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第一節 - I




 ――遥か昔、この大陸には五頭の龍が住んでいた。

 四頭の兄龍と妹龍。

 娘の姿を取り、人の世の片隅に紛れて暮らしていた妹龍はやがて人間の王と恋に落ち、五つある人間の国のうちのひとつ、殷国の妃となって、民から大層慕われたと言う。

 だが、不老不死である龍に対して、人の生はあまりにも儚く短い。

 年老いて死んだ王の後を追い、妹龍は自らの神体を殷国の大地に捧げ、天に召される。神力を得た殷国はそれ以降、清らかな風と水、美しい花と緑に恵まれた豊穣の大地となり、他国からこう呼ばれるようになる。


 〝最も龍神に愛された国〟と――




     *     *     *




「なあ、例の巫女様を見たことあるか?」


 殷国華鳳院――その日の午後、広大な神殿の一隅で、回廊の清掃を任されたまだ出仕して幾らも経たぬ年若い三人の見習い青年神官たちは、石造りの床を箒で掃きながら噂話に興じていた。


「宋家の長子だろ? 太子様の許嫁の」

「俺はまだお目にかかったことないな」

「俺も」

「今は眞との国境にある尾州に御祈祷に出向いてるって話だから、当分帰って来ないんじゃないか?」


 春の陽射しは麗かだった。

 抜けるような青空の下、中庭の木立で囀る雲雀の声が実に長閑に響き渡っている。背の高い列柱が立ち並んだ長い廊下に、彼ら以外の人影はない。だが、もしもこの場に気配に聡い者がいたならば、曲り角の向こうから近付いてくる小さな存在に気付いて、即座に口を噤んだだろう。


「何だ、それじゃまだ誰もあの噂の真偽を確かめた奴はいないのか? 今年で十八歳、成人する年頃だっていうのに、何でか十の頃から幼女のまんま――」


 見習い神官たちの傍らを、ふわりと一陣の春風が吹き抜けたのはそのときだった。いや、春風などではない。ほんの微かな花の薫りとともに足音すらなく通り過ぎたもの。

 それは――


「御苦労様です」

「あ、はい。御苦労様……って、え?」


 今の声は一体、何処から聞こえたのだろう?

 突如、鈴を振るったように愛らしい声音で掛けられた労いに反射的に応えを返してから、見習い神官たちは揃って両眼を瞬かせた。首を捻りながら各々周囲を見回しかけ、次いでぽかんと口を開く。

 回廊の先を小柄な人影が歩いていた。

 数多の花を編み込んだ腰までもある長い白銀の髪と、風を孕んで嫋やかに翻る巫女服の真白い裾。神力を有する巫女以外は女人禁制である神殿において、この容貌に合致する人物は現状、たった一人しか存在し得ない。そう、つい今し方まで話題に上っていた(くだん)の……


「は?」

「へ?」

「え?」

「「「えぇぇえ!?」」」


 背後で湧き上がった頓狂な声を聞きながら、その見掛けだけならば十になるやならずの少女――宋黎琳(れいりん)は癖のない白銀髪の下、人形のように整った小造りの白い顔を僅かに(ひそ)めて足を速めた。長い睫毛に縁取られた零れ落ちそうなほど大きな琥珀色の瞳には、陰鬱な光が灯っている。

 そうとは悟られぬように足早に回廊を歩き去ると、曲り角を右折したところで、少女はようやく足を止めた。背後に最前の見習い神官たちの姿はもはや見えず、周囲には他に人影もない。


「今日で私も十八歳、か……」


 深い嘆息とともに華奢な肩を落とすと、黎琳は物憂げに俯いた。


 黎琳が神力を有する巫女だと認められると同時に、殷王の一人息子である薛郗(せっき)の許嫁に選ばれたのは、七つの頃のことだった。

〝王は政をして人を平定し、妃は神気を以て龍の地に安寧を齎す〟――初代国王の王妃に龍を迎えたここ、殷国の古い慣習において、代々王の伴侶は巫女の中から選ばれる。この国の女児は皆、一人の例外もなく七つの迎え年に神殿へと連れて行かれ、鑑定の後に神力を認められた者は(すべから)く巫女となり、最も力に秀でた者が伴侶となる慣わしである。

