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キール・デリ 後日譚など  作者: 空谷あかり
5/8

フェヌグリークでのクリスマス休暇(前編)

オーケストラの定期演奏会に出演したあとのキール・デリはアパートで暇をもてあましていました。

そこへオラディア公と彼の友人達が「仲間内の集まりに楽士が必要になった」と押しかけてきます。

命の危険を感じつつ、キール・デリは彼らに連れられて出かけるのでした。

 定期演奏会も終わって、キール・デリはフェヌグリークにある自分のアパートでうだうだしていた。いつもなら楽器を持って街中や飲み屋を流してまわるのだが、この町は御法度である。いくら年に二度の演奏会にしか参加しないとはいえ、やはり由緒あるシャトーブリューン・フィル・ハーモニーの団員がそんな行動を取ってはならないのであった。それにこのオーケストラの演奏会ではいつもの収入をはるかに上回るギャラが支給されたから、彼はあせって仕事に出かけなくてもよかったのである。

 そうは言っても退屈ではあった。今は十二月のはじめで、年明け早々には定期検査のため、ファンタジアにあるサイモン財団遺伝子研究保存センターまで出かけなくてはならない。今から行って担当医のホーバーやルドワイヤン博士以下関係者に迷惑をかけてもいいのだが、それもさすがに気がとがめた。予算の都合上、彼の定期検査は年明けと時期が決まっているからである。政府直轄のこのセンターでは、毎年の予算額はかなり高額になる。そして予算の残額を使い切るために、センター代表のジェナスは彼の検査時期をこの期間に決定したのだった。

 キール・デリは寝転がって読んでいた雑誌から顔をあげ、横にいる黒うさぎのブラッキィをちらっと見た。こちらもひまであった。ひまさのあまりブラッキィは自分の寝床でぐっすりと眠っていた。道理で静かなわけだ。寒いこともあろう。それなりに暖房がついてはいるものの、ブラッキィはさほど寒さに強くない。冬場の移動は彼の定位置であるリュックサック内に、カイロを入れてやるほどだ。

 アパートで楽器は弾けないから練習もできなかった。いつも使っているシャトーブリューン・フィルの楽団員会館も今日は閉まっている。建物のメンテナンスのためであった。今日から数日間は閉まっており、彼は楽団員会館でひまをつぶすこともできないのだ。

 寝転がってあくびをしたら涙が出た。そんな時である。玄関のチャイムが鳴った。

「ふぁ?」

 あくびの途中でとなりのブラッキィを見る。けっこう大きな音だったのにびくともしなかった。キール・デリは立ち上がり、ちゃちな玄関の戸を開けた。どうせセールスマンか何かであろう。放っておいてもよかったのだが、とにかく退屈であった。

「こんにちは、キールさん」

 見たことのある小柄な少年がにこにこと笑いかけながら立っていた。ケンタである。彼は驚いて、開いたドアの前で立ちどまってしまった。と同時に、以前ケンタとした約束を反故にしたままだったのも思い出した。

「ケンタ? 何でここにいるんだ?」

 少年は笑顔のまま言った。

「ぼく人探しうまいんだよ。ルイさんがこの町にいるって言ったから、ここかなと思って」

 少年は笑顔のままである。おそるおそる、キール・デリは少年に聞いてみた。

「で、何の用だよ」

「献血のお願い」

 こぼれるような笑みであった。気が遠くなりかけたキール・デリに、少年は言葉を続けた。

「……と、ルイさんが用があるんだって」

 少年はダッフルコートの下に、学校の制服のようなグレーの上下を着ていた。あいつか、と思わずキール・デリは言ってしまったが、それを聞きつけて当の本人がケンタの後ろから出てきた。オラディア公である。

「あいつはねえだろうが」

 うへえ、とキール・デリは思ったが、それは言わずにすんだ。こちらはいかにも、と言った感じの真っ黒なロングコートである。ぴったりと襟を止めていて下に着ているものが何かは見えなかった。さらにその後ろから長身の剣士が出てくる。彼は黒いスーツ姿であった。

「なんだよ、みんなして。来るんだったら連絡ぐらいよこせ」

 キール・デリがウォールナッツ・ブレインという名前の亜人種ならば、ここにいる彼らは吸血鬼と呼ばれる半妖である。彼としてはあまり関わりあいになりたくないのだったが、押しかけてこられてしまっては別であった。

