第三節 - Ⅲ
「……ねえ、薛郗様? 私と薛郗様の婚礼には、他国の王族もたくさんおいでになるんでしょう?」
まだ陽の高い日中であるにも拘らず、寝室には淫靡な衣擦れの音が漂っていた。
長椅子に押し倒した婚約者の襟を大きく開いて、そこから溢れた豊満な胸の谷間に顔を埋めていた若い男――殷国太子である周薛郗は、頭上から降ってきた甘やかな声音に目を上げた。あられもなく太腿まで露わになった寵姫の脚に手を這わせながら、上機嫌に含み笑う。
「当然であろう? 吾は高貴なる龍神の正統な末裔――王族と言えど、他国とは格が違う。その吾が、めでたく妃を迎えるのだ。皆、勇んで競うように寿ぎに参る」
「まあ、素敵」
恍惚とした声音で、寵姫――蔡蘭々はくすくすと華やかな微笑を溢した。
「では、私は龍神様の花嫁になりますのね? 身に余る光栄ですわ」
「そなたは本当に可愛いことを申すな、蘭々。それに、この艶かしい身体は吾を悦ばせるのが実に上手い……」
熱く上擦った息を吐き出すと、薛郗は再び寵姫の豊かな胸に顔を沈めた。
貴賤の隔たりなく、婚前交渉は恥ずべきものだとされているが、次の玉座を約束された鋼色の髪の太子は既に幾度となく蘭々と淫蕩な行為に耽っており、またそれに対して欠片の罪悪感も抱いてはいなかった。さすがに父王にばれれば口煩く咎められた挙げ句、煩わしい監視がつくのはわかっているから、最低限、他人の目は盗んでいるものの、使用人の前ではまるで隠していない。
(ふん……何故、吾が我慢などせねばならんのだ?)
柔らかな乳房を思うがまま揉みしだきながら、薛郗は内心で鼻を鳴らした。
父王を含め、今の重鎮どもは古い慣例に縛られた石頭ばかりだ。殷王家が断絶しても構わないのか、と薛郗が彼らを煽動し、筆頭聖女であった黎琳をこの国から追放していなければ、今頃、自分はあの薄気味の悪い餓鬼を娶らされていたことだろう。
(父王が身罷り、吾が王になった暁には、要らぬ慣習は廃していかねばならないな)
まずは尊い周家の血を絶やさぬために、後宮を構えるのはどうだろう? 妃は古くから最も神力に秀でた聖女ただ一人と定められているものの、これこそまさに頭の硬い悪習だ。確実に世継ぎを設けるためだと言えば、宮中の連中もきっと首を縦に振るに違いない……
「……し、失礼致します、太子様!」
何やら酷く慌てた様子で、寝室の外から男が声を掛けてきたのはそのときだった。
「わ、私は華鳳院の神官、宇坑と申します……お、畏れながら、そちらに筆頭巫女であらせられる蘭々様はいらっしゃいますでしょうか?」
「蘭々はいま取り込み中だ」
寵姫の身体を弄る手は止めぬまま、薛郗は素っ気なく応えを返した。
「何用か知らぬが、後にせよ」
「で、ですが……神殿長の桓子様と殷王陛下が蘭々様をお探しなのです。疾く御前に参るようにと」
「父上が?」
ここに至ってようやく寵姫の上から身体を起こすと、鋼髪の太子は、困り果てた神官が待っているであろう寝室の扉を、いかにも不機嫌げに振り返って睨め付けた。
「父上が一体、蘭々に何の用だ?」
「そ、それは――」
「知っているならとっとと申せ、この愚図が!」
「ひいっ! も、申し訳ございません……か、華鳳院の龍泉が今朝方、枯れてしまったのです!」
「……何だと?」
呆然と見開いた鋼色の双眸が、長椅子の上で未だしどけなく横たわったままの蘭々に向けられた。
「どういうことだ?」
「わ、私、何も存じ上げませんわ! その……いつものように私が祈祷を捧げたときは、別に何ともありませんでしたもの。ねえ、神官様、何かの間違いじゃありませんの?」
「り、龍泉だけじゃないんです……」
両手で襟を掻き合わせ、慌てて頬を引き攣らせて起き上がった蘭々の問いかけに、宇坑は震える声で答えた。
「直轄領である永州の街でも、突然、井戸が枯渇したという報告が幾つも上がってきています。り、龍泉の変事だなんて、何て不吉な……ら、蘭々様、早く陛下の元に――」
「……待て」
「せ、薛郗様?」
突如、短く発せられた制止の命に、蘭々は双眸を瞬かせた。訝しげに眉を寄せた薛郗が急に立ち上がったかと思うと、何かを探るように室内を見回し始めたのだ。
「薛郗様? どうかなさったのですか?」
「…………」
上目遣いに見上げてくる蘭々の問いかけに、鋼髪の太子は答えなかった――否、正確には、答えられなかったと表するべきだろう。技巧の粋を凝らして造られた名工の花瓶、美しい絨毯、精緻な飾り模様を彫り込まれた家具。絢爛な寝室は、薛郗の記憶の中のそれと寸分も違わない――にも拘らず、最前から感じているこの違和感は一体、何なのか?
