サイモン財団遺伝子研究保存センターの春季休業日
キール・デリはその日、ファンタジアのサイモン財団遺伝子研究保存センターにいた。もちろんブラッキィも一緒である。彼らは#11の置かれている特別資材保存室なるものに、さっきからずっと閉じ込められているのだった。
もっとも名前はものものしいが、この部屋はセンターにおけるキール・デリの私室でもある。#11と同室ということだったが、年に二回、一ヶ月以上も滞在する彼のために、私物置場も兼ねてジェナスが用意したのであった。#11はその体格、体型上の理由からケージに入っていつでも正面を向いていたし、#11の観察用に使われている室内に取り付けられたカメラも、彼が寝起きするベッド等がある居住スペースは写らないように設置されていた。しかもホーバーは彼がくるとこのカメラを切ってしまったから、実質この部屋は本当に彼の個室だったのである。
「きーる、あきた」
「俺もだ、ブラッキィ」
キール・デリとブラッキィは#11の正面にある、センターの廊下に置かれているのよりはましな感じの長椅子に座っていた。今日はカメラが起動している。それなのになんでそんなよく映る位置にいるのかといえば、ジェナスとホーバーにそこに座れと指示されたからであった。
「まだかよ」
彼は十回以上読んでしまった雑誌を長椅子の上に置き、正面の#11に目をやった。#11は居眠りをしている。こちらも飽きてしまったようであった。もっともキール・デリがいるので嬉しそうではある。たまにしか来ないからだろう。彼も同室の#11をうとましく思ったことはない。異様な姿ではあるのだが、特に害もないし、同族であることもあってか、なんとなく可愛らしく思ったりもするのであった。
壁の室内電話が鳴った。キール・デリは受話器を取る。相手はジェナスだった。事務室となりのセンター中央通信制御室で、ずっと広い館内をモニタリングしているのであろう。それも退屈な作業ではある。
「そろそろ視察団が行きます。ホーバーさんも一緒です。いろいろ質問されるかもしれませんが、答えられるものは答えてもらえますか」
「分かったよ」
このセンターを取り仕切るジェナスも亜人種扱いである。本当は違うのだが、省庁への登録はそうなっていた。ほかにもここには不老体の遺伝子コードを持つルドワイヤン博士や、小間使いをしているマン・ダミーのロッキー、それにストリート上がりの自然発生亜人種のカラットなどがいるのだが、今日はいずれもおとなしくしている。いつも通りに元気なのはスタッフマシーン、つまりロボットのリンダだけであった。
ブラッキィがあまりにも飽きてしまっているので、彼は自分のエリアにある冷蔵庫から葉つきの細いニンジンを持ってきた。ここに来る途中、大袋で投売りになっていたので買ってきたのである。センターのカフェテリアでも野菜は調達できるのだが、早朝と夜中は営業していないのでやはり持参しないと大変であった。
ぼりぼりとブラッキィがニンジンをかじりだす。半分くらいかじったところでドアがノックされた。
「入りますよ」
白衣姿のホーバーがドアを開けた。キール・デリがうなずくと、その後ろからぞろぞろと五人ばかりついて入ってきた。しんがりはどう見ても今年採用になったばかりの若者で、いずれも同じようなグレーや紺のスーツを着ていた。
「彼がキールさん。サラティア社のウォールナッツ・ブレインです。通しナンバーは#5になっています。向こうが#11です」
ホーバーが連れてきた人々に説明をする。スーツ姿の男たちに取り囲まれ、キール・デリは首にかけていたプレートを外してそのうちの一人に渡した。そうするように前もって言われていたからである。
「こっちはひとがたで向こうは基本形態のようだが、どうしてかね」
ホーバーが言った。
「彼は異種化RNAの封じ込み個体です。作成時の退化処理もかけてありませんし、促成もありません。ほぼ人間と同じです」
