第四節 - Ⅰ
「――それじゃあ、まず地面に両手を付いてー」
「はい」
まだ朝の時分であるにも拘らず、頭上から降り注ぐ陽射しは強烈だった。
農作業用の麦藁帽子を被って、大きく腕捲りをしたその少女――黎琳は凛々しく眉を跳ね上げると、熱を孕んだ玄天宮の中庭に手を付いた。栄えある王宮の園庭であるにも拘らず、そこには剪定された草木や美しい花壇はおろか、雑草の一本さえも生えていない。罅割れた石畳が所々に散見される以外は、そのほとんどが砂漠から吹き込んだ砂で埋もれ、見る影もなく荒れ果ててしまっている。
だが、麦藁帽子の少女は園庭の荒寥とした惨状も、呻くような外気の熱にすら、全く頓着する様子を見せなかった。気迫に満ちた表情で対面に佇む教師役の青年――白蓮を見上げると、次の指示を待つ。
「はい、いいでしょう。では次に、えいやっと神力を地面いっぱいに流しながら、びよよーんと龍脈を伸ばせば完成です」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
「……………………え?」
「うん?」
当惑に瞬く黎琳の双眸と、邪気のない白蓮の笑顔が空中でかち合った。その周囲では、片手で目元を覆った玄奘と双子の少年たちが揃って天を仰いでいる。
「……どいて、白蓮。相変わらず説明が下手」
「僕らが代わるから白蓮は引っ込んでて」
呆れ返った声音で交互にそう言って長兄を押し退けるや、双子の少年――朱霞と青藍は、黎琳の両脇に片膝を付いた。えぇぇえその扱いは酷くない? と子供のように唇を尖らせて拗ねる白蓮を完成に黙殺して、改めて説明を開始する。
「いい、黎琳?」
「目を瞑って僕らの声だけに集中して」
「は、はい」
気を取り直すようにひとつ息を吐いてから、黎琳は目を閉じた。燦々と降り注ぐ陽光は、閉ざした目蓋の裏にさえ、眩い光を通してくる。両手の下に伝わる砂と土の感触が酷く熱い。
「始めるよ、黎琳」
「龍脈を創るときに必要なのは、集中力と想像力――無から有を産み出す力」
「龍脈は大地の中を走る道」
「大樹が地中深くに伸ばした根のように、幾つもの枝に分かれて、どこまでも長く続いていく」
漣の如く、交互に左右から吹き込まれる双子の少年たちの声音に引き込まれるように、いつしか黎琳の意識からは、全ての感覚が遠去かっていた。思考の中はまるで地中のようにただ暗く、最前までは確かに掌の下にあった土の感触も、目蓋を灼く陽光の明かりも、何ひとつ感じられない。
「龍脈は……大地の中を走る道……大樹が伸ばした根のように……」
「そうだよ、黎琳」
「神力はその根を伝い、水の如く大地に浸透して豊穣の緑を運ぶ」
目を閉じたまま譫言のように反芻する少女を挟んで、朱霞と青藍は互いの目を見合わせた。
「神力で絵を描くように、少しずつ力を注ぎながら、大地の下に根を伸ばして。遠く、長く――どこまでも遠くまで」
「僕らがこれから唱える祝詞を復唱しながら、神力で大樹の根を創ってみて」
「…………」
催眠術にでも掛けられたかのように、黎琳はどこか茫洋とした仕草でこくりと頷いた。その両脇から、少年たちが全く同じ声音で口を開く。
《《水よ来たれ、風よ来たれ。今、地を拓いて導きを通さん》》
《水よ来たれ、風よ来たれ。今、地を拓いて導きを通さん》
《《花よ来よ、種よ来よ。授けたるは芽吹きの道筋、福音の御印なり》》
《花よ来よ、種よ来よ。授けたるは芽吹きの道筋、福音の御印なり》
黎琳の声音に混じっていた戸惑いの響きは、いつの間にか跡形もなく消えていた。
輪唱のように重なり合い、連なって響き渡る少年少女らの涼やかな祝詞の声を聞きながら、白蓮は眇めた琥珀色の眼差しを足元に落とした。透かし見た地中の奥深く――只人にはけして視ることの叶わぬ光の道が、太く、細く、大空に枝葉を広げる大樹の如く、四方に向かって無数に伸びてゆく。
《《其は永久に龍の聲、龍の鼓動に応えて脈打たん》》
《其は永久に龍の聲、龍の鼓動に応えて脈打たん――》
それは、確かに黎琳がこのとき初めて耳にするはずの祝詞だった。だが、不思議と彼女には、次に口にすべき言葉がわかっていた。
《《《命導招来!》》》
朱霞と青藍、そして黎琳の凛とした声が重なった次の瞬間――大地と空が大きく脈動した。たった一度だけ鳴り響いたその鼓動の音は、熱砂の地を吹き抜ける一陣の風と化すや、地平の彼方へ四散して消えてゆく。
「……これで、終わったのですか?」
閉じていた目蓋を開くと、黎琳は地面に両手をついたまま、恐る恐る周囲を見回した。
祝詞を唱えている間は極めて集中していたせいか、一切の暑気を感じていなかったが、相変わらず頭上からは刺すような陽射しが降り注ぎ、涼の欠片もない熱風が全身に纏わりついてくる。呻くような外気の暑さも、荒寥とした園庭の光景も寸分違わず、一見しただけでは何ら変わりないように思えるが――果たして無事に龍脈を通すことは出来たのか?
