了承を得ている」
「さすがね、リーアム」
リーアムは、何事も完璧だし先見の明があるし、なによりクレイグとマッキントッシュ公爵家に忠実である。彼は、クレイグとは同じ年齢で乳兄弟。わたしより十三歳年長である。彼は、熟練した執事なのだ。
彼みたいな人が側にいてくれたら、わたしの王宮での政務もすこしははかどったに違いない。彼のように信頼できる人がいてくれたら、精神の支えと慰めになったに違いない。
「さっそく街に行ってくるわ。レンは、まだ庭にいるのかしら?」
「ああ。マーティーに剣を振らされているよ。マーティーめ、レンはまだ五歳だというのに……」
「レンがやりたがっているのよ。まったく、レンはすぐに意地になるのだから。だれに似たのかしらね?」
マッキントッシュ公爵家は、初代公爵のときから武門の家系である。代々、ぶれることなく武でもって王家に仕えている。そういう家だからこそ、屋敷内にはそういう関係のもので溢れかえっている。
レンは、男の子だからというだけではない。まだハイハイしている頃から剣や馬に興味を抱いていた。
マーティー・ハンフリー元大佐は、将軍であるクレイグの側近だった。彼は、戦時中の足の負傷で引退をしたのである。彼は、故郷であるマッキントッシュ公爵領に帰ってくると、領地内の病院で治療とリハビリを行い、いまでは公爵家の雑用人としてわたしを助けてくれている。
マーティーもまたクレイグとは幼馴染であり、剣のライバルでもある。いまではレンの指南役を務めてくれている。
マーティーは、お世辞やおべんちゃらを言うタイプではない。その彼が「レンは、筋がいい」と言ってくれている。
レンもがんばっている。
しばらくは、マーティーにお願いしてレンの好きなようにさせるつもりである。
今日は、荷馬車で行くことにした。
帰りに町で買い物をしよう。果物屋にアプリコットが入ってくるはず。それから、肉屋にはベーコンが入ってくる。そうそう。メイドたちとの「レディ」トーク用にドーナツも必要ね。マッキントッシュ公爵家の名料理人は、料理はもちろんのことスイーツも最高である。わたしもスイーツを作るのは得意。
しかし、町のドーナツ専門店のドーナツは、わたしたちのそれとは違う。最高に美味しいのだ。しかもめずらしい形や種類を楽しめる。
というわけで、仕事のついでに買い物をする日は荷馬車で行くことにしている。なにもないときは、馬に乗って町へ行く。
乗馬用にしているシャツとズボンに着替え、自分で荷馬車を準備した。
出発しようとしたところで、レンとマーティーが厩舎にやってきた。
「母上、町へ行くのですか?」
「ええ、レン。病院の先生や看護人の応募者の面接よ。帰りにドーナツを買ってくるわね」
「楽しみにしています」
レンは、五歳とは思えないほど聞きわけがいい。
「マーティン、いつもレンの面倒をみてもらって悪いわね」
「最近は、おれの方が鍛えられてるって感じさ。剣の鍛錬はいったん中断して、いまから馬のブラッシングと馬房の清掃を手伝ってもらおうと思っている。それから、乗馬の稽古だ。アン、かまわないかな?」
「もちろんよ。だけど、馬たちに負担をかけないでね」
マッキントッシュ公爵家の馬たちは、よく調教がされている。馬好きのクレイグは、老馬やケガや病で役に立たなくなった軍馬を引き取っている。治療や療養後、その馬の経過に応じた余生を送らせている。
おとなしくてやさしい軍馬たちは、まだ幼いレンやレディのわたしにたいしても嫌がらず素直に乗せてくれる。あるいは荷馬車で運んでくれる。
「おっと、頑固なおっさんの登場だぞ」
マーティンのささやきにハッとした。屋敷の方からクレイグがやってくる。
「やあ、クレイグ。どうした?」
マーティンは、現役時代からこんなだったのだろうか。いまは一応雇い主であるはずのクレイグにたいし、まったく物怖じしない。というか、敬意の欠片も持ち合わせていない。
「おれも町へ行く」
クレイグは、こちらに鋭い視線を向けてボソッと言った。
「ですが、閣下。今日はちょっとした用件で行くだけなのです」
リーアムに聞いたのだろう。だけど、今日はほんとうにクレイグが出ていくほどのことではない。
「本来ならおれがすべきことだ。あるいは、リーアムか他のだれかにさせるべきことだ」
クレイグは、険しい表情で脅してきた。
このわたしが、それくらいでビビるとでも思っているのだろうか。
(だけどまぁ、『おれが帰ってきた以上、レディごときがでしゃばるんじゃない』ってことよね。わかりました)
彼の不在時に好きなようにさせてもらっていた。
彼にしてみれば、マッキントッシュ公爵家とその領地などすべてを、わたしに乗っ取られたような気になっているのだろう。
(前と同じことね。その規模が国か領地かというだけのこと。また同じことの繰り返し? わたしってほんとうに学習しないわね)
しかし、悔いはない。前回のときもそうだけど、今回も領民だけでなく多くの人たちの助けになったはずだから。
たとえこれでまた離縁され、ここから放り出されるか、もしくは他のだれかにまわされたとしても、他の多くの人たちの助けになったのならそれでいい。
偽善や自己満足にすぎないのかもしれない。
なにより、こんな母親でレンがかわいそう。
「すこしでもはやく知りたいし、覚えたいからな。そこをどけ。馬は、おれが御す」
クレイグは、手綱を握るわたしをおしのけるようにして荷馬車に乗ってきた。仕方なく、彼に場所を譲った。
「だれかさんは、ほんとうに可愛げがないな。素直にアンとデートしたいと言えばいいのに」
「うるさいぞ、マーティン」
「野郎のヒステリーってみっともないな。なぁ、レン? そうだ。クレイグ、おまえもレンに剣を指南してみろよ。レンの才能に驚くぞ」
クレイグは、マーティンに揶揄われてますます険しい表情をしている。
クレイグは、金髪碧眼で渋い美しさと可愛さを混ぜた顔立ちをしている。それなのに、彼はどこか強面を気取っている。
「ふんっ! おれは、子どもは好きじゃない」
微妙な空気が流れた。
レンは、クレイグの血を継いではいないかもしれない。前夫の血をついでいる可能性がある。
もちろん、クレイグには懐妊がわかった時点で彼との子なのか前夫との子なのかはわからない。そう手紙で知らせているし、マッキントッシュ公爵家の人たちにも伝えている。