男たちがどよめいた。キール・デリの存在は特例中の特例である。それは自分でもよく分かっていることだったが、それでもこんな反応をされるといい気分ではなかった。
「なにしにきた。うるさくてしつれいだぞ」
ブラッキィがニンジンをかじりつつ言った。そこで彼らはキール・デリのとなりにいる口と態度の悪い黒ウサギに気がついた。
「ブラッキィ、黙れよ」
キール・デリが制止する。ブラッキィは黙らなかった。雑誌を踏んづけながらきいきい声でこう言った。
「どこからきたんだ。おれはぶらっきぃ。おまえたちはなんていうんだ。きーるがだまってるからかわりにきいてやる」
「聞かなくていい。ニンジン食べてろ」
微妙にピンチに陥りそうな気がしたので、キール・デリはまだ手元にあったニンジンをブラッキィの前に積んだ。興味深そうに視察団の一行がそれを見る。
「スピリットか。君のかね」
そうだ、と彼は答えた。ブラッキィはその中にホーバーを見つけ、今度は彼に向かって言った。
「ほーばーはなまえをきいてるのか」
「全員知ってますよ」
そつなくホーバーは答えた。そうか、とブラッキィは何か納得したようだった。
「じゃあいい」
キール・デリがほっとしたのもつかの間だった。
「なんでみんな、おなじふくをきているんだ」
「え? なんの話だ?」
唐突な質問だったので、キール・デリは思わずそう言ってしまった。ブラッキィは言った。
「ほーばーのほかはみんなおなじふくだぞ。みんなおなじひとなのか」
いくらここがトップクラスの技術力を誇るサイモン財団遺伝子研究保存センターだからといって、視察団の人間が全部同じクローンということはない。それに同じと言ってもスーツなだけで、色合いは似通っているものの、よく見れば色も柄も様々である。
「全員違う人間だろう。よく見ろよ」
んん、とブラッキィはニンジンをかじりながら首をかしげた。そして言った。
「わかった、みんなしきしゃだろう。ぼうのさきからでんぱがでて、みんなのがっきからおとが出るんだ。おれ、しってるぞ」
シャトーブリューン・フィルでの経験は、ブラッキィにとって鮮烈なものだったようであった。しかしキール・デリにとっては頭の痛いことこの上ない発言である。
「俺は知らなかったよ」
彼は負けを認めることにした。その間に視察団は部屋中を探検し、#11の虫の翅が生えた肌を触って寝ていたのを起こし、ニンジンが入った冷蔵庫を開けようとしてホーバーに止められていた。その様子を横目で眺めながら、彼らが楽器ケースを開けようとしないかどうか、キール・デリは少しはらはらしていた。
「それじゃあ行きますので」
ホーバーがそう彼に声をかけ、一行は部屋を出て行った。最後についている若者がちらっと彼のことを振り返る。そしてドアを閉めていった。ほどなくして電話がかかってきて、ジェナスがカメラを切ったことと、もう自由にしていい旨を告げた。
「うへえ」
彼は長椅子から立ち上がり、#11のケージ横にある自分のベッドに寝転がった。疲れ果ててしまったのである。
「あー、そうだ」
ブラッキィもやってきて、ベッドの横に並ぶ。ベッドに上げろと言うのである。
「ほらよ」
あまりやると毛でシーツが汚れるのでいい顔をされないのだが、それでも彼はブラッキィと一緒にベッドに転がった。ブラッキィが毛布の隙間にもぐりこんでうとうとしだす。寝転がったまま、キール・デリは反対側の#11を見上げた。巨大なボディにつくきょろっとした目がまぶたをひらいて彼を見て、また閉じた。#11も疲れていたのだった。
「プレート返してもらわなきゃな」
楽器ケースを開けられなくてよかった、そう思いながら彼は眠りに落ちた。
政府の視察団は一泊していったので翌日もいた。このセンターには簡易ではあるが、五室ばかりのゲストルームがある。彼らはそれをフルに使ってここに滞在していたのだった。翌日のカフェテリアでもキール・デリは彼らと会ってしまい、中途半端なおはようございますを言って離れた場所のテーブルに座った。