(……あれ?)
そこまで考えたところで掌の下に感じた違和感に、黎琳は双眸を瞬いた。最前まで灼けるような熱を孕んでいたはずの砂地が妙に温かい。
「これって……」
「黎琳?」
砂地についた己の両手をまじまじと見下ろしていた少女の背中に驚いたような声が掛けられたのは、そのときだった。
丁度、園庭の傍らにある回廊を通り掛かった人物――禎亮が、黒髪の下で目を丸くして、その場に立ち止まったのだ。何もない中庭の只中に座り込んだ少女と、例によって外套を目深に被った四人の神官らを交互に見遣って首を捻る。
「黎琳に神官殿方も……そんなところで一体、何をしているんだ?」
「て、禎亮様」
慌てて掌についた砂を払って立ち上がると、黎琳は即座に居住まいを正した。何か変わったものでも落ちているのかと、いかにも興味深げに周囲を見回しながら歩み寄ってくる年若い王を前に、無意識の内に腹部の前で固く握り締めていた両手に力を込める。
「…………」
たった今まで掌を置いていた足元の地表に向けて、暫し躊躇いがちに視線を落としてから、黎琳は徐に目蓋を閉じた。ふと唇を綻ばせると、そこから柔らかな声音を紡ぐ。
「禎亮様……私を紅国へ迎え入れて下さって、本当にありがとうございます」
再び少女の目蓋が開いたとき、その琥珀色の双眸にはただ穏やかな光が宿っていた。躊躇いも、畏怖も、何もない――春の木漏れ日を思わせる優しい光。
「禎亮様は、白渓宮から全てお聞きになっておられたのでしょう? 私が龍姫を騙った偽りの巫女として殷国を追われたことを……でも、謂わば罪人である私を、禎亮様や寧寧、民の皆様方は何一つ事情を尋ねることすらしないまま、笑って受け入れて下さいました。私は、誰かからこんなにも親しく接して頂いたのは、本当に久しぶりだったのです。ですから、とても……とっても嬉しかった」
「黎琳……」
何事かを言い差した禎亮の動きを視線で制すると、黎琳は眉を下げて微笑んだ。
「お願いが遅くなりまして申し訳ございません。私などに何が出来るのかと、ずっと迷っておりましたが……禎亮様、どうか私を紅国の巫女として正式に仕えさせて頂けませんか?」
「!」
思わぬ要望に黒瞳を見開いた禎亮の眼前で、黎琳は恭しく膝を折った。徐に両手を祈りの形で組んで目を閉じると、歌うように口を開く。
《――この地に融けし龍の血よ》
少女の唇から溢れたのは、彼女が最も慣れ親しんだ祝詞だった。
《其は澱みなく流るる龍脈と哉て、清水を湛え、草木を芽吹き、愛しの民に豊穣の恵みを与えん。其は龍の願いなり、古からの祈りなり。此の身に継ぎし、神の御魂の力を借りて、古の願いを叶え給う――》
鈴を振るったように澄んだ声音がその言葉を紡ぎ終えたその刹那――跪いた少女の足元から、旋風が吹き上がった。