「父上は、イーズデイル王国一の剣士だと聞いています」
「レン、いまはそうだ。おまえの父上は、おれが負傷をするまでは二番だった」
レンがクレイグにキラキラした碧眼を向けたとき、マーティンが茶化した。
「父上にも剣の指南をしていただきたいです」
レンは、彼なりにクレイグの関心を惹こうとしている。
それがまた健気で可愛すぎる。
それなのに、わたしは最初から諦めている。
諦めた方がラクだからと、クレイグにたいしてすべてを諦めている。
「素振りをしたとき、剣が右にぶれている。マーティン、癖はやっかいだ。それは、おまえもよくわかっているだろう? はやいうちに直させろ」
クレイグは、そうつぶやくと荷馬車を出した。
「はい、父上。気をつけます。父上、母上、いってらっしゃい」
レンは、クレイグのつぶやきがうれしかったらしい。うれしそうに手を振った。
振り返ると、レンはいつまでも手を振っていた。
(可愛すぎる)
わが子の可愛さをあらためて思い知らされ、鼻血が出そうになった。
町までの道中、ふたりきりで気まずい思いをするはずだった。すくなくとも、わたしは気まずくなると思い込んでいた。しかし、そうはならなかった。
クレイグが積極的にわたしに質問や疑問をぶつけてきたのである。
意外すぎた。
しかしそれは、うれしい誤算だった。
もちろん、彼のすべての質問や疑問に答えた。
じつは、クレイグとは戦争中に協力し合った仲である。彼は戦地で指揮をとり、わたしは王都で駆け引きや裏工作や支援で。それぞれの分野、得意なことで全力をだしきり、戦い抜いた。
面識はないものの、わたしたちは同志だった。
皮肉にも、顔を合わせたのは婚儀のときが初めてだったけど。
とはいえ、クレイグとは婚儀のときでさえまともに顔を見合わせなかった。ろくに会話を交わさなかった。感情もなにもこもらぬ形式的な初夜をすませ、さっさと国境地帯に戻ってしまった。
以降、彼はずっと国境地帯にいたのである。
そして、これもまた皮肉なことだけど、わたしはそんな彼のことを信頼している。が、残念ながら夫としてではない。あくまでも将軍として、そして戦友としてである。そういう意味では、彼もわたしのことを認めてくれているのではないだろうか。
もちろん、妻としてではなく戦友として、だけど。
そう信じたい。
とにかく、彼の質問に答えたり意見を出し合っているうちに、目的地である病院に到着した。病院では、医師や看護人たちの面接を行った。わたしは脇役に徹し、彼にやってもらったことはいうまでもない。そのあと、病院や教会や学校の関係者と雑談し、この日の用事はすべてすませた。
「よりたいところがある」
クレイグがそう言ったのは、例のドーナツ屋さんで大量のドーナツを購入し終わったときだった。
彼の行きたいところへ向かっている途中、行き交う人々が声をかけてきた。
彼が領民たちから慕われていることは、意外でもなんでもない。
もともとクレイグは、領民にたいして善良で公平な「いい領主」なのだ。
とにかく、町の人たちへ挨拶をしつつ、彼の目的地へと着いたのは、そろそろ陽が傾きかける頃だった。
そこは、鍛冶屋だった。
彼は、その鍛冶屋で剣やその他武器をつくってもらったりメンテナンスを行っているらしい。
レディのわたしが鍛冶場に入るわけにはいかない。馬車で待つことにした。
彼の用事は、そんなに時間はかからなかった。
そうして、すべてのミッションをクリアし、帰路についた。
クレイグは、帰りもまた行きのとき同様さまざまな質問や疑問をぶつけてきた。
陽が暮れてしまったので、ランプに灯をともした。
いくら王都から遠く離れた領地とはいえ、クレイグは公爵であり将軍でもある。
(供や護衛を連れずにいいのかしら?)
月とランプの灯りだけの中、いまさらながら心配になった。
(クレイグがこの王国一の剣士だとしても、いま彼は剣を持っていない。複数の敵に襲われればヤバいわよね)
そのときには、当然わたしもヤバい。
本来なら、夫である彼を守らないといけない。しかし、わたしはいまここで死ぬわけにはいかない。
レンを育て上げるまでは。彼の成長を見届けるまでは、なんとしてでも生き抜きたい。
しかし、命乞いするつもりもない。クレイグを見捨て、自分だけ助かろうとか逃げるつもりもない。
(まっ、そうならないように祈るばかりね)
自分のこととなると、途端にいい加減な結論にいたってしまう。
クレイグとの質疑応答の合間にそんなムダなことを考えていると、お腹の虫が盛大に自己主張をはじめた。
「いやだわ。失礼いたしました」
顔を真っ赤にして恥ずかしがる年齢ではない。
他のおおくの母たちは違うだろうけれど、レンを産んでからすべてにおいてど厚かましくなった。ついでにいうと、羞恥心が欠如してしまった。
それでも一応、クレイグに不作法を謝罪した。
「グルルルルル」
その瞬間、クレイグのお腹の虫も騒ぎはじめた。
「そうだわ。こういうときのために、これがあるのよ」
町のドーナツ店で購入したドーナツの入っている袋に手を突っ込み、とりあえずひとつ取り出した。チョコドーナツだった。そのドーナツ店のドーナツは、棒状だったり四角だったりと形がさまざま。チョコドーナツは、棒状。とりあえず、ひと口大にちぎった。
「はい、アーンして」
「……」
夜鳥と夜虫の大合唱。それに、馬の蹄と馬車のガタガタ音が協和音を奏でている。
それは、意外と耳に心地いい。
(やってしまった)
そう気がついたのは、ひと口大のチョコドーナツをクレイグの口に放り込んだときだった。
ついついレンにするようにやってしまった。
無意識の内にとんでもないことをしでかしていた。
「美味しいですよね。つい最近できたドーナツ店なのです。屋敷のみんなも大好物です」
もうどうにでもなれ。
開き直った。やってしまったものは仕方がない。
自分の口にもひと欠片放り込み、クレイグの口にもさらに放り込んだ。
それを何度か繰り返し、チョコドーナツに続いてシナモンドーナツもふたりのお腹の中に消えた。
ふたりのお腹の虫は、とりあえずおとなしくなった。
「食べすぎると夕食が食べられなくなります。レンにいつも注意しています。ですが、こういうのって背徳感があっていいですよね」
さらにヤバいことをのたまっていた。
クレイグは、ずっと黙って手綱を握っていた。
(というか、『はい、アーンして』に素直に口を開ける?)