卓上にあるタブレットで朝食とブラッキィ用の野菜を注文する。ほどなくして食事が運ばれてきた。トーストとコーヒーと野菜スティックである。一見バランスがよさそうに見えるが、野菜はほとんどブラッキィが食べてしまうし、トーストは薄いものを焼いてバターを乗せただけであった。朝食など本当はなくてもいいのだが、食べないとなにしろホーバーに怒られる。いつも栄養失調直前でセンターに現れるからであった。
食欲もないのだが、もそもそとトーストを口に運んでコーヒーで流し込む。今回、特に彼は何か検査や用事があってセンターに来たわけではない。政府の視察団が来るので、いないと困るという理由で呼ばれたのであった。彼のこのセンターでの登録名は研究資材用実験体亜人種である。要はここの備品なのであった。備品が勝手に出歩いているのがばれるとやはりセンターとしては少しまずいので、日程が分かると同時にジェナスが連絡をしてきたのである。
「うーん」
ブラッキィはだいぶ野菜を残していた。思ったより量が多かったのである。手つかずの部分をより分け、キール・デリはそれをにらんだ。注文したからには食べるべきだが、朝からそんなものが入るような気もしなかった。
意を決してきゅうりの細切りをつまむ。ニンジンは無理そうだった。パプリカは好きではない。ついてきたソースにその先をつけ、口に放り込む。ブラッキィはもう腹がいっぱいになってしまって、テーブルの上で身づくろいなどしていた。横腹を後ろ足でかいて、それから顔を洗う。のんきなものであった。
「あの、いいかな」
きゅうりに戦いを挑んでいる彼の前に、紺色のスーツを着た若者が現れた。まわりを見回して正面の椅子に座る。キール・デリの近くには誰もいなかった。もっともこのセンターのカフェテリアは人数に比べて広すぎるので、一番混む時間でもガラガラである。最盛時の半数しかこのセンターには人がいないからだ。
「なんだ」
ブラッキィも顔を洗うのをやめてそっちを見た。キール・デリと同じくらいの年齢の若者は、ブラッキィに目をやると彼のほうを向いた。
「少し聞きたいんだけど、君はこのセンターでいつも何をして過ごしているんだい」
いろんなことをしゃべるとボロが出るので、キール・デリは別に、と言った。あまり虫の好かない相手だったこともある。育ちもよく頭もよさそうだったが、ザイナスやケンタなどどは違ってなんとなく彼を見下しているように思えたのだ。
「別に、ってことはないと思うんだけど。誰かの手伝いをするとか、何か仕事が割り当てられてないのかい」
どうやら彼がやたらと暇そうにしているのが、この若者を刺激したようだった。このセンターでは確かにさほどすることはないのだが、センターを出れば彼だって忙しいのである。
「検査。ずっとだ。結果が出たらまた再検査。それの繰り返しだ」
面倒なので彼はそう言った。まさか、と相手は言う。
「年に二回、一ヶ月かけてでかいのをやる。それ以外にも何かあれば検査して投薬する。塩基配列が#11に比べると不安定になりやすいからだ。ホーバーに聞いてないのかよ」
「いや……」
相手はひるんだようだった。目の前の、いかにも物を知らなそうな亜人種からそんな言葉が出るとは思いもしなかったからだろう。そこへルドワイヤン博士が通りがかった。正確に言うと、視察団の一人と不機嫌な顔で話しているキール・デリを見つけて近寄ってきたのだった。
「おはようございます、キールさん」
「おはよう、伯爵」
キール・デリは座ったままそう挨拶した。スーツ姿の若者の顔がこわばる。昨日紹介されたものの、左右色違いの目と大きく張り出した犬歯が口元にのぞくその顔は、やはり怖いのだった。彼が伯爵というあだ名を持っているのも、実にこの顔に由来する。ブラッキィはんん、とテーブルの上からルドワイヤン博士の顔を見上げた。
「かんりにんさんじゃないほうのかんりにんさんだな」
「おはようございます、ブラッキィ君」
後ろ足で耳の横をかきながら、ブラッキィは言った。
「そのきばはなんでのびないんだ。おれのまえばはのびるぞ」