「ケンタ、半人はやめとけ」

 オラディア公の一言にキール・デリは救われたような気持ちになった。しかしケンタは粘る。

「だって約束したんだよ」

「半人の上に、そいつは薬臭くて無理だ。十種類くらい薬品をブレンドしたカプセルが体内に入ってるからな」

 えっ、とケンタがオラディア公の顔を見た。キール・デリも彼の顔を見てしまった。

「なんで知ってるんだよ」

 そう言いつつも、どこから情報が流れたのかは見当がついた。そしてその通りの答えがかえってきた。

「サーパスに聞いた」

「……やっぱり」

 サーパスとは、サーパス・リー・ルドワイヤン博士のことである。こんな重要な情報がオラディア公にだだ漏れなのは問題があるのではないかとキール・デリは思ったが、そのおかげでケンタはキール・デリから献血してもらうことを諦めたようであった。

「それじゃあ、やだな」

 がっかりしたような顔のケンタに、オラディア公は言った。

「夏にバッグをやっただろ。あれでいいじゃねえか」

「一個だけだったよ。あとはしまっちゃったじゃない。冷蔵庫にカギまでかけてさ」

 知っている話だったので、キール・デリは思わず口をはさんでしまった。

「一個だけ? あんなにあったのに? しかもあんた、あの冷蔵庫にカギをかけたのか?」

 ケンタが不思議そうな表情になる。

「キールさん、知ってるの?」

「俺とザイナスが設置と片付けをやったんだよ」

 ケンタと黒スーツの剣士は、独身者用アパートの狭い通路でオラディア公のことをまじまじと見てしまった。

「こいつらにやらせたってことは、俺たちにバッグを取られると思っただろう。お前の考えそうなことだよな」

「ルイさん、サイテー」

 うるせえ、とオラディア公は二人に向かってわめくと、キール・デリに向き直った。

「つまんねえこと言ってると叩き斬るぞ。それより半人、お前に用がある」

 そして彼のことを上から下まで眺め渡し、顔をしかめた。

「相変わらずひどい格好してんな」

「しょうがないだろう。ほかにねえんだ」

 彼が着ていたのは穴が開きかけたシャツとしみのついた綿パンであったが、自宅でごろついていればこんなものであろう。それにだいたい彼は着道楽ではない。服など着られればいいのである。

「半人、着替えてこい。急に楽士が必要になった」

「なんだって?」

 あまり浮かない顔でオラディア公は言った。

「仲間内の集まりなんだが他に適当な奴がいねえ。一日だけだがちゃんと金は出る」

 オラディア公は金額を言った。一日だけにしてはとんでもなく破格であった。

「仲間内って、まさか……」

 キール・デリはオラディア公とその友人達の顔を見た。そしてこの金額である。なんとも命がけになりそうな気配であった。

「……俺、嫌なんだけど。あの、金じゃなくてさ」

 おそるおそるキール・デリは言ってみた。しかしオラディア公は、底意地の悪い目でじろりと彼をにらんだのであった。

「着替えて楽器を持ってこい、半人」

 少し体の向きを変えたオラディア公のコート下からカチャ、と金属音がした。あの音である。彼が持って歩いている、豪奢な金張りの長剣が鳴った音であった。

「うだうだ言うんじゃねえ。すぐさま用意しろ」

 ひまは潰れるようであった。キール・デリは仕方なく数少ないまともな服に着替え、ブラッキィと楽器を持って彼らの後をついてアパートを出た。


 キール・デリがオラディア公に逆らえないのにはわけがある。キール・デリは自分の楽器について、オラディア公に幾許かの世話になっていた。彼が持っている楽器は名工、瑚老人の作になるものであり、闇ルートに流せば億単位の金額になる。なぜそんなものを持っているのかといえば、彼が楽器を壊した際にオラディア公が紹介状をくれたからであった。またそれとは別に、吸血鬼ということもあってかオラディア公の気性はかなり荒っぽく、彼は機嫌を損ねて殺されかけたこともあったのである。

 そんなこんなの積み重なりで、キール・デリはオラディア公には逆らえない立場にいるのだった。もっとも彼について歩いている黒うさぎのブラッキィは別である。

「かんりにんさんにきらきらをもらったぞ」

「そうかよ」

 ブラッキィはオラディア公のことをかんりにんさんと呼ぶ。なぜなら彼は荒れ果てた山城に住み着いているからだった。その城は小さなものだったが由緒正しく、それなりに観光地としてのネームバリューも期待できるような場所でもあった。もっとも地元の人間はその城にまつわる吸血鬼伝説と、急峻すぎる城への道に恐れをなして近寄りはしない。よってオラディア公はいつまでもその城にのうのうと巣食っていた。