彼は、まるで親鳥から虫をもらうヒナのようだった。
(でも、可愛かったわ)
ひそかに笑みを浮かべた瞬間、屋敷が見えてきた。
ちなみに、クレイグは酒よりスイーツの方が好きだということがわかった。
このとき食べたドーナツを大変気に入ったのだ。
もっとも、彼は口にだして何も言わないし、そんな素振りも見せないけれど。
その日以降、ドーナツ店に行くときには彼の分も大量に買った。そして、メイドのだれかに持って行ってもらった。
執事のリーアムがしばらく王都へ行くことになった。
クレイグへの引継ぎは、すべてわたしが行った。
わたしがやってきたことも含め、リーアムや管理人のやっていることもクレイグに伝えた。
クレイグは、記憶力がよく柔軟性に富んでいる。
あっという間に引継ぎが終った。
(これでわたしの役目も終わった)
ホッとするとともに、寂寥感と脱力感に襲われた。
前の夫のときからずっと働き続けてきた。もっとも、レンを産む前後は休んでいたけれど。
とにかく、燃え尽きた。やることは全力でやった。国レベルだろうと領地レベルだろうと、王国の人たちや領地の人たちの役に立ちたい。その一心でがんばったつもりである。
そんなことを思うことじたい、傲慢でひとりよがりなのかもしれない。
ヒーロー、もといヒロインを気取りたいだけなのかもしれない。
それでもいい。どうせだれも褒めてくれないのだから。
自分で自分を褒めればいい。
「気持ちを切り替えないと。これからは、レンとの時間が増える。これまで寂しい思いをさせた分、いっぱいいっぱいかまいたい」
それこそが、わたしの寂しさを埋めてくれる。癒してくれる。元気をくれることになる。
「待って。もしかして、ここから放り出されるとか?」
うっかりすぎる。
当主のクレイグにとって、わたしはただのおしかけ傷物レディ。レンは、そのレディの連れ子。
マッキントッシュ公爵家の当主であるクレイグは、わたしのことが大嫌いである。だからわたしに興味も関心もない。
というよりか、いまや鬱陶しいごく潰しな存在になっているに違いない。
結婚、夫、妻、夫婦。
クレイグは、そういった概念は持ち合わせていないだろう。
引継ぎが終わったいま、すぐにでも出ていってもらいたいかもしれない。
「それはそれで仕方がない。五年以上の間、ここに置いてもらえただけでなく、気ままに生活させてくれた。レンを育てる最高の環境を与えてくれた。これ以上なにを望むというの?」
では、ここから放り出されたらどこへ行く?
どうするの?
王都に戻るのもいいけれど、事実上追放されているようなもの。どんなトラブルに発展するかわからない。
レンもいる。面倒やリスクは避けたい。
「そうだわ。マッキントッシュ公爵家の領地内にいさせてもらおう」
さいわい、病院や教会関係の仕事にいくらでも空きがある。
住むところも提供している。
「問題解決ね」
自分のやってきたことに自分で感謝してしまった。
「これでいつ、クレイグに『出て行け』と言われてもいいわね。だけど、言われるまではいさせてもらおう」
母は、ど厚かましいのだ。
しかし、クレイグはわたしの不安をよそに「さっさと出て行け」、と言わなかった。
それどころか、いまだにさまざまなことを質問してきたり確認してくる。
不可思議である。が、リーアムが不在だから尋ねる人がいない。リーアムが帰ってくるまで、彼の代わりなのだと思い直した。
いつ「出て行け」と宣告されるかわからない不安の中、それでもレンやみんなとの時間を大切にすごすことにした。
そうして、平和で穏やかで楽しい日々がすぎていった。
マッキントッシュ公爵領の噂を聞いた隣国の領地の人たちが、移住してくるだけでなく病院や教会や学校を利用するケースが増えてきている。
隣国では、医療や福祉や教育が充実していない。とはいえ、このイーズデイル王国も、マッキントッシュ公爵領くらいでけっして充実しているわけではない。
とにかく、それに対応するために設備を整え人員を増やす必要がある。
クレイグは、まれにみる「いい領主」である。彼ほど領民を大切にしている領主はそうはいない。
そして、周囲の意見や要望に耳を傾けてくれる。
だからこそ、マッキントッシュ公爵領内に病院や学校などの環境を整え、多くの人たちが利用できている。
予想を上回る多くの人たちの役に立っている。
あらためて、クレイグの寛大さとやさしさには頭が下がる。彼の良さをつくづく思い知らされる。
彼が名将軍、名領主として謳われる意味がよくわかる。
ある朝、増設予定の学校の建設について大工たちと打ち合わせるため、クレイグと領地の東方地域に馬ででかけた。
大工たちの数が足りない。周囲の領地から雇って来てもらっているけれど、それでもまだ充分ではない。それはともかく、そういう費用も賄えているからマッキントッシュ公爵家の財源力には驚きである。
それを惜しみなく使うクレイグは、太っ腹すぎる。
クレイグを褒めるのはこの辺にして、建設のことになんとかめどをつけ、屋敷に戻ってきた。
レンは、マーティンに乗馬を教えてもらっているところだった。
彼は、荷馬車用のがっしりした老いた馬にちょこんと座っている。
その姿が可愛すぎる。
「なんて可愛らしいの」
馬から降りながら、つぶやいてしまった。
訂正。声を大にして断言した。
「ふんっ!」
クレイグもまた愛馬から降りつつ、呆れたように鼻を鳴らした。
レンのあまりの可愛さに、キュンキュンしながら馬から鞍を外したときである。
レンの乗る老馬がなにかに驚いたらしい。
老馬が嘶きとともに駆けだしたのである。
「クソッ! 待てっ」
老馬の嘶きに続き、マーティンの怒号が聞こえてきた。
「レンッ!」
慌ててしまった。
レンは、馬上で必死に手綱を握っている。
(悲鳴を上げることなく、馬を落ち着かせようとしている?)
レンは、まだ五歳の子どもである。
(フリーズしてしまっているのよ)
「レンッ」
裸馬に飛び乗った。
こう見えて、乗馬は紳士たちに負けないほどの実力がある。裸馬でも乗れるし、暴れる馬だって落ち着かせることができる。
「お願い、レッド。もうひとがんばりしてちょうだい」
レッドは、その名の通り赤栗毛の元軍馬。ひとめ惚れし、いつも乗らせてもらっている。
わたしの気持ちは、すぐさまレッドに伝わった。
レッドが駆けだした瞬間、わたしたちの横を風が吹き抜けていった。
「閣下っ!」
クレイグである。
彼と彼の愛馬が飛び出したのだ。
ブラックという名の現役の黒色の軍馬は、あっという間にレンたちを追って行った。
その姿は、まさしく「疾風のように」という書物に出てくる表現のようだった。
マッキントッシュ公爵家の周囲は、庭をのぞいて家畜たちの放牧場になっている。敷地じたいはそこそこ広い。
レンの老馬は、放牧場を駆けていく。そして、クレイグの黒馬は猛スピードで老馬を追っている。
幼児特有の甲高い声が風にのって運ばれてくる。
それは、意外にも老馬をなだめる落ち着いた声だった。
わが子ながら驚いてしまう。
(これが五歳児なの?)