どれどれ、とルドワイヤン博士はブラッキィを抱き上げ、間近でその口を見た。そうですね、とまたテーブルに戻す。
「伸びたらやすりで削らないといけませんね。ブラッキィ君、少し前歯が伸びすぎてますよ。後でペンチで切りましょう」
そう言われたとたんにブラッキィはテーブルを降りて、椅子に座っているキール・デリの膝に逃げ込んでしまった。長い耳の先だけがテーブルの端から出ていてなんだかおかしかった。
「視察団の方と何のお話ですか」
ルドワイヤン博士の物腰は、相変わらず穏やかで優しい。声音もそうだ。顔さえ見なければどうということもない。
「俺が日ごろ何してるのか知りたいんだってさ」
くすくす、とルドワイヤン博士が笑った。
「講堂に連れて行ってあげればいいんです。すぐ納得しますよ」
「やだよ」
そこへ向こうから視察団のうちの一人がやってきた。一人足りなくて探していたようであった。ルドワイヤン博士の姿を認めて、あわてて小走りでやってくる。
「おい、人工種との個人的な接触は避けろと言ったろう。ミーティングをするから戻ってこい」
ルドワイヤン博士がその男のほうを向いた。
「おはようございます。ブレーニーさん」
「ああ、おはよう」
ブレーニーと呼ばれた男のほうは少し引きかげんである。彼はルドワイヤン博士のことも知っていたし、サラティア社がキール・デリの権利を放棄したいきさつも、ざっとではあったが書面を見て知っていた。両名ともあまり関わりあいになりたくなかったし、亜人種がうろうろしているこのセンターも、正直なところ早く引き上げたかった。
「視察団のかたがたは、どのくらいの時間までこちらにいらっしゃるのですか」
丁寧にたずねられ、ブレーニーは仕方なく答えた。
「昼過ぎにここを発つ。十二時半が予定だ」
では、とルドワイヤン博士が言った。
「キールさん、せっかくですから彼らにヴァイオリンを披露してあげたらいかがです。そうですね、十一時頃に講堂に集まっていただければ、皆さん都合がいいんじゃないでしょうか」
「ヴァイオリン?」
視察団の若者は驚いたようであった。無理もない。亜人種は楽器が扱えないというのが常識であるからだ。いかがです、とルドワイヤン博士はブレーニーに話を振った。ブレーニーも驚いた顔をしていた。
「それは本当か? 楽器が弾ける亜人種など聞いたことがない」
これも何度となく見た反応であり、キール・デリはうんざりしてしまった。と同時に、人間たちの亜人種に対する偏見の目がどこまで深いのか分かったような気もした。
「やってもらえるならぜひ聞いてみたいが……スケジュールの調整をしないと」
さっきまで視察自体乗り気でなかったブレーニーも、この提案にはかなり興味をそそられていた。書面上では彼の所業について「楽器を用いて音楽ホールを倒壊させた」しか書いてなかったのである。その楽器がヴァイオリンであることも知らなかったし、実際にそんなことをした亜人種が、退化処理もなく非常にまともそうであったことも気にかかっていたのだった。
ルドワイヤン博士はキール・デリのことを見た。キール・デリはぶすくれていた。
「またタダかよ。ここはいつもそうだからな」
くすくす、とルドワイヤン博士が笑った。視察団の二人はキール・デリとルドワイヤン博士、それにテーブルの下からちょこんと出てきたブラッキィの顔を眺め、ミーティングに参加するためにその場所から戻っていった。
今は十一時である。講堂には視察団の五人とキール・デリ、それにホーバーとルドワイヤン博士がやってきていた。もちろんブラッキィもいる。リンダがくるくると動いて開け放したドアから入ってきて、集まった者たちの前に飲み物を置いていった。
「これで全員ですか」
ルドワイヤン博士に言葉に視察団のリーダーがうなずく。キール・デリは壇上に上がって、すでに調整が終わっている楽器を構えた。ブラッキィはホーバーのとなりで椅子の座面に乗っかっている。
「リクエストがあれば応えるよ」
