第四節 - Ⅲ
「―― 一体、何がどうなっておる?」
いかにも神経質そうに尖った男の声音が、朝儀の間に木霊した。
玉座の肘掛けに凭れかかるようにして座った六十代も後半のその男――殷国国王・周蕓照は、白髪頭に被った冕冠の下で、皺の寄った目尻を微かに痙攣させた。若かりし頃はさぞや美丈夫であったであろう鼻筋の通った面長の顔は、今や皺深く燻んでいるものの、やや肉の落ち始めた長身からは、未だ衰えぬ覇気が漂っている。
「これほどの凶事は前代未聞じゃ。未だ嘗て聞いたことがない……民の様子はどうなっておる?」
「……幾つかの州で、民衆が大挙して神殿へ押し掛ける事例が頻発しております」
王の下問にそう答えた重低音には、実に苦々しげな響きが籠もっていた。玉座へと繋がる階の下で恭しく跪いた二十四人の高級官僚のうち、先頭で膝をついていた壮年の男――宰相である宋拯曹が、彫り込んだように深い皺を眉間に刻んで重々しく告げたのだ。
「現在は各州軍が対応に当たり、騒ぎを起こした者どもを処罰することで治めておりますが……これ以上、凶事が長引けば早晩、この白渓宮にまで民が押し掛けることでしょう」
「……左様であろうな」
唸るようにそう相槌を打つや、老王は片肘をついた手で己のこめかみを揉み込んだ。
〝凶事〟――突如として殷国の要たる華鳳院の神泉が枯れ、まるでそれに追従するかのように王都中の井戸が次々と枯渇し始めたのは、一月前のことである。異変は王都のみに留まらず、徐々に国土の末端にまで広がりを見せており、今や各神殿の擁する九つの泉は軒並み枯れ果て、人里の只中に掘られた井戸は腐って澱み、森を流れる河川までもが痩せ細り、その流域を刻一刻と確実に狭めつつある。
そして、問題は水だけではない。
華鳳院の神泉が枯れてからというもの、日照り続きで雨の一滴さえ何処にも降っておらず、田畑は甚大な被害を被っている。恐らく、今秋の収穫が見込める村はほとんど皆無だろう。
こめかみを揉み解す指を止めぬまま、殷王は深い憂慮の籠もった溜め息を吐き出した。
「水もなく、先々の食べる物すらない。斯様な状況では遠からず、民は暴徒と化して我が王宮に雪崩れ込むであろう……神事は本当に滞りなく執り行っておるのだろうな、蘭々?」
「……も、勿論にございます」
玉座からの底冷えのする眼差しを向けられた娘――筆頭巫女である蔡蘭々は、微かに震えを帯びた声で即座に応えを返した。
数多の簪で結い上げた栗毛の下の愛らしい容貌は紙のように白く変じ、そこに彼女が常々、格下の巫女や使用人に対して浮かべている高飛車な表情は微塵もない。筆頭巫女に倣って蘭々の後方で跪いた余嫜月、黄蓬莱を始めとする八名の巫女たちもまた、平素の通り、華やかな衣装で着飾った身を、揃って萎縮したように強張らせている。
王から注がれる氷針めいた視線を上目遣いに見上げると、蘭々は引き攣った媚笑を拵えた。
「私を始め巫女一同、誠心誠意、泉に祝詞を捧げております。もしお疑いなのでしたら、直接御覧になられても――」
「ならば何故、こうも凶事が続く?」
「それは……その、わ、私にお聞きになられても……」
「そなたらは神力を継いだ巫女であろう。誰も事の次第を知る者はおらぬのかと聞いておるのだ……この役立たずの小娘どもが!」
「ひぃ……っ!」
玉座の上から放たれた凄まじい怒声に、少女たちから悲鳴が上がった。だが、この場に彼女らを庇う者は誰もいない。一人として発言する者が現れぬまま、朝儀の間が水を打ったようにしんと静まり返る――
「……黎琳様を追い出したからじゃ」
