第三節 - Ⅳ
実のところ、黎琳が朝からずっと気難しい表情をしていた理由はこれに尽きる。
そもそも何故、殷国では巫女による神事が必須であるのか――それは遥か昔、伴侶の後を追った龍姫の遺言に端を発すると言い伝えられている。
今でこそ豊富な水源と緑に恵まれているが、元来の殷国は、現在の紅のように草木も生えぬ不毛の地であったらしい。それを生涯に渡って神気で満たし、大地に己が龍体を捧げることによって、その死後も殷国を豊穣に導いてきた龍姫であったが、彼女曰く、地に注がれた龍の神気を永久に留めることは、たとえ森羅万象に通ずる龍神であっても適わぬという。つまり、殷国を砂の大地に帰さぬためには、絶えず神力を注ぎ続けなければならないのだ。そして、その役目を負っているのが神力を持つ巫女――かつて六公家に降嫁した、龍姫の血を継ぐ娘たちの末裔である。龍姫が没して永い時が経った今、その血の系譜は平民の中にまで紛れ込むほど広く散見しているが、六公家出身の巫女が多いのはそういった事由からだ。
だが、いかに神力を受け継いだ巫女とはいえ、龍姫と寸分違わぬ方法で、尚かつ同量の神力を一息に注げる訳ではない。無限の神力を有する龍に対して、あくまでも只人の身に過ぎない巫女のそれには当然、限界がある。龍は水脈をもその力で創生し、見渡す限り一帯をいとも容易く一遍に緑地へと変貌させてしまうが、巫女の注ぐ神力量は、乾き切った砂漠に撒かれる水も同然――荒れ地に束の間の芽吹きを与え、仮初めの楽園を造ることが出来ても、すぐに枯れ果てて無に帰してしまう。
そして、それを憂慮した龍姫によって遺されたのが、華鳳院の地下にある神泉と、そこから殷国中に向かって伸びる数多の龍脈である。
(……せめてこの国にも、神泉と龍脈があれば良かったのに)
詮無いことだと頭では理解しつつも、黎琳は唇を噛まずにはいられなかった。
神泉と龍脈――それは謂わば、人間の肉体で言うところの心臓と動脈のようなものである。殷国には華鳳院を含め、泉を有した神殿が等間隔に九つ設けられており、その全てが龍脈を介して繋がっている。核となる華鳳院の神泉に最も秀でた筆頭巫女が神力を注ぎ、下位の巫女たちがその他の神殿に赴いて神事を執り行い、地の末端にまで神気を行き渡らせる――この慣習が古くから引き継がれることによって、殷国は大陸中から〝龍に最も愛された国〟と謳われ、水と豊穣を得てきたのだ。結局、巫女だけがいても、神力を循環させる龍脈がなければ、何の役にも立ちはしない……
「……琳、黎琳?」
「あ」
暗澹たる気分で再び肩を落としたところで呼び掛けられた己の名に、黎琳は我に返って顔を上げた。つい色々と考え込んでしまっていたが、人と話している途中だった――今更ながらそれを思い出すや、白銀髪の少女が慌てて背筋を伸ばして口を開く。
「いえ、その……本当に、禎亮様のことで悩んでいた訳ではないのです。ええっと……」
胸を張って神事を執り行っていると言えない以上、ここは何と言って誤魔化すべきか?