キール・デリは言ったが視察団の連中は誰も返事をしなかった。そういうのに慣れていないのだろう。もし路上で彼が演奏していたとしても、おそらく足も止めないに違いない。
「じゃ、適当に」
彼は大きく弓を引いた。誰でも知っているようなクラシック曲がその楽器から流れ出る。視察団の人間達は、その滑らかな手の動きとよどみないメロディーに驚嘆の声を上げた。それが終わると次は流行歌に変わった。路上だとよくリクエストがかかるが、実は意外と難易度が高くて油断すると彼でもミスしかねない、そんな曲である。もっとも一番実入りはいい。
そんな具合に彼は五、六曲弾き、三十分ほどで演奏会を切り上げた。終わったときには大きな拍手があった。視察団はぞろぞろと講堂を出て行き、彼らの面倒をみなくてはならないホーバーもその後を追った。後にはルドワイヤン博士とブラッキィが残ったが、ルドワイヤン博士もすぐにホーバーが呼びに来て講堂を出た。何か説明してくれと頼まれたようだった。
「つまんねえなあ、ブラッキィ」
キール・デリは楽器を持ってブラッキィのとなりの椅子に座った。なんともやるせない気分だった。やれと言われたからやったものの、視察団の一行には特に響くものはなかったようだった。珍しいものを見た、それだけである。
「あいつら、何を見に来たんだろうな」
きいきいとブラッキィが答えた。
「きっとかんりにんさんじゃないかんりにんさんのきばが、伸びるかどうか見にきたんだ」
キール・デリは思わず言ってしまった。
「そんなに気になるのか、ブラッキィ」
んん、とブラッキィは返事をする。
「ひっぱるとすごくながくのびて、じめんにつくくらいになるぞ。そうしたらぺんちで切って、ほーばーがひょうほんにしてふだをつけてたなにしまうんだ。そうにきまってる」
「ホーバーさんだったら絶対にそのくらいやりますね」
くすくす笑いとともに真後ろから声がしたので、キール・デリとブラッキィは飛び上がりそうになってしまった。ルドワイヤン博士が後ろに立って彼らのことを覗き込んでいた。
「視察団のライアンさんがキールさんと話をしたいそうです。できれば#11とも一緒がいいそうです。さっきカフェテリアで話しかけてきた、あの若い人ですよ」
「俺はしたくない」
くすくす笑いではなく、珍しく牙をむき出しにしてルドワイヤン博士は笑った。温和な印象が一転して獰猛な表情に変わった。しかしすぐ元通りになる。
「キールさん、あまり脅かしたらいけませんよ。彼らは自分たちが本当は何を作り出したのか知らないんです」
「分かってるよ」
伯爵というルドワイヤン博士のあだ名は見かけだけが理由ではない。そのすさまじい半生と二十代後半にしか見えない外見を思う時、キール・デリはいつも自分はこれでいいのかと自問したくなるのだ。
「楽器を持った化け物が日ごろ何をしているのか知りたいんだろ。それくらい答えてやるよ」
「あんまりいじめたら駄目ですよ」
くすくすと笑いながらルドワイヤン博士は講堂を出て行った。
キール・デリはまたあの特別資材保存室の長椅子に座っていた。正面に#11がいることも、カメラが動いていることも一緒だ。カメラは彼がジェナスに頼んで、こっそりと起動させておいてもらったものである。視察団のライアンという若者がこの部屋を訪ねてくるとのことだったからであった。もっとも相手はカメラが動いていることは知らない。キール・デリはこのライアン青年のことをまったく信用していなかったのである。
ドアがノックされた。どうぞ、とキール・デリが言うとスーツを着込んだライアンが入ってきた。ブラッキィは私物エリアにある自分の寝床にもぐりこんでいる。さっきルドワイヤン博士にペンチで伸びすぎた前歯を切られ、ショックでいじけているのであった。
「何が聞きたいんだよ」
面倒なのでキール・デリは相手の顔を見るなりそう言った。ライアンはとなりに座り、彼にこう聞いてきた。
「君は、このセンターでは何もしていないのか」
いけすかない言い方だった。どうにも腹が立ったが、それを抑えて彼は返事をした。
