第一節 - Ⅳ
「……この役立たずが!」
「!」
太子の私室から出るや否や、拯曹は身繕いする暇すら与えず、引き摺ってきた娘を廊下に突き飛ばした。
「何という様だ! 我が誇り高き宋家の家名に泥を塗りおって……恥を知れ!」
「…………っ」
どうやら床に叩きつけられた際に、背中を強打したらしい。息の詰まった喉を喘がせながら、黎琳は実父――肩を震わせて眼前に仁王立った拯曹の鬼のように歪んだ形相を床から見上げた。
薛郗の私室へと通じる扉の前には、槍を掲げた二人の近衛兵が佇んでいたが、彼らは宰相の怒声にも、目前で虐げられる少女にさえ、あたかも彫像のように佇立したまま何の反応も示さない。
「お、と」
「貴様はもう私の娘などではない」
吐き捨てられた父のその言葉に打ちのめされたかのように、身を起こしかけていた黎琳が動きを止めた。愕然と表情を凍らせた娘を憤怒と憎悪の奔騰する双眸で射竦めたまま、拯曹は一人娘に向かって唾でも吐き掛けるかのような口調で端的に命じる。
「一晩だけお前に猶予をやる。明朝、陽が昇る前に我が宋家から――いや、我が殷国から即刻出て行け」
「……どういうことでございますか?」
〝この国を去らねばならないなんて本当にお可哀想〟――最前、耳にしたばかりの蘭々の言葉を脳裏に思い返しながら、黎琳は今にも途切れそうなほど細い声で問いかけた。
「何故……どうして私が?」
「龍姫の生まれ変わりを騙り、国と民、神殿を欺いた罪人として、お前を国外追放処分とする。二度と殷の地を踏むことは罷りならん」
「そ、んな……」
再び全身が震え始めるのを、黎琳は止めることが出来なかった。
確かにこれまで幾度となく周囲からは〝龍姫の再来〟だと評されてきた。それは事実だが、自称したことは一度もない。
「わ、私は、始祖の王妃様を騙ってなど」
「黙れ!」
首を振って必死に抗弁しようとする黎琳を、拯曹の凄まじい怒声が一喝した。
「本来であれば王家を謀って不当に太子様へと近付いた不敬により極刑に処すところだが、仮にも神力を賜った巫女の端くれだ。その身に流れる龍神の力に免じて、首だけは刎ねずに繋いでおいてやる……だが、もし貴様が再び私の前にその気味の悪い貧相な姿を晒したそのときは――」
蝋のように白く変じた娘の顔を、実父の暗く翳った双眸が見下ろした。次いで、明確な殺意の凝った低い声がこう告げる。
「そのときは、私がこの手で貴様の首を刎ね飛ばす――二度とその醜い面を見せるな」
* * *
人気のない中庭は、夕陽を浴びて一面血の色に染まっていた。
何処をどう歩き、途中で誰かに出会したか、太子の私室を叩き出されてからの記憶は、何一つとして覚えていない。気付いたときには、既に黎琳は此処――王宮内の最も奥深くに位置するこの寂れた中庭に足を踏み入れていた。
「…………っ」
幽鬼のように茫洋と歩いていた白銀髪の少女の身体が大きく前につんのめったかと思うと、野草の生い茂った草地に投げ出された。中庭の位置故か、どうやらあまり手入れが行き届いていなかったものらしい。伸び切って絡んだ草花に足を取られた少女が、受け身も碌に取れぬまま転んだのだ。
押し潰してしまった野花に手をついて身を起こそうとしたところで、黎琳は緩慢に動きを止めた。
「……ふ……っ」
どうしてこんなことになってしまったのだろう?
大きく見開いた金瞳で、両手の上に滴り落ちる透明な雫を見つめながら、黎琳は喉の奥から溢れようとする嗚咽を必死に堪えた。
どれほど陰口を叩かれ、実父から厳しく躾けられようとも、これまで歯を食いしばって耐えてきた。自分よりも下級の巫女たちが嘲笑いながら当然のように雑務や神事を押し付けてきても、その全てを引き受けてこなしてきた――その結果が今であるなら、あまりにも惨い。
「龍神、様……いら、いらっしゃるなら、どうか……どうか、教えて下さいませ……っ」
込み上げてくる嗚咽にしゃくり上げながら、黎琳は何処にいるとも知れぬ、人成らざる存在に向かって問いかけた。
「わ、わたくしは……っ私はこれ以上、どのように頑張れば……何をすれば、よかったのでしょう……っ」
もう一度、父に笑顔を向けて欲しかった。
誰かに必要とされてみたかった。
だが、黎琳の手元にはもう何一つ残っていない――産まれてすぐに母を亡くし、唯一の家族であった父も、故郷ですらも全て失った。
異端者である自分には、もう何もない……
「――よく頑張ったね、黎琳」
「!」
ふと優しい温もりが少女の頭に載せられたのは、そのときだった。
「君は本当によく頑張った。黎琳が悪かったところなんてひとつもない……だからもうこれ以上、頑張らなくていいんだよ」
「貴方は……」
一体、いつから隣にいたのだろう?
草地に這いつくばった少女の傍らに、いつの間にか真白い神官服の青年が座り込んで、彼女の小さな頭を撫でていた。年の頃は今年で二十歳を迎える薛郗と同じか、あるいはそれよりもほんの少し上といったところだろうか?
随分と美しい若者だ。線の細い中性的な美貌は抜けるように白く、男にしては華奢なその指先は、爪の先までもが誂えたかのように形よく整っている。だが、何よりも黎琳の目を奪ったのは、彼の纏った眩い色彩――柔らかそうな白銀色の猫っ毛と、垂れ目がちな琥珀色の双眸である。
「その髪、眼の色……」
「ん? これ?」
草花の上から黎琳を優しく抱き起こしてやってから、青年は自分の前髪をちょこんと摘んでみせた。それを涙膜の張った瞳で見上げながら、黎琳が呆然と呟く。
「私と……同じ……?」
「そうだね、黎琳とお揃いだね。僕らはとても近くて遠い親戚だから、そっくりで当然だよ」
「……親戚?」
「そ」
双眸を見開いた黎琳に向かって大きく頷くと、青年は白い美貌にやや軽薄な雰囲気を纏わせて、満面の笑みを浮かべてみせた。
「初めまして、黎琳。僕の名前は白蓮――君のお爺ちゃんだよ」