正確には、もう間もなく六歳になるけれど。
わたしもはやくから馬に乗っていた。三歳の頃には、小馬を乗り回していた。
一度だけ棹立ちになったことがあった。小馬が蜂に驚いたのだ。
驚いたわたしは、甲高い声で「キャーキャー」叫び、小馬の首にしがみつくしかなかった。
いまのレンと違い、ふつうの子どもと同じ反応を示したのだ。
そのことを思い出している間に、クレイグの黒馬がレンの老馬に追いついた。
クレイグは、並走しながら老いた馬をなだめてる。かぜにのって流れてくる彼のバリトンボイスは、耳に心地いい。こんな状況でなかったら、気持ちが落ち着いただろう。
クレイグのバリトンボイスにうっとりするまでに、彼が手を伸ばすのが見えた。
レンが握っている手綱を取り、老馬を止めるのかと思った。
しかし、予想は外れた。
クレイグの分厚くておおきな手は、レンの脇の下あたりをつかんだのである。
彼はレンをそのまま老馬から持ち上げ、自分へと引き寄せた。
レンは、まだ幼いとはいえ一般的な五歳児よりもおおきいらしい。剣の稽古や乗馬の練習を始めてから、半端なく食べるようになった。当然、体重が増え、背も高くなった。
母は強しという言葉通り、いままでは彼を軽々抱いていた。しかし、いまではそれも難しくなっている。
クレイグは、そのレンを片腕一本で容易に抱き、自分の馬へと移したのである。
彼の膂力の凄さに驚いたのはいうまでもない。
「ワー、すごい」
その直後、レンの興奮した声が流れてきた。
「これが、父上の見る世界なのですね」
レンは、馬の体高の違いに驚いているようだ。
クレイグの愛馬ブラックの背は、かなり高い。高いだけでなく、どっしりしている。
それなのに、ブラックはめちゃくちゃはやい。
ブラックは、馬の中でも軍馬に向いている種である。それでもブラックの走る速度は、競走馬にも負けないらしい。
「ああ、そうだ。これが多くの人々の命と尊厳を守り、平和へと導く者の見る世界だ」
「ぼくも父上のようになれますか?」
レンの問いにまたまた驚いた。
(まさか、レンがそんなことを考えていたの?)
まだ五歳なのに?
(レンは、クレイグのようになりたいから剣や乗馬をやっているというの?)
ただの男の子の興味本位、憧れだと思い込んでいた。
マッキントッシュ公爵家には、軍や英雄に関する書物や絵画が溢れている。レンは、それを見て育っている。
わたし自身、子供の頃からカッコいい王子とハッピーエンドを迎えるような女の子向けの話よりも、カッコいい王子様が戦争や冒険で大活躍するヒーローものの方が大好きである。だから、レンにもそういう系を読んで聞かせたり、一緒に読んだり見たりしている。
領地内の老人たちから過去の戦争話を聞くことも多い。
マッキントッシュ公爵家のずっと昔の当主の大活躍が伝説のようになっていて、それを聞くのがわたしたち母子の楽しみのひとつでもある。
そんな環境を差し引いても、まさか五歳の子がそんなふうに考え、目標に向かいだしている。
「ああ、きっとなれる。おれよりも立派な将軍になれるだろう」
驚きの中、さらにさらに驚いた。
クレイグは、レンの問いからそう間を置かずしてそう答えたのだ。
驚きの連続の中、ようやくわたしも彼らに追いついた。
いずれにせよ、レンだけでなく老馬もケガをしなくてほんとうによかった。
いろいろな意味で驚いた事件だった。
執事のリーアムが王都から戻ってきたとき、彼のボロボロよれよれの状態に驚いてしまった。
彼の愛馬は、いまにも倒れてしまいそうなほど疲れきっている。
「王都は、かなり不穏な状態だ。どこでも国王と王妃の処刑の噂でもちきりだ。すでに暗殺されたとの噂まである。噂の国王と王妃は、どうやらしばらく前から病と称して隠れているようだ」
「だろうな」
「でしょうね」
クレイグの執務室でリーアムの話を聞き、クレイグと同時につぶやいた。
その噂は、こんな辺境の地まですでに届いている。
「それで、王太后は? 彼女は実の息子である国王をどう助けるつもりなのかしら? まぁ懐柔や工作するしかないでしょうけど。って、いま王妃って言った? ということは、国王、いえ、元夫は正妃を迎えたのね」
尋ねるまでもないし、当たり前のことである。
国王は、跡継ぎをつくることも義務のひとつ。わたしを追い払った後につぎを迎えなければ、その義務を果たすことができない。
そのとき、ふと思い出した。
(元夫は、側妃だけでなく多くのレディを囲っていた。だれかが懐妊したとか産んだ、という話は一度も聞かなかったわね)
いまさら、である。
もしも側妃か囲っているレディのだれかが懐妊し、産んだとしたら?
その時点でわたしを離縁し、正妃にしたはず。
それがたとえ身分の低いレディだったとしても、対処方法はいくらでもある。
それがなかったということは、やはりだれも元夫の子を産んでいないということになる。
(ということは……?)
「貴族や官僚たちの間では、こういう話がある。現国王を退位させ、つぎの国王を迎える。そんな話だ」
リーアムの言葉にハッとした。
同時にイヤな予感がした。
「アン、座ったらどうだ? アン、大丈夫か?」
「ご、ごめんなさい。大丈夫です」
執務机の向こうからクレイグが何度か呼びかけていたらしい。
「座って話をしよう」
クレイグは、執務机をまわってこちらへ来た。彼はわたしの手を取ると長椅子へと導き、そこに座らせた。
「失礼します」
そのタイミングで、メイドのひとりがお茶とパウンドケーキを持ってきてくれた。
パウンドケーキは、わたしが焼いた。
アプリコットジャム入りである。
クレイグがアプリコットが好きだというので入れてみたのである。
お茶は、カモミール。
パウンドケーキと相性抜群。
気分が落ち着いた。
「それで、つぎの国王とは?」
とりあえず三人ともお茶とスイーツをいただいてから、クレイグがあらためてリーアムに尋ねた。
「……」
リーアムは、形のいい唇を閉じたままわたしを見た。
「なるほど」
「やはりね」
またしてもクレイグと同時につぶやいていた。
クレイグも気がついている。
じつは、クレイグとレンのことを話したことはない。
具体的には、レンがだれの子なのか?
