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第二節 - Ⅳ




「ひっ……ひやあああああああああああああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁ!」


 一陣の風と化した少女の悲鳴が、紅国は首都姜楊の大路を矢のような速度で駆け抜けて行った。

 一体、何事だろう?

 そんな表情で家々から老若男女が顔を出すが、彼女、あるいは彼らが表を覗いたときには件の悲鳴の主は疾うにその場を過ぎ去っており、残されているのは悲痛な残響のみである。


「おい琳、平気か?」

「…………だ、だい……大丈夫、れす……」


 日除けに被ったフードの下でぐるぐると目を回しながら、全く大丈夫ではなさそうな風体で四肢を弛緩させている黎琳を、玄奘が軽々と抱き上げた。その様子を動物特有の純真無垢な澄み切った黒瞳で振り返ったのは、ここまで玄奘と黎琳の二人を騎乗させて空を爆走してきた純白の天馬である。


 今から遡ること一時間前――国境門を無事に通過した黎琳は当初、ひたすら姜陽まで歩く他ないと腹を括っていた。が、そこで〝待った〟を掛けたのが四人の同伴者たちだ。


『僕たちの友達を呼ぶから、彼らに最短ルートで玄天宮まで乗っけて行ってもらっちゃおうよ』


 そう提案するなり、白蓮が澄んだ指笛を吹き鳴らした直後、文字通り風のように現れたのが〝彼ら〟――翼を広げて空を駆ける三頭の天馬である。

 天馬は龍神に準ずる神獣の一種であり、その姿を実際に目にした者は、大陸中でも十指に満たぬと言われている。正直、御伽話の中の生き物だと言っても過言ではないくらいに稀有な獣であるはずなのだが――それを白蓮たちは〝友達〟だと言って、いともあっさりと呼んでしまったのか? いや、そもそも目の前の光景は現実だろうか?

 唖然とした表情を浮かべて自らの頬を抓っていた黎琳に、状況を呑み込む(いとま)は与えられなかった。


『じゃ、早速行こっか』

『え?』


 にっこりと微笑んだ白蓮によって、既に騎乗していた玄奘の腕に預けられた次の瞬間には、爆発的なスタートダッシュを決めた天馬が、さながら弾丸の如く快晴に向かって飛び出していたからだ。

 こうして一人悠々と騎乗した白蓮、仲良く相乗りをした朱霞と青藍、悲鳴の尾を引きながら玄奘に抱えられた黎琳の一行は玄天宮の門前に辿り着いた訳である。


(……て、天に……め、召されるかと……っ)


 未だ爆発しそうなほど早い鼓動を刻んでいる心臓を宥めるように、黎琳はぶるぶると震えながら胸元で握った両の拳に力を込めた。その背後では、ありがとう、またねぇ、と天馬を見送る四兄弟が青空に向かって朗らかに手を振っている。

 飛び立った三頭の神獣が天空に浮かぶ白い光点になるのを見届けてから、


「さて――では、参りますか」

「!」


 腰に手を当てて、白蓮が物柔らかな笑顔とともに振り返った。途端、黎琳の背筋がぴんと伸びる。


「は、はい!」


 まるで巨大な怪物のように佇んでいる玄天宮を挑むような眼差しで見据えると、黎琳は足を踏み出した。

 果たして、この先で自分を待ち構えているものは何だろう?

〝呪われた地〟――そのいかにも恐ろしげな呼び名に、否応もなく胸の奥から隠し果せぬ不安の渦が込み上げてくる。だが――


「ん、いい子」


 代わる代わる順番に頭へ載せられる暖かな四人の掌の温もりに、黎琳は微かに唇を綻ばせた。

 そう、自分は一人ではない。

 少なくとも今この瞬間は、一人ではないのだから――




     *     *     *




「て言うか、本当に巫女様なんて来んのかな?」


 その日の午後、書類の束を小脇に挟み、半眼でぶちぶちと愚痴っていた若い官吏――郭申は、王宮正門に程近い回廊を歩いていた。

 本来であれば宮中を周回して然るべき近衛兵の一人すら見受けられないのは、二年前に即位したばかりの禎亮が発した王命あってのことだ。王曰く『誰も襲いに来ない呪われた王宮を護るより、もっと国益に叶う仕事をしてほしい』との仰せである。

 当時は素っ頓狂な命を下した禎亮にも、確かに! とあっさり納得して総辞職した近衛兵たちにも顎が外れるほど驚かされたものだが、すっかり人気のない回廊を見慣れてしまって久しい今となっては、もはやこの光景に一片の違和感さえ感じない。至極自然な足取りで歩を進めながら、脳裏に殷国太子から届いた密書の内容を反芻する。


「〝龍姫を名乗って王妃になろうとした〟ってことは、ウチに来るのは多分……何年か前に、殷国の高慢太子の許嫁がまさにまんま龍姫! って諸外国でもかなり噂になった子のことだよなあ?」