口を開いて早々、黎琳は言葉を詰まらせた。眉間に皺を寄せて呻いている少女の顔をまじまじと眺めた後、白蓮がいともあっさりと核心を付いてくる。
「ひょっとして、ここのところこっそり内緒で執り行っている神事のことで悩んでる?」
「えっ!?」
黎琳は椅子から飛び上がらんばかりに喫驚した。
「き、気付いていらしたのですか?」
「うん」
「み、皆様全員?」
「「「「うん」」」」
「い、いつから」
「最初っからだよ……黎琳はどうして内緒で神事なんてしていたの? あのやり方じゃ、今の黎琳にはまだ一度にたくさんの緑地は造れないでしょ?」
まだも何も、自分には神事でしか緑地は造れないのだが――内心でそう反論しつつ、黎琳は目に見えてしょんぼりと肩を落とした。さも不思議そうに首を捻っている白蓮の前で悄然とテーブルの上に視線を落としたまま、萎れた声で話し始める。
「それは……私の神力でどこまでお役に立てるのか、自信がなかったのです。禎亮様や紅国の皆さんに、これからはもう大変な暮らしをしなくても済むのだと期待させておいて、それが叶わずに失望させてしまったら……」
いや、違う――失望させてしまうのが怖かったのではなく、何よりも黎琳自身に失望されてしまうのが恐ろしかったのだ。
胸の内に巣食った浅ましい感情に、黎琳は唇を噛んで押し黙った。だって、また見かけだけは龍姫によく似た紛い物だと後ろ指を差されてしまったら、今度はどうすればいいのだろう? もうあんな思いはしたくない。かつて故国で味わった冷たい孤独の只中になど、二度と立ち戻りたくないのだ。
「私は……」
こんな生々しい願望を抱くなんて、自分は清廉な巫女には相応しくないのかもしれない――頭の片隅でそんなことを考えながら、黎琳は視線を落としたまま膝の上で握った両手に力を込めた。
「私は、誰かに必要とされる自分でありたいのです。この国で胸を張って生きていてもいいと思えるように、誰かに認めてもらいたい……でも、私では力不足でした。私は――」
「……黎琳は真面目だねえ」
唇を噛み締めた少女の頭上に、ふと優しい温もりが載せられたのはそのときだった。対面に座っていた白蓮が徐に腕を伸ばすや、黎琳の白銀髪を撫でたのだ。
「普通、人間てもっと利己的な生き物なんだよ? 自分は何ひとつ努力なんてしちゃいないのに、生まれついての家柄や血筋をひけらかして他人を虐げたり、酷い悪口を言って嘲笑ったりもするし、平気で嘘を付く上に、誰かを陥れたって欠片の罪悪感も抱きやしない。だけど、君はいつだって自分の未熟さを嘆きはしても、絶対に他人を責めたりしないんだね……知ってるかな? それって、とても凄いことなんだよ、黎琳」
褒められているのは少女の方であるはずなのに、まるで自身が讃美されているかのように嬉しげな表情を湛えている白蓮の顔を、黎琳はおずおずと上目遣いに見返した。慣れぬ讃辞に薄く頬を染めながら、遠慮がちに呼び掛ける。
「……あの、白蓮様」
「うん?」
「褒めて下さってありがとうございます。ええっと、でも……悪意を持って酷い悪口を言ったり、どなたかを陥れたりするのは、人として成してはならない当然のことですよね?」
「……当然のこと?」
「ええ、そうです。〝自分がされて嫌なことは誰にもしてはいけない〟――普通のことではありませんか?」
「普通」
「はい、普通です」
「…………」
「…………」
何かおかしなことを言っただろうか――俄かに黎琳が不安を抱き始めたとき、まじまじと少女の顔を眺めていた白蓮が、ぷっと吹き出した。
「そっか、黎琳にはそれが〝普通〟かあ」
ますます嬉しげに笑みを深めると、白蓮はもう一度、少女の頭を撫でてから腕を離した。
「本当にいい子に育ったね……よし! それじゃあそんな頑張り屋さんの黎琳に、ひとついいことを教えちゃおう」
「いいこと、ですか?」
「そ、龍脈の通し方だよ」
「え?」
何を言われたのか呑み込めずに双眸を瞬いた黎琳の前で、白蓮の脇腹を玄奘が肘で小突く。
「……おい、いいのか?」
「劉威の子孫だけど、禎亮は劉威みたいに馬鹿じゃないし、別にいいんじゃない? もうあの頃の人間はみんな死んじゃってるんだし、そろそろ許されてもいい頃合いだよ……それに何より、黎琳が助けたいって言ってるしね」
「二千年前は紅の国土を丸焼きにしそうなくらい怒ってたのに」
「孫には甘いね、白蓮」
交互に口を開いた双子の指摘を黙殺すると、白蓮は未だ状況を呑み込めていない少女に改めて向き直った。
「さて、それじゃあ早速、一緒に庭園に出て実践といこうか――黎琳はまず、今の神力量でも紅国を救えるように、龍脈を創りたいんでしょ? 僕らが龍脈の通し方を教えるよ」
「え? ええっと…………………………ええっ!?」
今度こそ黎琳は喫驚の余り、文字通り椅子から飛び上がった。目を白黒させながら、動揺も露わに四兄弟の顔を回し見る。
「は、白蓮様、それに玄奘様たちも……どうして龍脈の通し方などご存知なのですか?」
「どうしてって――」
きょとんと瞠った琥珀色の瞳を四兄弟で見合わせた後、白蓮は珍しくあんぐりと口を開いた黎琳に視線を戻してから、得意げに微笑んだ。
「そんなの当然、僕らが黎琳のおじいちゃんだからに決まってるじゃない――永く生きてる分、年寄りっていうのはとっても物知りなんだよ?」