「特にないな。ホーバーも伯爵も言ってこないし。時々ジェナスが手伝ってくれって言ってくるけどな」
込み入った仕事になるとロッキーとリンダでは回らないこともある。そんな時は少し手伝ったりすることもあった。それでも彼の一日の大半は楽器を弾くことで費やされる。このセンターでは午後五時までは好きなだけ講堂を使えたから、彼は新しく手に入れた譜面のアレンジや、自分の技術を磨く時間としてここの滞在期間を使っていた。シャトーブリューンの楽団員会館のほうが設備は揃っているのだが、どうしても定期公演の前に行くためにそこまでの時間は取れないのである。
「じゃあ何をしているんだ」
「楽器を弾いてる。俺はヴァイオリン弾きだからな」
演奏を聴いた後だというのに、ライアンはどうにも理解できない表情であった。ほかには、と聞く。いいや、と彼は答えた。
「後はさっきも言ったとおり検査だ。検査して、時間があったら楽器を弾いて、ブラッキィや#11の世話をする。俺はずっとここにいるわけじゃないから、ここでの決まった仕事はないんだよ」
「ずっと、いない?」
ライアンはやっと少し話が飲み込めてきたようであった。キール・デリはうなずく。
「年に二回、シャトーブリューン・フィルの定期公演会に出る。ほかにも契約のある店や路上でも演奏する。だからほとんどこのセンターにはいないんだ」
「シャトーブリューン・フィル? まさかあの、シャトーブリューン・フィル・ハーモニーか?」
「そうだ」
ぽかんとした表情のライアンに、キール・デリはとてつもない苛立ちを覚えた。いらついたまま、彼は話を続ける。
「で、ほかには?」
ああ、とライアン青年は頭を振って、椅子から#11を見上げた。#11は起きており、不機嫌そうに椅子に座るキール・デリとライアンを見下ろしていた。
「それともう一つ。このバケモノと君は同じ種族なんだろう。人間じゃないっていうのはどういう気分なんだい」
キール・デリの苛立ちは頂点に達した。
「それ、伯爵にも聞いてみろよ」
キール・デリは長椅子から立ち上がり、#11のほうへと歩いていった。#11が怒り出したからである。彼はとんとんとアクリルの表面を叩き、#11をなだめにかかった。
「あんた、このセンターや亜人種の担当なんだろう。できるのかよ」
かなりぶしつけにキール・デリは言った。ライアン青年の物言いが失礼だったからである。相手はむっとしたようだった。キール・デリは虫の翅をぱたぱたやりだした#11をなだめるために、そのケージの扉を開けた。
「こいつは退化処理されてる。だけど言葉は分かるんだよ。だからあんたがバケモノと言ったのも分かってる。謝れ」
大丈夫だ、と彼は#11に向かって言った。その黒い虫の翅が動く肌をさわり、落ち着かせる。#11がうなり声を上げたのでライアンはびくっとした。いや、それだけではない。
「落ち着け。気にするな」
キール・デリは#11の肌を撫でながら、優しく言い聞かせる。その姿にライアンは違和感を覚えた。#11に話しかけている若者は、さっきまで話していた自分と同年代の人間とはまったく違って見える。やがて彼はその違和感の元が、彼らのコミュニケーションの仕方にあるのだと気がついた。
#11が動かす全身の黒い翅が放つシグナルを、キール・デリは読み取る。それは彼が#5であるからだ。#5のほうはそのシグナルを返すすべを持たないが、代わりに言葉を使っている。その言葉にはときおり、呼吸音そのものが混じる。本能的にやっているのだろう。それを感じ取り、#11はまた返事をする。しかしそれは人間の耳にはチリチリという音にしか聞こえない。だが、#5である若者はその信号に応え、また意思を疎通させる。細かな音が響き、混じりあい、感情と思考を伝えていく。
(……亜人種。ウォールナッツ・ブレイン)
外見は違っているが、彼らは同じものだ。どこかで通じ合い、互いを理解している。同族というのはそういうものなのであろう。しかしそれは人間であるライアン青年にとっては近寄りがたく、異質すぎる感覚であった。キール・デリが自分とまったく変わらないと思っていたからなおさらである。
