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第一節 - Ⅲ




 突き飛ばされて宙を舞った少女の身体が、強かに床に打ちつけられた。苦鳴を溢しながらも半身を起こそうとした黎琳の傍らに、ゆらりと人影が仁王立つ。


「……〝止めてほしい〟だと?」

「!」


 甲高く乾いた音と、声のない悲鳴が重なった。

 身を起こしかけていた黎琳の頬を、薛郗が容赦なく平手で打ち据えたのだ。


「何だ、その反応は? 吾を身体で愉しませることも出来ぬ出来損ないの餓鬼の分際で、拒絶だけは一人前の女のように……何様のつもりだ、黎琳?」

「ッ…………」

「それとも何か? 吾の目には全く変わっていないように見えるが、少しは女人らしい肉付きになったとでも言いたいのか?」


 昏く、陰惨な嘲笑の光を孕んだ鋼色の双眸が、冷ややかに黎琳を見下ろした。どうやら頬を打たれたときに口腔内を切ったらしい――口の端に血を滲ませた少女の後ろ髪を鷲掴みにして固定するや、薛郗が黎琳の胸襟を乱雑な手付きで開いて、あろうことか裸に剥こうとし始める。


「……太子様!」


 青を通り越して紙のように白くなった少女の唇から、悲鳴にも似た声が迸った。だが、無慈悲に黎琳を辱めようとしている男が手を止める素振りは一向にない。


「お父様……お父様、どうかお助け下さい、お父様!」


 半ば恐慌状態に陥りながら、黎琳は必死に身を捩って拯曹を見上げた。だが――


「…………」


 氷針のような眼差しと沈黙が、黎琳を見下ろした。

 黎琳の金瞳が絶望に染まった。

 少女の痛々しいほど細い肩が剥き出しになり、今しも胸元が露わにされようとした――その直前。


「薛郗様!」


 若い娘の甘えた媚声が突如、室内に響き渡った。

 無論、声の主は黎琳ではない。

 年の頃は黎琳の実年齢と同じ十代後半といったところだろうか? 許可もなく太子の私室に飛び込んできたのは、高く結い上げた豊かな栗毛に金細工をあしらった(かんざし)を数多差し、絢爛な赤い絹の衣装を纏った、いかにも成金娘といった風の派手な装いをした見目麗しい少女――蔡蘭々である。

 背後に二人の侍女を従えた新しい太子の婚約者は、泣き黒子が婀娜っぽい鳶色の大きな瞳で室内の光景を見回すや、何か見慣れぬ遊びに興じている子供でも見つけたような声音で問いを発する。


「まあ、薛郗様、何をなさっておいでですの?」

「蘭々」


 一方、それを迎える薛郗の態度は、この上なく鷹揚だった。物のように痛ぶっていた白銀髪の少女を無造作に手放すと、およそ黎琳には向けたことのない脂下がった笑顔を浮かべて、腕の中に飛び込んできた蘭々を抱き留める。


「どうした、蘭々? 吾に会いに来たのか?」

「やだ、薛郗様ってばもう蘭々との約束を忘れてしまわれたのですか? 婚約祝いに都で一番の商人を呼んで、私だけの素敵な首飾りを造って下さると仰っていらしたでしょう? 沢山宝玉のついた、世界で最も美しい、とっても高価な首飾りを」

「無論、覚えているとも――もう商人を王宮に招いたのか?」

「ええ、とっくに」


 臆面もなくしなだれかかった太子の顔を上目遣いに見上げながら、蘭々は桃色の紅を差した艶やかな唇を拗ねたように小さく尖らせた。


「薛郗様にも一緒に相談に乗って頂きたくて、こうしてお迎えに参りましたの。黎琳様とのお話はもう終わったのでしょう?」

「ああ、話は済んだ」


 腕に抱いた許嫁に向かって微笑んで頷くと、薛郗は一転して冷え切った視線を眼下に転じた。震える手で肌蹴られた胸元を掻き合わせ、暴行の恐怖と痛みに座り込んでいた黎琳の頭上から、冷ややかな命令が叩きつけられる。


「……いつまでそうしているつもりだ、黎琳? お前にもう用はない、さっさと去れ」

「あら、黎琳様ったら、そんなところにいらしたんですの?」


 続けて、どこかわざとらしい調子でそう声を上げたのは蘭々である。


(ねずみ)のようにお小さくていらっしゃるのに、そのように床に這いつくばっているものだから、私、全然気付きませんでしたわ……あら、そのはしたない格好はどうされたのです? ひょっとして身の程も弁えず、薛郗様に身体を使った色仕掛けでもして、許嫁でいたいと縋ったのですか? そんな幼い身体に目を向けて下さる殿方など誰一人としておられないでしょうに」

「ふふ、本当に」

「蘭々様の仰る通りでございますね」


 いかにも同情していると言わんばかりの口振りで投じられた蘭々の台詞に、同調した二人の侍女たちがくすくすと嘲笑を漂わせる。

 しかし、白銀髪の少女は俯いたまま何の反駁もしなかった。いや、正確には出来なかったと言った方がいい。


「…………っ」


 何も考えられず、全身の震えが止められない。


「みじめでお可哀想な黎琳様……」


 縺れて絡まった髪の下、真っ青な顔で衣服を掻き合わせている前任の筆頭巫女――見るも無惨な格好で震えている黎琳を愉悦の灯った瞳で見下ろして、蘭々は袖の袂で隠した桃色の唇を三日月型に釣り上げた。その実、声音だけはさも悲しげに震わせて、小鳥のように小首を傾ける。


「昔は龍姫の生まれ変わりだとあんなに持て囃されていらしたのに、単なる毛色の変わった役立たずでいらしたのね……誰の為にもならず、何の役にも立てずに()()()()()()()()()()()()なんて、本当にお可哀想」

「……え……?」


 今、蘭々は何と言ったのか?

 ぴくりと睫毛を震わせて、黎琳は酷くぎこちない仕草で顔を上げた。〝この国を去らねばならない〟――それは一体どういう意味だろう?


「お前は優しいな、蘭々」

「まあ、そんなことありませんわ、薛郗様」


 訝しげに眉を寄せた黎琳を、薛郗と蘭々の両名は視界に入れてすらいなかった。人目も憚らず顔を寄せて甘え合った後、ふと至極瑣末な用事でも思い出したような調子で、蘭々が座り込んだままの黎琳を振り返る。


「さ、もういい加減に御退出なさい、()()。今までの高貴な身分と待遇に縋りつきたい貴女の卑しいお気持ちはわかりますけれど、いくら子供のような外見だからと言って、いつまでも駄々を捏ねて殿下を困らせてはなりませんよ……そうでしょう、宰相閣下?」

「蘭々様の仰る通りだ……とっとと立たんか、黎琳!」

「…………っ」


 まるで王妃のように悠然と微笑んだ蘭々から目配せを受けて、憤然と歩み寄った拯曹が黎琳の華奢な腕を圧し折らんばかりに力任せに掴み上げた。苦鳴を溢す娘を罪人の如く引き摺りながら、太子の私室を辞していく。

 その背を視線だけで見送りながら、


「――ご機嫌よう、黎琳」


 蘭々は一層、紅を差した唇を吊り上げた。




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