 当時の記憶をほじくり返して、申は唸った。

 筆頭巫女となった少女が未成年であったために公式の場での披露目こそなかったものの、各国各地に()()()()あらゆる伝手から、幼少の薛郗が他国の貴賓が来訪する都度、己の妃は龍姫なのだと自慢して回っていると幾度となく耳にした覚えがある。本気で引いた記憶があるから確かなはずだ。


(確か……宗家出身の娘だったっけ? そういやここ数年、全く動静を聞かないな)


 丸めた書類の束で凝り固まった肩を叩きながら、申は首を傾げた。


「筆頭に選ばれるくらいなら、神力だって十二分に持ってるだろうに、一体何があったんだか……え、まさか神殿までどうにか騙くらかしてて実はただの一般人(パンピー)だったとか言うオチじゃないよな? うわあ、それマジで洒落に――」

「あ、あの」


 小難しげな顔で唸り始めた申の傍らから、鈴を振るったような声音が響いてきたのはそのときだった。


「はい?」

「か、勝手にここまで無遠慮にお邪魔してしまって申し訳ありません。その、誰にもお会いしなかったものですから」


 呼ばれるがまま素直に振り返ったところで、申はぴたりと硬直した。

 目の前に佇んでいたのは、白い日除けの外套を被った五人の人影だった。紅国の強い紫外線から肌を保護するためか、フードを目深に下ろしているせいで人相は全く窺えない。だが、緊張にやや上擦った声で一生懸命話しかけてくるその声音は、間違いなく年端もいかぬ少女のものだ。

 そして、フードの裾から溢れ落ちた美しい白銀色の髪は――


「まさか……え? ええ?」

「あの、殷国白渓宮からの知らせは届いているでしょうか? 私、本日から紅国でお世話になります――」

「巫女様!」

「そ、そうです」


 雷でも通されたかのように勢いよく叫んだ童顔の官吏に、フードを被った少女がたじろいだ。


「お、お聞きになっていらっしゃるのでしたらよかったです。あの」

「ええ、ええ、聞いてますとも! うわあほんとに来たよ! あ、今ウチの王様呼びつけて来ますんで、御足労かけてすみませんがこの廊下真っ直ぐ進んで右手にある大広間に入っててもらえます!?」

「え? でも、近衛の方がいらっしゃるんじゃ」

「近衛兵なんてここには一人も置いちゃいませんから大丈夫です! ウチの王宮そういうの(ザル)なんで――じゃ、と言う訳でお願いします!」

「はあ……」


 果たしてそれは大丈夫なのだろうか?

 すっ飛ぶような勢いで駆け出していった童顔の官吏が廊下の果てに消えるのを、一抹の不安とともに見送った後、フードの少女――黎琳は緊張しつつも白蓮らを伴って歩き出した。

 最前の官吏に出会えたことがいっそ奇跡的だとすら思えるほど、回廊には近衛はおろか人の気配すら感じられない。しんと静まり返ったそこは、幾十年も前に廃れた遺跡のようだ。


「面白い王宮だねぇ」


 目深に下ろしたフードの下で好奇心に金瞳を輝かせながら、白蓮が大広間に続く扉を押し開けた。

 玄天宮〝玉座の間〟――まだ陽の高い日中であるにも拘らず、ほんの僅かな隙間から吹き込んだ砂塵が薄っすらと降り積もったそこは、どこか退廃的で薄暗かった。華美な調度品は一切置かれておらず、長く伸びた朱色の絨毯の先に、空の玉座が佇んでいる。


(……紅国の王様は、一体どんな方なのかしら?)


 玉座のすぐ目の前まで歩を進めると、黎琳はどぎまぎしながらそこで膝を折った。少女の一歩後ろから遅れて歩いてきた四兄弟が、おお、謁見っぽいな、とどうしてか妙にわくわくした声音で呟きつつ、黎琳に倣って膝を折る。

 遠くから騒々しい足音が近付いてきたかと思うと、玉座の後方に垂れ下がっていた御簾が勢いよく捲られたのはそのときだった。


「お待たせしました! ちょっと禎亮様、何もたもたしてるんですか、とっととこっち来て下さいよ」


 御簾を捲った体勢のまま後方に伴った人影に向かって身も蓋もない台詞を投げつけたのは、回廊で黎琳たちが出会ったあの若い官吏である。

 だが、臣下に暴言を放たれたにも拘らず、それに対して後続の人物が返した応えは鷹揚そのものだった。


「申、お前意外と足が速いな」


 玉座の裏からひょっこりと姿を現したのは、飾り気のない漆黒の官服に身を包んだ、二十代前半と思しき若い男である。その男は自分を見上げている外套姿の客人たちを視界に認めると、形良く整った切れ長の黒瞳をぱちりとひとつ瞬かせて、品のいい精悍な面に朗らかな笑みを浮かべてみせた。


「遠路遥々、よくぞ我が国まで参られました、殷国の巫女御一行様。俺は楊禎亮――砂の国、紅の現国主です」




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