訂正。どちらの子なのか、についてである。
というか、クレイグはレンは元夫の子だと思っているはず。クレイグとはたった一度きり、しかも形式的かつおざなりすぎるエクササイズだったので、それが大当たりするはずがないと思っているだろう。
しかし、元夫との間も同じだった。そして、思い当たるのは一度だけ。
確率としては五分五分。どちらの子であってもおかしくない。
残念ながら、確かめようがない。
真実はわからない。わかりようもない。
そのことは、王都にいる人たちも知っている。
クレイグが不在だったこともわかっているし、クレイグとわたしの関係もわかっている。
クレイグ同様、レンの父親は元夫だときめつけている。
だからこそ、いまのリーアムの話につながるのだ。
「こんな噂もある」
リーアムにはまだ情報があった。
「つぎの国王の候補を排除しようという噂だ」
「……」
「……」
クレイグもわたしもさすがに言葉が出なかった。
「王太后がか? それとも王子たちが? それとも、その両方がか?」
リーアムは、クレイグの問いに肩をすくめた。
「噂を掘り下げようとして狙われた。王都から逃げてきたようなものだ」
「なんてこと……。リーアム、ケガはなかったの?」
「おれは、こう見えても頭がいいだけじゃない。腕っぷしが強いし、なにより逃げっぷりがいい」
リーアムのその冗談で救われた気がした。
「排除、か……」
クレイグのバリトンボイスは、さまざまな感情が混在しているように聞こえた。
「あー、眠れないわ」
眠れるわけはない。
だから、眠るのは諦めた。
寝台からおり、テラスへと続くガラス扉へと近づいた。
「迷う必要なんてない。ここから出ていかないと」
声に出していた。
「ここにいたら、近いうちによくないことが起こる。クレイグやみんなに迷惑をかけてしまう」
カーテンを開けると、月光のあまりの明るさに手をかざしてしまった。
「いいえ。迷惑どころか危険な目にあわせることになる」
だれが黒幕なのかはわからないけれど、レンを排除しようと暴力系の専門家がやってくる。はやい話が、暗殺者とか殺し屋とか、そういう連中がやって来てレンを殺すか拉致する。
そのとき、レン以外の人はただでは済まないかもしれない。
多くの書物の中では、だいたいそうなる。
とはいえ、ここを出て行っても行くあてがない。暗殺者などに襲われれば、ひとたまりもない。
わたしひとりでは、ぜったいにムリ。
「愚策を弄するならば、黒幕より多い報酬を提示して寝返らせることだけど……」
もちろん、それだけの持ち合わせはない。実家であるロックフェラー公爵家の両親は、わたしが離縁されたことを知るとすぐ、領地に帰ってそのまま社交界から遠ざかっている。
ロックフェラー公爵家もまたマッキントッシュ公爵家同様、領民第一主義。残念ながら、実家はマッキントッシュ公爵家ほど裕福ではない。ロックフェラー公爵領の土地は肥沃ではなく、たいした資源もない。
「ハズレ公爵」と呼ばれているお父様は、お母様やお兄様たちと一緒に趣味の畑仕事をしながら慎ましくすごしている。
お父様は戦争と飢饉以降王都に滞在し、領民たちの負担をなくすために財産のほとんどを王家に差し出した。
ロックフェラー公爵領のためだけではない。
王妃として奮闘する娘のため、王国民のため、財産のほとんどを投げうってくれたのである。
だからこそ、もうお父様に頼るわけにはいかない。これ以上、実家に迷惑をかけるわけにはいかない。
「いっそのこと隣国へ亡命する?」
それしかない。
さいわい、病院の患者の中に隣国で手広く商売をしている大商人がいた。
彼は、隣国の病院では治せなかった病を治療した。それに感激した彼は、帰国する際に多額の治療費、さらには援助金を置いていってくれた。
『金のことも含め、困ったことがあったら連絡してくれ。命の恩人のあんた方のためなら、どんなことでもするから』
彼はその言葉を残し、意気揚々と帰国した。
「そうね。このままここにいるより、隣国に潜り込んでしまった方がどうにかなるかもしれない」
そんなに簡単にいくわけはない。愚かで甘い考えだということもわかっている。
わかってはいても、いまの自分にはそれが最善の策でしか思えない。
まず隣国に行くまでに、暗殺者たちにみつかってしまうだろう。
隣国に潜り込むどころか、行き着くことさえできないに違いない。
「いま、なにか動かなかった?」
バカみたいな考えに呆れていると、庭の向こうにひろがる牧草地で影が動いていることに気がついた。
月光の下、六つのおおきな影がこちらへ近づいてくる。
「まるわかりね」
笑うところではないけれど、笑ってしまった。
遮るものがない牧草地をヒョコヒョコやってくる六つの影は、ぜったいに友人知人の類ではない。
その反対の存在だ。
これからさきのことをウジウジ考えていたのはムダになったようだ。
こういうことを、「杞憂に終わる」というのだろう。
レンを起こし、彼を抱いて自室へ戻ってクローゼットに隠れた。
おおきな影を見かけてから、わずかな時間だった。
逃げるには遅すぎる。どこにも逃げられない。
結局、クレイグをはじめマッキントッシュ公爵家の人たちに迷惑をかけないようにするには遅すぎたのだ。
とはいえ、このままなす術もなく待っているつもりはない。
文字通り、危機は肉薄している。それに対応するには、こうして隠れて息を潜め、やりすごすしかない。だれも傷つかないよう祈るしかない。
その祈りも通じるわけはない。そうとわかってはいるけれど、それでもそうするしかない。
ひさしぶりに諦めの境地にいたった。
以前、すべてを諦めてばかりだった。
しかし、ここに来てからは諦めることを忘れていた。
クレイグ以外のことは、だけど。
諦めることをやめ、すべてが満たされた生活。そうした日々は、わたしには分不相応だったのかもしれない。
諦めることをやめた結果、最大級の諦めを招くことになってしまった。
ツケがまわってきたのだ。
クローゼット内は広く、レンとわたしが隠れてもまだ余裕がある。
王都と違い、ここでは着飾る必要はない。夜会やお茶会はもちろんのこと、劇や音楽の鑑賞や催し物や懇親会もない。だれかに招待されたりだれかを招待することもない。
普段着とフォーマル着がそれぞれ数着。それに合わせた靴がいくつかあるだけである。
母子ふたり隠れるのは充分である。
レンは、わたしの横に座っておとなしくしている。叩き起こされ、抱かれてクローゼットにこもった理由を尋ねたり怖がったりせず、ただ黙って座っている。
レンにはまだ王都からの刺客の件を話していない。
話すつもりがないのではない。身の振り方を決め、行動に移す前に話すつもりだった。
もう間もなく六歳になるとはいえ、わたしの身勝手で振り回していいものではない。