 妃となるに当たって出自の貴賤は関係ないが、歴代の王妃たちは並べて貴族の娘が多く、平民から花嫁が立った例は滅多にない。取り分け現在、宮廷の要職を担う六公家――かつて降嫁した龍の血を引く王女を始祖に持つ宋・蔡・劉・黄・李・余の六家は神力に秀でた巫女を数多く輩出しており、これまで立后した王妃のほとんどが六公家の出身だ。

 黎琳自身も宰相を父に持つ宋家の出であり、ずば抜けた神力を有していたが故に、巫女になると同時に、当時九つであった太子の許嫁となることが決定付けられた。

 本来であれば幾人かの巫女を候補に挙げた後、神殿の審議を経て選抜されるのが通例だが、これほど端的に時期国王の伴侶が決まった例は稀である。それだけ黎琳の神力が突出していたのと、少なからず彼女の稀有な容姿もそれを後押ししたに違いない。


 白銀色の髪と琥珀の双眸は、殷国国史に残る初代国王妃の特徴である。龍の血を継ぐ直系王族と六公家の貴族たちの中には色素の薄い者も多いが、黎琳ほど見事な銀糸と宝玉の瞳を持つ者は他にいない。

〝龍妃の再来〟と謳われた黎琳を幼少の太子は『(われ)に相応しい』と言って大層気に入り、宰相である父は誇らしげに笑っていた。


 恵まれた家柄。

 秀でた神力。

 あたかも龍から祝福を受けたかのような稀有な容姿。

 一点の曇りもない輝かしい未来。

 まだ愛しか知らなかったあの頃の黎琳は、それが翳るなどとは夢にすら思ってもみなかった――彼女の身体が成長を止める、そのときまでは。


「成人さえすれば、こんな(わたくし)でもきっと、大人になれると思ったのに……」


 あまりにも小さな自分の両手を、黎琳は悄然と見下ろした。

 十二の頃はまだ、他人(ひと)より成長が遅いだけだと思っていた――それが傍目から異様に映るようになったのは、十五のときのことである。

 他の子女たちは胸が膨らみ、初潮を迎えているというのに、黎琳にはそのどちらの兆しすら見受けられない。いつまでも幼いままの黎琳を太子が薄気味悪いと言って遠去けるようになってから、慌てて何人もの侍医が呼ばれたが、どの医師も一様に首を捻るばかりで、成長が著しく遅い以外、黎琳の身体にさしたる異常は認められなかった。


『気味が悪い、吾の前に顔を見せるな』


 そう言って太子が黎琳を疎んじるようになるや、優しかった父の態度は一変した。

 否、父だけではない。

 それまで黎琳を誉めそやしていた大人たちは皆、潮が引くように彼女の周りから消えてゆき、太子との婚約を笑顔で寿(ことほ)いでいたはずの同年代の巫女たちからは、あからさまな嘲笑を向けられるようになった。


 それでも尚、黎琳と太子の婚約が今日に至るまで取り消されなかったのは、恐らくは彼女の身体が成熟するか否か、成人を迎えるその日まで見定めるつもりだったからだろう。

 黎琳自身、十八歳の誕生日が訪れれば、きっと何かが変わるかもしれないと、微かな希望を抱いていた。王妃になどなれなくてもいい。ただ街中を歩くごく普通の娘たちのように歳を重ね、気の置けぬ友人、愛する人に囲まれて微笑(わら)っていたい。

 だが、現実はこの通りだ。

 自分の身体は幼い子供のまま、ずっと変わらない……


「……もう行かなくちゃ」


 小さな両手を、黎琳はぎゅっと握り込んだ。

『眞から戻ったらすぐに宮へ参じるように』――余程、黎琳を傍に置いておきたくないのだろう。この三年というもの、本来であれば等級の低い下位の巫女が担う地方都市の神事ばかりを命じられ、ずっと王都から遠去けられてきた黎琳がそう太子からの言付けを賜ったのは、彼女が華鳳院に帰着してすぐのことである。

 あれほど嫌悪感を露わにしていた薛郗が自ら黎琳を呼びつけたということは、何かしら重要な話があるに違いないが――成人したにも拘らず、未だ十になるやならずの姿のままの黎琳を目にしたら、果たして自分は太子からどのような扱いを受けるのだろう?


 胸の奥から這い上ってくる不安を振り切るように、黎琳は重い足取りで歩き始めた。




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