「……済まない。悪かった」
彼は小声でそう言った。キール・デリはケージの扉を閉め、謝罪したライアン青年に向き直った。
「一度、嫌になるほど追い回されて、あげくに実験室に閉じ込められて生きたまま切り刻まれてみるといい。俺はそういう目にあいかけたし、伯爵は生まれてからずっと、ドクター・サイモンが死ぬまでそういう目にあってた。人間じゃないってのはそういうことだ」
そう言って彼はライアン青年を部屋から追い出した。ちょうど十二時きっかりであった。
後日、彼は街中でライアン青年に出会うことになる。とある小さな公園でヴァイオリンを片手に、ブラッキィとともに商売にいそしんでいた時のことであった。スーツ姿ではなく、同じような年の若者数人と一緒に、彼は公園のベンチに座っていた。屈託のない笑い声と切れ切れの会話が、キール・デリの耳に届いてくる。
「こいつの持ってる本、おかしいんだよ」
「うわ、おまえこういうの読むの」
話題の中心はライアン青年のようであった。返せ、と取られた本を取り戻すライアン青年を眺めながら、キール・デリは次の曲を演奏しだした。
「『人工種の変遷とその有様』って、なんだよこれ。仕事?」
ライアン青年がうなずいたのが遠目に見えた。
「やっぱり勉強しないとだめだからさ。理解できないとついていけないし」
そう言った彼に、仲間たちの一人が感心したように言う。
「なんかすげえな。俺はこの本、半分もわかんねえよ。亜人種だっけ、そういうのって難しいんだな」
「難しくはないよ」
ライアン青年は答える。
「でも、見ただけじゃ分からないんだ。俺たちとは違うからな」
ちらっとキール・デリはそっちを見た。ライアン青年も、公園内に音楽が流れていることに気がついたようだった。しばらくその場所からキール・デリのことを見ていたが、やがて立ち上がって彼を取り囲む人の輪に入った。
「流しじゃん」
「なんだよ、聞くのか」
ほかの若者たちも続いてやってくる。ライアンは最前列までやってきて、楽器を弾く彼のことを見ていた。音楽が途切れた時に、ライアンは言った。
「本当にヴァイオリン弾きだったんだな」
聴衆からリクエストが入る。キール・デリはその客にうなずき、黙ってリクエストに応えた。その曲が終わったのち、彼は足元のブラッキィを拾い上げ、楽器ケースを回収して休憩の意を示した。ぱらぱらと人が散り、残ったのはライアンとその友人たちだけになった。
「何の用だよ」
「いや」
ライアンの友人たちは遠巻きにして彼らを眺めていた。高級官僚へのエリートコースを進むような彼が、こんな路上のヴァイオリン弾きと知り合いなのを見て少し驚いたのであった。ライアンは戸惑いながらもこうキール・デリに言った。
「これが君の仕事なのか」
「そうだ」
抱えられたブラッキィが、とんとんとキール・デリの腕をたたく。彼はそこに置いてあったリュックにブラッキィを入れ、背中に背負った。
「シャトーブリューン・フィルはどうしたんだ」
話が長くなりそうなので、彼は今までいた広場の真ん中からベンチのある端へ寄った。空いているベンチに腰を下ろし、ブラッキィをリュックから出してとなりに放す。ライアンは友人達に声をかけ、自分はベンチの前に立ったままキール・デリと話を続けた。ライアンの友人達はその場に集まり、何か相談を始めた。
「夏と冬だけだ。臨時雇いなんだよ」
「臨時雇い?」
「そうだ。人間じゃないからな」
言いながらキール・デリはリュックから布袋を取り出して楽器ケースを開け、いくつかの小銭をポケットに入れて残りをそれに移した。それからまた別に端切れを出して持っていた楽器をきれいにくるみ、小銭とゴミを出したケースにきちんと収めた。
「ちゃんと入団試験を通ったのにパートタイマーだ。ま、仕方ないけどな」