とはいえ、結局はわたしの思いどおりに振り回し、連れ回すことになっただろうけれど。
もっとも、それもいまではもう遅すぎる。
朝を迎えるまでに、すべてが終わっているかもしれないのだから。
ひさしぶりに諦めた通り、すべてに終止符が打たれているかもしれない。
それでも、レンは守り抜きたい。
母として、できるだけのことをしたい。見つかったときには、最期まで抗いたい。
クローゼットの扉の向こうになにかを感じた。
廊下側の扉ではなく、バルコニーのガラス扉が開いたような気配。それから、そこから何者かが侵入した気配。
気のせいかもしれない。不安や恐怖による被害妄想かもしれない。
それでもやはり、クローゼットの扉の向こうになにかを感じる。
隣にいるレンを抱き寄せていた。ほんとうはギュギュギューッと抱きしめたいけれど、必死におさえた。
彼をいたずらに怖がらせたくないから。
それからもしも勘が当たっていたら、ここから飛び出して侵入者たちの気をひくつもりでいる。
わたしが逃げ惑い、抵抗すれば、彼らの気をレンからそらすことができるかもしれない。
そうするには、レンを抱きしめていてはすぐに行動に移すことができない。
(なにがなんでもレンを守るのよ。わたしが騒いで時間稼ぎをすれば、クレイグが駆けつけてくれる。それから、リーアムとマーティンも。三人なら、侵入者たちを追い払ってくれるに違いない)
迷惑をかけたり傷つけたりしたくないと思いつつ、クレイグたちを頼りにしている。
(クレイグ……。レンをお願い)
美貌なのに強面ぶっているクレイグが脳裏に浮かぶ。
気がつくと、彼にレンのことを託していた。
「……」
そのとき、レンがわたしの手をギュッと握ってきた。
薄暗がりの中、彼がわたしの顔をのぞきこんでいるのがわかる。
クレイグや元夫と同じ美しい碧眼が、わたしの黒い瞳を見つめている。
一瞬、彼が怯えているのかと思った。
が、そうではないとすぐに察した。
怯えなどではない。逆である。
怯えているわたしを励ましてくれている。
母親だからわかる。
その頼もしさ、やさしさに感動を覚えずにはいられない。成長を感じずにはいられない。
なにより、幼いながらも「男」なのだとつくづく思いしらされた。
同時に、彼が手元になにかを引き寄せる気配を感じた。
クローゼットの棚は、小柄なわたしには高すぎる。そのため、屋敷内に放置されていた杖を持ってきて、それで棚の奥にあるものを突っつき落すことがある。
杖は、マッキントッシュ公爵家の先祖のだれかが使っていたものだろう。
そのとき、レンがまたわたしの手を握りしめた。
まるで「大丈夫」、と言っているかのように。そう感じたのもまた、母としての勘なのかもしれない。
その瞬間、レンの手がわたしの手から離れた。
あっという間もなかった。
彼がクローゼットから飛び出したのだ。
「レン」、と名を呼ぶ間もなかった。
そして、すぐに扉が閉じられた。
わたしがやろうと思っていたことを、あろうことかレンがやったのだ。
侵入者たちは、やはりプロだった。
彼らは、クローゼットから飛び出してきたレンを見ても驚かなかった。彼らは、声を出すことなくレンを殺すか拉致するために迫ったのだろう。
レンは、その侵入者たちと対峙した。
クローゼットを背に、杖を構えたのだ。
彼は、身をていしてわたしを守ってくれたのだ。
そのレンに侵入者たちが迫ろうとした瞬間、部屋の扉がふっ飛ぶ勢いで開いた。
「バタン」というそのおおきな音に、クローゼット内で息を潜めているわたしが悲鳴を上げそうになった。
それは、頼みにしていたクレイグが飛び込んできた音だったのだ。
クレイグは、即座に対処してくれた。
つまり、あっという間に侵入者たちをやっつけてくれた。
殺してしまったのだ。ひとりを除いて。
口を割らせるために、クレイグはわざとひとりだけ生かしたのだ。
冷静な対処と技量。
クレイグのすごさをあらためて痛感した。
違う。
ほんとうは、すごくうれしかった。
レンを助けにきてくれたことを。レンを助けてくれたことを。
ほんとうにほんとうにうれしかった。
あっ、そうそう。助けてくれたのは、クレイグだけでない。リーアムとマーティンも戦ってくれたことを追記しておきたい。
まだある。
こちらの方がよほど聞いてもらいたい。
部屋の中に静寂が戻ったとき、クローゼットから飛び出していた。
部屋の中が血みどろだったとか、いくつもの死体が転がっていたとか、そんなことはどうでもよかった。
とにかく、レンがケガをしなかったか。彼が無事なのかをたしかめたかった。それから、クレイグも。
だから、すぐに目でふたりを探した。
わたしが目にしたのは、壮絶きわまりない部屋の中で抱きしめ合うふたりだった。
訂正。レンを力いっぱい抱きしめるクレイグと、全力で抱きしめられているレンの姿だった。
尊すぎるその光景。
感動するしかない。
「アン」
「母上」
ふたりは、感動のあまりフリーズしているわたしに気がついた。それから、すぐに駆けよってきた。
「すまない。連中はアンやレンの部屋の場所を知らないだろうから、裏口とテラスで待ち伏せしていたのだ。怖い思いをさせてしまった」
さらに驚いたことに、クレイグはそう言うなり抱きしめてきたのだ。
このわたしを、である。
興味も関心もなく、邪魔な存在でしかないわたしを全力で抱きしめたのだ。
感動のフリーズが、つぎは驚きのフリーズにかわった。
が、フリーズ状態からすぐに立ち直った。
「わたしだわ。わたしがカーテンを開けて外を見ていたら、連中がやってくるのを見たの。向こうもわたしを見たのね。だから、直接ここに来たのよ」
冷静に説明する自分を凄いと思う。
「では、閣下も察知していたのですね?」
「ああ。こういう独特の気配や殺気は、戦場で慣れているからな。それにしても、こんなにはやくやってくるとは、よほど急いでいるのだろう」
頼もしすぎる。
最初から素直にクレイグに頼るべきだったのかもしれない。
「閣下は、レンとわたしの命の恩人です」
ホッとしたからか、急に体から力が抜けた。
「アンッ! おい、大丈夫か?」
「母上っ」
クレイグの頑丈な胸によりかかると、途端に睡魔に襲われた。
クレイグとレンの呼ぶ声に応える力も残ってはいなかった。
クレイグは、王太后から褒美の話が出た際リーアムから入れ知恵をされて「特に欲しいものはない。褒美にかこつけて嫁を送りつけるようなことだけは勘弁してほしい」、というような内容の書面を送ったらしい。
王太后が嫌がらせをすることを見越してである。
彼女は、イーズデイル王国の公爵家筆頭のマッキントッシュ家の当主だけでなく戦争の英雄である将軍クレイグに危険を感じているのだろう。
可愛い息子を脅かす存在として。
だからこそ、彼女はクレイグを過小評価し、遠ざけ、嫌がらせをした。褒美についても、そう記せば彼女がわたしを下賜することを見越していたのだ。
