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第一節 - II




 殷国王都、白渓宮――切り立った天邑山の地形を生かして建てられたこの王宮は、五国の中でも最も麗しいと謳われる。

 その名の通り、白い巌の連なる渓谷と見事に調和した壮麗な王宮には、あちこちに設けられた緑豊かな中庭を大小様々な滝が流れ落ちており、各宮を回廊と(きざはし)で繋いだその様相は、山そのものが宮殿であると言っても過言ではない。禁軍の守護する山麓の大門から上層に向かって国政の中枢機関である官府、大広間、貴賓室が設えられ、殷王の坐す玉座の間を経て、最も上階に位置するのが王族の居住区である。

 その東塔の一角、些か華美に過ぎる絢爛な太子の私室の床で、黎琳は平伏して額ずいた。


「お久しゅうございます、薛郗様。過日、太子様より仰せ仕りました尾州の神事、全て恙無く――」

「……ふん、相変わらず薄気味の悪い子供の姿形(なり)をしているな、黎琳」


 鈴を振るったような少女の奏上を遮って放たれた男の声音には、露骨な嫌悪の色が含まれていた。

 豪奢な室内で黎琳の来訪を待ち構えていた二人の人物のうち、頬杖をついて長椅子に寝そべっていた年若い男――殷国国王の一人息子、周薛郗が鼻を鳴らした。抜き身の剣を思わせる鋼色の長髪の下で、いかにも傲慢そうな光を湛えた同色の双眸が、床に額ずく少女を睥睨している。秀麗な面を、あたかも己の庭先に迷い込んできた薄汚い乞食でも見やるような表情で歪めやりながら、再び短く鼻を鳴らす。


「本当ならば得体の知れぬ貴様のことなど近付けたくもないが、お前の顔もようやく今日で見納めだ。最後くらいは吾に直接、これまでの長きに渡る無礼を心より詫びる機会を与えてやろう――面を上げよ」

「……御厚情、誠に有り難く存じます」


 直答を許されたことに対する謝意を恭しく述べながら、黎琳は微かに眉を寄せた。

 自分は何か粗相でも重ねてしまっていただろうか?

 まるで心当たりはないが――


「お話があるとは伺っておりますが……恐れ入りますが薛郗様、長きに渡る無礼とは一体何のことでございましょう?」

「そんなことも言われなければわからんのか、黎琳」


 伏し目がちに顔を上げて問いかけた黎琳に対して、蔑みを帯びた冷ややかな重低音が応えを返した。

 答えたのは薛郗ではない。太子の横たわった長椅子の傍らに佇立していたいま一人の壮年の男が、唾棄するような口調で吐き捨てたのだ。男――黎琳の実父である殷国宰相宋拯曹(じょうそう)は、およそ娘に向けるものとは思えぬ凍てついた眼で黎琳を見下ろした。


「本日を以て、太子様とお前の婚約を解消する。お前に代わって新たに婚約を結ばれるのは、次席の巫女である蔡家の蘭々(らんらん)様だ。これは殷王陛下と太子様、神殿の総意による決定であり、もはや覆ることは罷りならん」

「お前が吾の伴侶たり得ぬ理由は、無論、さすがに弁えているな?」


 肩に掛かった鋼色の髪を指先で弄いながら、薛郗は居丈高に問いかけた。だが、元より黎琳に対して会話の応酬など求めてはいなかったらしい。床に畏まった少女の返答を待たず、太子が再び口を開く。


「王の伴侶は必ず後継ぎを産まねばならん……だと言うのに、お前のその貧相な身体は何だ? 十の頃のまま全く変わらず、未だに初潮すら迎えていないそうだな。いかに神力の高い巫女だろうが、子を孕めぬのでは話にならん。王妃の務めは、吾の高貴なる龍の血筋を後世に残すこと……女として出来損ないのお前には、到底務まらぬわ」

「出来、損ない……」

「ふん、それ以外の何がある? 拯曹が〝せめて成人するまでは待って欲しい〟と何度も嘆願するのでな。我が国の有能な宰相に免じてこれまで許嫁として留め置いてやったが、それも今日までだ」


 青褪めた顔で俯いた黎琳を、長椅子に悠然と寝そべる青年は一顧だにしなかった。手慰みに髪を弄ったまま、冷ややかに吐き捨てる。


「宋黎琳――吾との婚約を解消し、お前に与えた筆頭巫女の認定を抹消する。今この瞬間より、筆頭は我が妃の蘭々、お前は末端の下級巫女だ。吾の伴侶が次席などでは許されぬからな」

「……畏まりました。筆頭の位、謹んで御返上申し上げます」


 静かに眼を閉じると、黎琳は平伏した。

 何故だろう?

 つい最前、〝出来損ない〟だと蔑まれたときはさすがに胸が痛んだが、薛郗との婚約破棄、そして巫女として最上位にあった己の地位を降格させられたことに関しては、不思議と何も感じていない。いや、むしろ肩の荷が降りたような気すらしている。

 太子の冷遇が顕著になってからというもの、焦燥を抱いた父である拯曹は、ここ数年、半ば虐待紛いの苛烈な王妃教育を娘に課してきた。国史・算術・作法・舞踊・詩――文字通り、血の滲むような努力を経てあらゆる教養を身につけた黎琳だったが、高名な侍医ですら匙を投げた、唯一にして最大の汚点である成長を止めてしまった己の肉体だけは、いかに彼女と言えど如何ともしようがない。

 多少なりとも立場を失う覚悟はしていたとは言え、自然過ぎるほど自然に処遇を受け入れている己を不思議に思いながら、黎琳が顔を上げようとした――次の刹那。


「!?」


 凄まじい力で、少女の頭が床に叩きつけられた。


「当然だ――お前は本当に吾の顔に泥を塗ってばかりの(ゴミ)だった」

「た、太子……様……?」


 一体何が起こったのか?

 激痛に白い顔を歪めながら、黎琳は懸命に身を捩って眼を上げようとした。ようやく彼女が己の状態――長椅子から立ち上がった薛郗に足蹴にされ、頭を踏みつけられているのだと悟ったときには、少女の頭上から冷たく昏い声が降ってきている。


「さも〝龍姫の化身〟であるかのような紛らわしい髪をして、まんまと吾を謀りおって……お前のような得体の知れぬ薄気味の悪い餓鬼(がき)を娶らねばならんのかと、吾はずっと不安だったのだぞ? このようにもっと地に額を擦りつけて誠心誠意、吾に許しを乞わねばならぬのが分からぬのか?」

「…………!」


 黎琳の喉から細い苦鳴が上がった。小さな頭蓋を軋ませるように、薛郗が少女の頭部に乗せた片足に力を込めたのだ。

 一頻(ひとしき)り黎琳の側頭部を踏みつけた後、ぐちゃぐちゃに乱れ切った白銀髪を手荒に鷲掴みにするや、強制的に少女の顔を上げさせる。


「ふん、普通に成長さえしていれば、さぞや美しい女になっただろうにな。いかに龍姫と同じ色の髪と眼を持っていようが、こんな貧相な身体の餓鬼では全く話にならぬわ」

「っ…………」


 鋭く息を吸い込んで、黎琳が身体を強張らせた。酷く詰まらなそうに鼻を鳴らした太子の手が、あろうことか無造作に少女の胸を弄まさぐったのだ。


「お、お止め下さい……!」

「……あ? 何だ、その反応は?」


 真っ青になって身を捩ろうとする少女の頭上から、奇妙なまでに感情の失せた男の声音が降ってきた。

 次の瞬間――黎琳の華奢な身体は、投げ捨てられた人形のように宙を舞っていた。




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