その答えを得ることが出来ぬまま、薛郗はふと何かに誘われるように窓を開いて――その直後、窓辺で凍りついたように凝然と立ち竦んだ。
五国の中でも最も麗しいと謳われる白渓宮の中庭は、その日も瑞々しい緑陰と花々に溢れていた。だが、その狭間を幾筋も流れ落ちていくはずの大小様々な滝の流れは、何処を見廻しても見当たらない。
「…………っ」
音が――音が、聞こえなかったのだ。
常にそこにあって当然だった滝のせせらぎが、全く聞こえなかった――自らが感じていた違和感の正体を悟って、薛郗はごくりと唾を呑んだ。
ぞっとするほど静まり返った中庭の片隅で、清流の途絶えた岩肌を、澄んだ雫が滴り落ちた。
* * *
「黎琳、まぁた皺が寄ってるよ?」
「うにゅ」
対面から伸びてきた指に眉間を揉み解されて、茶を飲もうとカップを掲げた体勢のまま、何やら酷く気難しげな顰め面で黙り込んでいた黎琳は、思わず妙な声を漏らした。驚いて危うく取り落としそうになったティーカップを慌てて持ち直すと、やや恨めしげな上目遣いで指の主を見つめ返す。
「び、びっくりしました……白蓮様、驚かさないで下さいませ」
「だって黎琳ったら、朝からずうっと難しい顔してるんだもの。禎亮と朝ご飯が一緒に食べられなかったこと、そんなに愚図るくらい寂しかったの?」
「え?」
琥珀色の瞳を瞬いて、黎琳は室内であるにも拘らず、外套を目深に被ったままの四兄弟――対面に座った白蓮と玄奘、そして両脇に腰を下ろした朱霞と青藍の顔を見回した。さすがに与えられた自室では脱いでいるのだろうが、この紅国を訪れて以降、白蓮らは黎琳以外に一度も素顔を晒していない。詳しい理由こそはぐらかされてしまって定かではないが、どうやら無闇に顔を見せたくないらしい。
そんな彼らに順番に視線を置いた後、一拍遅れて、黎琳はあからさまに頬を上気させた。半ば落とすようにティーカップをテーブルに置くや、林檎のように赤く染まった頭を千切れんばかりに横に振りながら、あたふたと抗弁する。
「ち、違います、そんなんじゃありません! それはもちろん、禎亮様がいらっしゃらないのはとても寂しいですが……」
いつも朝食を摂っている長テーブルの端――今朝は誰も座っていない椅子を横目で一瞥して、黎琳は恥ずかしそうに肩を窄めた。
禎亮と黎琳一行、日によってそこに寧寧や申が加わってこの食堂で朝食を共にするようになったのは、黎琳が玄天宮に来てすぐのことだ。不必要な装飾品の類は例によって売り払ってしまったらしく、豪奢な長テーブルと椅子以外はほとんど何もない閑散とした部屋だったが、母国ではここ数年、一人で食事を摂るのが常であった黎琳にとって、それはとても温かい時間だった。
だが、今朝の食堂に黎琳と四兄弟以外の人影はない。禎亮と申は、揃って遠方から戻って来た遣いの者から至急の報告を受けなければならないらしく、寧寧もまたその使者を迎えるために、黎琳たちに最低限の給仕を済ませた後、酷く申し訳なさそうに微笑んで席を立ってしまったからだ。無論、仕事なのだから、それに不満などあるはずもない。
そう、不満などないのだが――
「…………」
いつもすぐ傍らに座っている朗らかな笑顔を思い返して、黎琳は頬を赤らめたまま、膝の上で組んだ指を握り直した。
いつからだろう?
一点の曇りもない笑顔で自分を迎え入れてくれたこの国の人々のために、精一杯出来ることがしたい――それは紅国に着いてすぐに黎琳が抱いた想いだったが、その中に一際、強く輝き始めた願いがある。
(禎亮様に微笑ってほしい……あの方に、心から喜んでもらえることがしたい)
そのために黎琳が思い至った唯一の方法は、地に安寧を施すこと――即ち神力を捧げて水脈を導き、緑と花に溢れた豊穣の大地を蘇らせることである。果たしてこれほど荒涼とした砂の地に、自分の神力が変化を齎すことなど可能なのか甚だ不安視していた黎琳だったが、幸いにして果樹園の収穫の裏で秘密裏に祈祷を捧げる都度、少しずつではあるものの、目に見えて細やかな緑地は着実に広がりを見せている。果樹園の植物自体も格段に実りが良くなったらしく、共に農作業に励んでいる農婦や子供たちの喜ぶ様は、もちろん、この上なく嬉しいのだが――
(……でも、もう少し効率よく神力を浸透させる手立てはないかしら?)
テーブルに置いたまま、まだほとんど口を付けていないティーカップの水面を見下ろして、黎琳は重い溜め息とともに肩を落とした。