そして、それは大当たりだった。
クレイグは、リーアムの調査でわたしの置かれた立場や状況を把握していた。その上でわたしを呼びたかったらしい。
しかし、実際に婚儀の席でわたしと会った瞬間、気おくれしてしまったという。
元の夫とのことで傷ついている上に、十三歳も年長の自分の妻などにはなりたくないだろう、と。
実際、わたしはとてつもなく彼を拒否しているように見えたらしい。
そんなふうに感じたという。
それには反論したいところだけど、それはこの際どうでもいい。
わたしがイヤなのなら、距離を置けばいい。自分は国境守備で、わたしは屋敷で。それぞれすごせばいい。
わたしには、ここで自由気ままにすごしてもらう。そして、自分が屋敷に戻ったときには、もっと若くて愛想がよく、やさしい相手を探し、その男と結婚してもらう。
が、子どもができたと知らせを受けた。たった一度のまじわりでできるわけはない。前夫との子どもに違いない。それでも、心の中で一縷の望みを託していた。五年近くの間、その子に想いを馳せ、わたしに想いを馳せながらすごした。
そして、帰ってきた。レンとわたしのもとに。
親しくすればするほど情が移ってしまう。だから、親しくしてはならない。馴れあってはいけない。
不愛想でいなければならない。関わってはならない。
イヤな男であれば、イヤな夫であれば、イヤな父親であれば、レンとわたしもここを出ていきやすくなる。
しかし、その決意はすぐに崩れ去った。
レンの可愛さ、わたしの気の強さ(ここは納得いかない)に魅了され、夢中になった。
ダメだと思いながら、わたしにあたらしい夫、レンに父親を探せないまま、時間だけが去って行く。
その間、王都が不穏だということで、リーアムに探りに行ってもらったのは、ひとえにレンとわたしのことを心配してのことだったという。
そして、襲撃事件が起こった。
襲撃事件以降、夕食後は図書室で戦記物を読むのが日課になっている。
今夜は、読書のお供に例のドーナツ屋さんのドーナツとホットミルクを準備している。
それも楽しんだ。
もちろん、読書はわたしだけではない。レンと一緒である。
それから、クレイグも。
「リーアムとマーティンにさんざん叱られた」
第五章を読み終えたとき、クレイグが言った。
「おれが不器用すぎると。『男として最悪だ』、とまで言われた。まぁ、おれ自身そう思う。おれに勇気があれば、あんなことにはならなかった。いや、きみたちにイヤな思いをさせずにすんだ」
彼は立ち上がると読書机に向かい、そこからなにかを持ってきた。
レンとわたし、それぞれに差し出されたそれらは、キレイな色の包み紙に包まれている。しかし、どこからどう見ても剣である。
キレイな色の紙に包まれていてさえ、大剣と細身の剣にしか見えない。
「おれの昔なじみの鍛冶屋に作ってもらった剣だ。大剣は、レンに。細身の剣は、アンに」
クレイグの美貌は、なぜか真っ赤に染まっている。
「父上、いいのですか? 最高にうれしいです。これからは、この大剣で父上に稽古をつけてもらえますね」
このときはじめて、レンはあの事件より前からクレイグに剣を習っていたことを知った。
『強くなって母上を驚かせよう。だから、おれと練習をしていることは母上には内緒だぞ』
クレイグは、レンにそう言って口止めしていたのだ。
内緒にされたことに腹が立った? 驚いた? 口惜しかった?
とんでもない。そんなことより、うれしさでいっぱいになった。
「アン。この細身の剣は、護身用の剣だ。しかし、きみにこれを使わせることはないだろう。なぜなら、レンが、いや、おれがきみを守るからな。だから、これは宝石代わりのプレゼントだと思ってくれ」
すぐに包み紙を開けてみた。
王族や貴族のレディが持つ装飾品だらけの剣と違い、なんの装飾品もないシンプルな細身の剣である。
「抜いてもよろしいですか?」
「もちろん」
許可を得、鞘から抜いてみた。
細身だけど、ゾッとするほど切れ味がよさそうだ。それを、剣の発する気で感じられる。
「剣は、多少の心得はあります。ですから、フルに使わせていただきます。閣下、今度いかがですか?」
不敵な笑みを添え、そう提案してみた。
「いや、おれで試してほしくはないがな。いずれ勝負をしてみるか? だが、すまない。本来ならきらびやかなドレスや宝石の方がうれしいだろうが、これくらいしか思いつかなかったのだ」
「いいえ。わたしにはドレスも宝石も必要ありません。こちらの方が、閣下らしいですしわたしらしいですから。閣下には、これまで充分していただきました。それなのに、こんな分不相応なプレゼントまでいただいて、感謝しきれません。しかも、レンにもいただいて……」
「当然のことだ。これまでの詫びと、これからさきの詫びのしるしだ」
ドキリとした。
ということは、このふた振りの剣には、手切れ金、みたいな意味があるのかもしれない。
「王都へ行く。今回の黒幕に会いにな」
しかし、クレイグはわたしが怖れていることとは違うことを言いだした。
あの事件で唯一生かしておいた暗殺者が自白したらしい。
「まだ将軍職を辞したわけではない。将軍職の返上も兼ね、あらためてきみとレンのことを王家に報告するつもりでもいる。それから、レンをつけ狙う連中に報復する。将軍として、公爵として。そして、夫として父として、連中に代償を支払わせてやる」
「閣下……」
最後の言葉が信じられなかった。だが、クレイグはこんなときに冗談は言わない。それはよくわかっている。
彼は、いまも真っ赤になりながらも真剣に語っている。
それでもやはり、「夫として父として」が信じられないでいる。
「押すな」
「押すなよ、ってうわっ」
不意に図書室の扉が開いたかと思うと、リーアムやマーティンやメイドたちが文字通りなだれ込んできた。
「な、なんだ?」
「きゃっ、どうしたの?」
クレイグと同時に立ち上がっていた。
「クレイグ、じれったいな。戦場で兵士たちに檄を飛ばすように言えばいいのに」
「マーティンの言う通りだ。聞いていてイライラする。ほら、彼女に言えよ。戦争中からまだ見ぬきみを好きだったんだ。気になって気になって仕方がなかった、とな」
「なななな、なんだと? リーアム、やめないか」
クレイグの顔がさらに真っ赤になった。
それこそ、血圧が急上昇してぶっ倒れやしないかと心配になってしまう。
「そうですよ、旦那様。奥様やレン様をどれだけ愛しているのか、言葉であらわさないとわかりませんよ」
「そうですそうです。奥様は鈍感ですから、誤解されています。ハッキリくっきりスッキリ言ってあげてください」
「ぐぬぬぬぬ……」
さらなるメイドたちの口撃に、さすがのクレイグもぐうの音も出ないようである。
(というか、わたしが鈍感?)