何処からか嗄れた呟きが上がったのは、そのときである。その声音はけして大きくはなかったが、静寂に支配された空間では、よく通った。
「やはり黎琳様には残って頂くべきだったのじゃ……そうすれば、きっとこんなことにはならんかった……」
「……桓子、そなた、何か知っておるのか?」
玉座の上でにわかに姿勢を正すと、殷王は視線を尖らせた。
声の主は高級官僚たちと巫女らの更に後方、各地から召集された神殿関係者の一団の中で、あたかも神託に背いた背信者のように項垂れていた。加齢によって湾曲した肉の薄い背中を更に丸め、長く伸ばした白鬚に皺深い顔を埋めるようにして俯いているその人物の名は、趙桓子――華鳳院の神殿長を務める、在職中の神官の中でも最年長の老人である。
「黎琳とは拯曹の娘、宋黎琳のことか? 確かにあれは王家の子を孕めぬ不出来者ゆえ、国から出したが……知っての通り、神力に優れた巫女は一人ではない。あれがいなくなったところで何の問題がある?」
「……我が身可愛さに、太子様をお止め出来なかった儂がいけなかったのじゃ……」
王の下問であるにも拘らず、老神官は俯いたまま顔を上げようともしなかった。老爺の薄い唇は、尚も聴き取りにくい嗄れ声で譫言めいた呟きを紡ぎ続けている。
「いや、此度のことだけではない……神殿が長く六公家の狗であった腐敗の因果じゃ……あの方が、あの方だけが最後の御方であったのに……」
「……一体、何を申しておる?」
「へ、陛下、どうやら桓子様はとても混乱しておられるようです」
不審げに眉を顰めた殷王に向かって、一人の官僚が引き攣った顔で奏上した。彼は李皓延――序列第五位の巫女・舎巵の実父にして、国庫の紐を固く握る財務部の長である。六公家の一角を担う李家の現当主でもあるこの男は、総じて気位の高い貴族には珍しく、朝廷でも酷く気が弱いことでその名を知られている。現に今も、明らかに常軌を逸した老爺の振る舞いに少なからぬ畏怖を抱いているらしい。桓子と蕓照の双方に忙しなく目線を彷徨わせながら再び口を開いた男の額には、玉のような脂汗が数多浮かび、その顔色は病人の如く白茶けてしまっている。
「か、桓子様はとても信心深い御方ですから、斯様な状況に陥ったことで、ひょっとすると我が国が龍神様の加護を失ってしまったのではないかと錯乱しておられるのでしょう。お年もご高齢ですし、これ以上の心労はお身体に障ります……もう帰って頂いては如何です?」
「…… 皓延」
「は、はい」
「余の国が龍に見放される未来など、永久に訪れぬ。口を慎め……例えであっても不愉快じゃ」
「……た、大変申し訳ございません!」
主君から投げ掛けられた絶対零度の眼差しに、皓延は慌てて叩頭した。それを見て溜飲が下がったのか、殷王が小さく鼻を鳴らす。
「ふん……だが、まあそなたの申すことも尤もじゃ。桓子はここで下がるがよい」
蕓照の目配せを受けて立ち上がった二人の神官が、未だ何事かを呟き続けている老爺に付き添って、朝儀の間を辞してゆく。その様子を叩頭したまま目の端で追っていた皓延は、彼らが完全に退室するのを見届けるや、漸くほっと肩の力を抜いて顔を上げた。
「では、改めて朝儀を再開する。各州の長は引き続き、民の暴動に注意を払い、騒ぎを起こした者には――」
「…………」
咳払いとともに諸官への指示を飛ばし始めた蕓照の声を聞きながら、朝儀の間の片隅で一言も黙して語らず、与えられた自席で頬杖をついていたその若者――殷国太子・周薛郗は、無言のまま昏い瞳で親指の爪を噛み千切った。