彼はブラッキィに細いきゅうりを一本渡し、自分はポケットを探ってくしゃくしゃの札と小銭を取り出した。先ほどの友人たちの一人がやってきて、ライアンに声をかける。移動しようというのだった。
「先に行っててくれ」
ライアンはそう言い、その友人は待ち合わせ場所を告げて去っていった。キール・デリはベンチから彼を見上げる。
「行かないのか」
「いや」
なんとも複雑な表情で、ライアンはベンチに座るキール・デリを見ていた。
「サラティア社での報告書を読んだ。生い立ちの記録も全部見た」
「そうかよ」
で、とキール・デリは小銭をもてあそびながら先をうながした。
「あれは、本当なのか」
「全部本当だ」
なんということもなくキール・デリは答える。ライアンはその様子にひるんだようだった。
「今でも建物を破壊することができるのか」
キール・デリは小銭から顔を上げてライアンを見た。
「やってやれなくはない」
一瞬、おびえたような表情を浮かべたライアンを見上げながら彼は言った。
「けど、できないようにホーバーと伯爵に薬漬けにされてる。年に二回の検査はそのためだ。うかつにああいうことをすると俺、親父が封じ込んだ異種化RNAのストッパーが外れて死ぬんだよ。程度にもよるんだけどさ」
小銭をまたポケットにしまい、彼はきゅうりを食べてしまったブラッキィをリュックに戻した。そのリュックと楽器を持ってベンチから立ち上がる。
「特殊個体だというのはあのセンターで聞いた。そういうことなのか」
キール・デリはライアンの顔を見た。
「非合法な上に一点ものだ。伯爵と同じだよ。あの人の存在は合法だけど、もうフリークスという種族は作成できない。ウォールナッツ・ブレインは紛争地帯で使われる軍用品だ。そもそもは密輸品で、結局完成しなかったから音響用として使った。それが#11だ。俺はその基本データを生体保存するように親父が作った。全部書類でジェナスが出してるはずだけどな。見てないのかよ」
「あのセンターに行く前にざっと目を通した。どれもこれも本当とは思えなかった」
その答えにキール・デリはなるほどね、と言った。
「そんなんで大丈夫なのかよ。亜人種ってのは扱いきれないとやばいから退化処理をする。そこからはみ出ると俺や伯爵のように追われるんだ。化け物に頭がついてたらろくなことはしないに決まってるからな」
そのかなり直接的な物言いに、ライアンはたじろいだ。
「化け物って、自分のことだろう」
「そう言われたんだよ。実際そうだ」
苦い記憶がよみがえる。彼は荒事を専門とする人間からそんなことを言われたのだった。まだ何か言いたそうな相手を見て、キール・デリは言った。
「まだあるのか」
ライアンはためらったが、思い切って言った。
「不便だとか、自分を呪ったりとか、そういう気分にはならないのか」
キール・デリはベンチにいったん楽器を置き、ブラッキィ入りのリュックを背負った。
「もう終わったよ」
そして再び楽器を持った。
「いまさらどうにもならない。それに、もっと大変なやつらもいっぱいいる。俺だけじゃない。やつらに比べたらまだ俺はいいほうだ」
そして彼は少し笑った。
「あんたは人間でよかったな」
じゃあな、とキール・デリはそこから歩き出した。そのまま公園内のコーヒースタンドに寄って何か買う。ライアンはしばらくベンチの前でぼうっとしたままそれを見ていたが、ふと我に返って友人との約束を思い出し、その場所に向かった。これから多分飲み屋で騒いで、翌日は仕事だ。それから次の日は上司に提出する書類を作って、夕食は外での接待が予定されている。
それから、とライアンは考えながら歩いていたが、どうにも考えがまとまらなかった。さっきのキール・デリの言葉と、そのときの何かを諦めたような表情がちらついて、確実であったはずの自分の地盤がぐらつくのを感じていた。
「遅いぞ」
友人たちが居酒屋の入口で待っていた。悪かったな、と言いながらライアンは屈託のない友人たちに混じって店のドアをくぐった。飲めばこのもやもやした気分も晴れるかもしれない、そうも思ったのだった。