まぁ、たしかに空気を読めないところはあるけど。
元夫は、わたしのそういうところも嫌いだった。
まっ、彼がわたしを嫌う理由は、もっともっとあったけれど。
「勘弁してくれ。おれにはムリだ。とにかくだ、アン。戦争中からきみのことは戦友だと思っていた。きみの手腕は、見事だと尊敬さえしていた。気になったから、きみのことを見守っていた。だからこそ、きみにはしあわせになってもらいたい。十三歳もはなれている上に脳筋バカなだけのおれとではなく、年齢が近くてスマートな青年とだ。きみだけではない。レンもだ。こんなおれが父親だと、レンもやりにくいだろう」
クレイグは、真っ赤になりながらも必死で伝えてくれた。
その彼の碧眼は夏の空や深い湖のように澄んでいる。
レンのそれのように、穢れがなくてまっすぐである。
その瞳にまったく嘘はない。
それでやっと信じることができた。
同時に、わたしもまた彼のことが気になって仕方がないことに気がついた。
いいえ。彼のことを好きなのだと気がついた。
違う。愛しているのだと思い知らされた。
こんなこと、生まれて初めて感じた。
前の夫にはまったく抱けなかった溢れんばかりの感情。
わたしはいま、レンへの愛情とは違う類の愛情をクレイグに抱いている。
「レンは、おれにそっくりだ。剣のセンスだけではない。愛する者や大切なものを守り抜く勇気と信念。それから、使命感と責任感。たった五歳にして持っている。さすがはおれの息子だと王国中、いや、この大陸中に触れまわりたいくらいだ」
クレイグは、まだ事情を伝えていないレンにわからないよう伝えてくれた。
『レンは、間違いなくおれの子だ』
そのように。
彼は、認めてくれたのである。
レンが自分との間の子であることを。
ぜったいに元夫との子ではない、と信じてくれたのだ。
クレイグがレンを自分の子と認定してくれたことは、彼がわたしのことを嫌っていたのではないということよりうれしかった。
それがどれだけうれしいことか、表現することはできそうにない。
「閣下……」
「アン、閣下はやめてくれ」
「閣下。ですが、閣下の方が呼びやすいのです。旦那様とかクレイグ様とか、そんな呼び方は違和感だらけです」
「わかったわかった」
クレイグは、まいったというように手を振った。
それから、彼はローテーブルをまわってわたしに近づいてきた。
レンもまた立ち上がり、わたしの側によってきている。
「閣下、それで、いつ発ちますか? もちろん、レンとわたしも連れて行ってくれますよね? どうせなら、わたしも挨拶しておきたいのです。報復、という名の挨拶を。それに、国王の末路も見てみたいですし」
元夫は、無事ではすまないだろう。王妃とともに、廃位の上追放か処刑か暗殺かされるはず。
彼らは、そんな末路を迎えるだけのことをしてきたのだから。
「アン、危険だぞ」
「大丈夫です。そうよね、レン?」
「はい、母上。父上が守ってくださいます。父上からいただいたこの大剣も守ってくれます」
レンは、大剣をうれしそうに抱きしめている。
彼がこの大剣を自在に操れるようになるのも、そう遠いさきではない。
「ふたりとも、わかったよ。いっしょに行こう。家族三人でな」
わがままをきいてくれるクレイグは、ほんとうに寛容である。
強面ぶりは、すっかりなりを潜めている。
というか、クレイグはもうわたしたちの前で強面ぶる必要はない。
わたしもである。これからは、諦める必要はない。
なぜなら、愛する人が増えたから。愛し、守りたい人がふたりになったから。
愛する息子と夫がいるかぎり、どんなささいなことでもけっして諦めてはいけない。母として妻として、諦めることは絶対にしてはいけないのだ。
これからさき、なにが待ち受けていようとぜったいに諦めない。
そして、愛するふたりとともにしあわせになる。
そう決意したとき、それを勇気づけてくれるかのようにクレイグが抱きしめてくれた。
彼の全力の愛情表現を、レンとわたしもまた全力で受け止めた。
「これでやっとハッピーエンドというところか?」
「どれだけ時間がかかったことか。だがな、マーティン。まだハッピーエンドにはほど遠いぞ。いまから王都に殴り込み、ひと暴れもふた暴れもしなきゃならない。問題や危機もひとつやふたつではないだろう。というわけで、おれたちは、サブキャラとして陰になり日向になりこの家族を守り、ハッピーエンドを迎えられるよう奔走しなければならない」
「リーアム、おれたちがサブキャラだって? その他大勢ではないのか? ほら、物語の冒頭で死ぬってやつさ」
「だったらおれは、いち村人とかいち町人でいい。その方がこき使われなくてラクだから」
「いえてるな」
リーアムとマーティンが冗談を、って冗談よね? とにかく、ふたりで盛り上がっている間でも、レンとともに愛するクレイグに抱きしめられていた。
これからのことが楽しみでならない。
ワクワクどきどき、それからキュンキュンどきどきは永遠に止まりそうにない。
(了)