「よかったじゃないか」

 キール・デリはブラッキィを抱えつつ、助手席で横を向きながら答えた。ブラッキィは首に白くて細いリボンを巻いている。そこに小さな光る石がついていた。おそらく本物であろう。一方のキール・デリには、そんないいものは何もなかった。運転をしている剣士がちらっと彼らを見る。ケンタとオラディア公は後部座席だ。

「どこへ行くんだよ」

 彼はとなりにいる黒スーツの剣士にたずねた。楽器とリュックはトランクの中だ。リュックもひどい有様だったので、オラディア公は彼に御用聞きのような小さなクラッチバッグを渡してきた。それには財布とファンタジアのセンターがよこした連絡用の携帯端末しか入らず、彼はそこに少々無理やりにブラッキィの葉つきニンジンを押し込んだ。

「セントラル・タワーの『ミミック』だ。今日は貸切になってる」

 ハンドルを切りながら剣士は答えた。キール・デリはしばらく考えて、やっとそれが地上六十階にある高級会員制バーの名前だったことを思い出した。もちろん彼は入ったことはない。オーケストラの理事長と主宰が会員であることは聞いていた。

「あそこを貸切だって?」

 剣士はうなずく。

「経営者が同族だ。それで時期になると使うんだ」

 話しているうちに一同を乗せた乗用車は高層ビルの地下駐車場に入った。車を停め、剣士が後部座席のドアを開ける。

「悪いな」

 そう言いながらオラディア公が、続いてケンタが降りてきた。剣士は次にトランクを開けて、キール・デリのヴァイオリンと真新しいペットキャリー、それに細長い黒塗りの鞘に入った刀を取り出した。ヴァイオリンは助手席から降りてきたキール・デリに、ペットキャリーはケンタに渡す。刀は自分が持った。

「ウサギはしまっとけ」

 オラディア公にそう言われて、ケンタはブラッキィをキール・デリから受け取ってキャリーに入れた。不満そうだったがブラッキィはおとなしくキャリーに入った。地下駐車場入口にあるエレベータを見つけ出し、ぞろぞろと乗り込む。すでに逃げ出したい気分のキール・デリに、オラディア公は紋章の入った小さなピンバッジをよこした。

「襟につけろ。それにプレートも服の下でいいから提げておけ」

「プレートもか?」

 オラディア公はうなずく。単に楽士として呼ばれただけではないようだった。この小さくて無骨なプレートには、彼が亜人種であるという証拠の作成ナンバーと、その異種化RNAの混入率が記載されている。そして彼は退化処理がなされていない分、状況に応じて亜人種としての能力をフルに活用することもできる。まったく人と変わらない姿を持ちながら、だ。ただしそれは場合によっては自分の命と引き換えの行為でもあり、その暴走を防ぐために彼が所属するサイモン財団遺伝子研究保存センターでは、年に二回の定期検査と異種化RNA抑制剤の入った医療カプセルの埋め込みを、彼の意思に関わりなく強制しているのであった。

 ケンタと長身の剣士が、ポケットから取り出したプレートを提げた彼を見る。それを見ながらキール・デリは言った。

「俺、いらないんじゃないか」

「いいや」

 オラディア公は答えた。

「半人、ザイナスが今どこにいるか知ってるか」

「ザイナス?」

 急に昔からの友人の名前を出されて、彼はとまどった。ザイナス・カミングは彼と同じヴァイオリン弾きだが、出自と育った環境は決して同じではない。彼は貧民街の出だが、ザイナスは旧家の御曹司である。それでもなんとなく気が合って、ザイナスが忙しくなる前は彼らはよく一緒につるんで歩いていたのだった。

「仕事じゃないのか。俺と違って忙しいからな」

「ザイナスと連絡が取れねえ。スミスさんともだ」

 最上階までの直通エレベータに乗り込みながら、オラディア公は言った。

「あの人まで捕まらないってことは、何かあったんだ」

 オラディア公に続いて、全員でエレベータに乗り込む。外で開ボタンを押していた剣士が最後に乗り込んだ。ドアを閉めて、パネルの前から動かずに最上階までのボタンを押す。

「何かって、何だよ」

 オラディア公はまたじろりとキール・デリをにらんだ。

「いいか。下らねえ誘いに乗るんじゃねえぞ。分かったな」

「わ、わかった」

 そうこうしているうちにエレベータは最上階に着いた。パネルの前から動かずにいた剣士がまたボタンを操作する。オラディア公を先頭に、ケンタ、キール・デリ、そして剣士が最後に降りた。くるぶしまで埋まるようなじゅうたんを踏みしめて、彼らはバーの名前が記された扉の前まで歩いていった。


