第二節 - Ⅰ
「――御婚約おめでとうございます、蘭々様」
その日の午後、王宮の中庭の一角で催された茶会にはうら若い少女たちの華やかな笑い声が響いていた。
龍姫の加護を賜るここ殷国では一年中、野花が咲き誇り、穏やかな常春の気候が続いている。この日もまた、四阿に集った十代半ばから後半の少女たち――絢爛に着飾った三人の巫女の頭上には青く晴れ渡った空が広がっており、丁寧に刈り込まれた生垣の向こうからは、絶えず可愛らしい小鳥の囀りが聞こえてくる。
「本当におめでたいことですわ」
「まあ、素敵な首飾り」
「ひょっとして太子様が贈って下さったの?」
「二人とも喜んでくれてありがとう……ええ、そうよ。これは薛郗様が私のために誂えて下さったの」
口々に寿ぐ少女たちに向かって、上座に腰を下ろした茶会の主催者――蔡蘭々は、大きな翡翠をあしらった精緻な首飾りをこれみよがしに指先で弄いながら、にっこりと微笑んだ。
「私が薛郗様の許嫁に選ばれたことは、明日、殷王陛下御臨席の大斎で正式に発表される予定よ。だけど貴女方には、真っ先にお知らせして差し上げたかったの……今日は私のためにこうして集まって下さって嬉しいわ」
「蘭々様のお誘いですもの、参じるのは当然ですわ」
蘭々の右隣に座った少女――蘭々に次ぐ序列二位の巫女となった余嫜月は、青みがかった癖のない黒髪を片耳に掛けると、ともすれば冷ややかにすら見える怜悧な美貌に、完璧なアルカイックスマイルを浮かべてみせた。
天子の補佐を担う高官中の高官、現太傅たる嶺右公の孫娘であり、名だたる学者を数多く輩出する余家の直系であるこの少女は、彼女自身も才女と名高い。眦の切れ上がった双眸を細めると、十九歳という実年齢よりも大人びた口調で言葉を継ぐ。
「ようやく正しい方が太子様の許嫁に選ばれて、私たちも心から安心致しましたわ。黎琳様がお相手では、尊い殷王家の血筋が途絶えてしまうことは明白ですもの」
「ほんと! 嫜月様の仰る通りよ」
一方、嫜月とはまるで真逆の姦しい声音で賛同を示したのは、序列三位の巫女――黄蓬莱である。実り豊かな殷国の中でも、最も豊穣に富んだ慈州の長が溺愛する一人娘である彼女は、よく言えば明朗快活、悪く言えば傲岸不遜な人物である。肩に落ちかかった癖の強い赤墨色の髪を片手で払いながら、いかにも底意地悪げに小さく鼻を鳴らす。
「信じられないくらいの身の程知らず! 本来なら自分から筆頭巫女の位を退いて蘭々様に譲るべきなのに、いつまでも未練がましく居座り続けて」
「仕方ありませんわ。あのお小さい方には、肩書きしか誇るものがないんですもの」
明らかな嘲弄の響きを込めて、嫜月はくすくすと笑い声を溢した。
巫女たちの集った円卓――染みひとつない純白のテーブルクロスが掛けられた卓上には、手の込んだ焼き菓子と湯気を燻らせた白磁のティーカップが三つ、それぞれの少女らの前に設えられている。自らの眼前に用意された茶器を優雅に取って口付けると、青黒髪の巫女は蘭々に視線を向けた。
「それで? 元筆頭巫女様はどうなったんですの?」
「ああ、あれならもういないわよ」
「いない?」
見開いた双眸をぱちぱちと瞬いて、蓬莱が首を傾けた。
「いないってどういうこと、蘭々様?」
「黎琳は昨夜、龍姫様の生まれ変わりを詐称した咎で殷国を追放されたの。あんな紛らわしい髪をして王家と民を欺いた上、何年も第一巫女として大きな顔をしてきたんだもの、当然よね」
己の主張に一片の疑念も抱いていない者特有の傲慢な口振りで断じてから、蘭々はゆっくりとティーカップを傾けた。熱い紅茶を一口含んでから、立ち昇る蒸気越しに目線を上げる。
「最初は身ひとつで国境沿いの荒野に打ち捨てる予定だったのだけど、華鳳院の神殿長であらせられる桓子様が大反対なさったの……〝いかに王家を謀った罪人とはいえ巫女を流刑に処しては龍神様のお怒りを買う〟と仰って、大層震えていたわ」
「あら、神殿長様は信心深い方だこと」
「年を取らない不気味な餓鬼なんて、龍神様だって気味悪がって近寄らないわよ」
一頻り三人でくすくすと笑い合ってから、蓬莱は些か淑女らしからぬ仕草でクッキーを無遠慮に摘み上げた。それを口の中に放り込みながら、再び小首を傾げてみせる。
「それなら黎琳は結局、どうなった訳?」
「紅国に下げ渡されることになったわ」
「……何ですって?」
今しも二枚目の焼き菓子を頬張ろうとしていた蓬莱の口元からぽろりとクッキーが溢れ落ちた。だが、それを取り落とした張本人も、その傍らで大きく目を瞠った嫜月も、転げ落ちた菓子の行方など気にも留めていない。ぽかんと開きっ放しになった唇から蓬莱が呆然と問いを発する。
「紅国って……まさか、あの?」
「ええ、あの呪われた国よ」
うっそりと双眸を眇めて蘭々は微笑んだ。
紅国――大陸の中央、殷国北東に位置するこの国は、何処の国からも〝龍に見捨てられた国〟として忌み嫌われている。
遥か昔、初代紅王が龍神の逆鱗に触れて以来、彼の国にはほとんど雨が降らず、瞬く間に川は干上がり、泉は枯れ果て、国土の六割が砂に没したという。余りにも古い話であるが故に、かつて王が如何なる咎を犯して龍の怒りを買ったのか、その詳細は定かではないが、田畑を耕すことはおろか、日々の飲み水すら事欠く熱砂の地に暮らす紅の民は、永く終わりのない渇水と貧困に喘いでいる――龍姫の祝福を受けた殷国とは、まるで真逆の国だ。
かつては過酷な環境に堪え兼ねた民が国境を越えて他国へ次々と流入していたが、紅国に連なる者に関われば龍の呪いを受けるという噂が流布するようになってからは、各地で移民が迫害を受けるようになり、今や紅を訪う者は勿論、彼の地から異国を目指す者とて一人もいない――あくまでも、表面上は。
「これはここだけどお話なのだけれど……実は二年前、紅国の王が代替わりしたのだけど、それ以降、再三〝我が国に貴国の巫女を遣わしてはもらえないか〟と、王宮に厚かましい要望を携えて特使が来ていたの」
大きく目を瞠ったままの二人の少女たちに顔を寄せると、蘭々は声を潜めて語り始めた。
「何度追い払っても執拗に訪ねてきて、殷王陛下もそれはお困りになっていらしたのだけど……黎琳が紅国へ行けば、万事解決でしょう? 私たちは偽物の龍姫を追放出来る上に、これで穢らわしい紅の破落戸どもを遠去けることが出来る……」
たっぷりと朱を塗った唇を禍々しく吊り上げて、新たに筆頭巫女となった少女は愉しげに微笑んだ。
「ふふ、龍姫を騙っていた罰当たりな小娘が、呪われた砂漠の地でどんな酷い目に遭うのか――とっても楽しみで仕方ないわ」