 真ん中の贅沢なつくりのテーブルにいるのは、一行ではオラディア公とケンタ、それにキャリーから出されたブラッキィだけであった。キール・デリと剣士は壁際のパイプ椅子である。自分はともかくなぜ剣士がその席なのか、彼には分かりかねた。尋ねてはみたものの、剣士の答えはこうである。

「あんなところは面倒だ。呼ばれないならそれでいい」

 それでも飲み物だけは渡されたので、彼らはそれをすすりながら中央のテーブルを眺めていた。

 オラディア公のコート下は金刺繍のロングジャケットであった。その下は白のフリルシャツである。いったいいつの時代の服なのかと思ったが、そんな彼のまわりには同じような服装の者達がたくさんいるのだった。時代が止まっているのである。

「半人、来い」

 オラディア公が彼を呼んだ。楽器を持ってキール・デリは立ち上がる。数歩歩くうちに、彼は豪華ではあるが古くさい格好の連中に取り囲まれた。

「少し弾いて差し上げろ。ご婦人方が退屈している」

 聞いたことのない、そつのない話し方であった。オラディア公自身もけっこうな仮面をかぶってここにいるのである。必要があるから来たのであろう。そもそも短気な彼がかんしゃくも起こさず実のないお喋りに興じていること自体、キール・デリには驚きであった。

「何でもできる。好きな曲をリクエストするといい。悪いが少し失礼する」

 そう言うと、オラディア公はその場を離れた。ケンタがブラッキィを剣士のところに抱えて連れてくる。疲れてうとうとしだしたからだった。ブラッキィは出されたキャリーに駆け込むと寝てしまった。中を確認して剣士が扉を閉め、自分の足元に置く。ケンタがオラディア公の後を追う。

「人間……ではないような」

「また面白いものを連れておるな」

 吸血鬼たちの興味津々な視線にさらされながら、キール・デリは弓を取り上げた。リクエストがかかる。美しいレース細工のドレスを着た婦人からだった。

「かしこまりました」

 キール・デリは一礼をし、その曲を弾きだした。剣士がその様子を見ている。しばらくするとブラッキィが入ったキャリーを持って席を離れた。戻ってくるまでに彼は三曲リクエストをこなし、その合間に集まった人々の質問に答えていた。いわく、年だの、どこで楽器を習ったのかだの、なぜオラディア公についているのかなど、そんなことである。そのうちに椅子に座ってじっと曲を聴いていた男の一人がこんなことを言った。

「トラヴィスも楽士を手に入れたと聞いたが、最近のはやりなのか」

 この場にはふさわしくないような薄グレーの服を着て、女のように長い髪をした男であった。ああ、とそこにいた一人が答える。

「ずっと画家に凝っていたが、最近鞍替えしたらしいぞ。画家どもは描かなくなって駄目だと」

「永遠などやるからだ」

 彼らのよもやま話は続く。この長髪の男は、オラディア公と同じように久々にこの集まりに顔を出したようであった。

「貴君はどうなのかね、ラリィ・ゲート。相変わらず中央教会にいるとは聞くが」

「いるだけだ。異端諮問会もないから仕事もない」

 キール・デリは楽器を弾きながらその話を聞いていたが、そこへオラディア公が戻ってきた。その場にいた長髪の男を見て、明らかに彼は不機嫌になった。

「てめえもいたのか、生臭坊主」

 そこにいた者達がさあっと後ろにひく。オラディア公の不機嫌さはその後の修羅場を予想させるのに充分であった。壁際でずっと様子を見ていた剣士が立ち上がる。

「あの時は失礼をした」

 椅子に座ったまま、男はそう言った。詫びてはいるが、その実少しも悪いとは思っていない態度であった。

「いい楽士だ。平均律ではなく黄金律ならもっとよかった」

 ちっ、とオラディア公は言った。

「古くさいことを。教会のパイプオルガンじゃねえんだ」

 長髪の男の胸には、大きな真鍮のクロスが下がっていた。そのまま話を続ける。

「いい音楽だった。一人しかいないが、もう一人はどうした。夏に襲撃された時に楽士が二人いたと聞いた。片方はかなり年代ものの楽器を持っていたとも聞く」

 黒塗りの鞘に収められた刀を持って、剣士が近寄ってくる。オラディア公の後ろにぴったりとついて、影のように立った。

「耳が早いな。むかつくくれえだ」

「中央経由で依頼が入ったのでね」

 鯉口を切る音がした。にらみ合っている後ろからケンタがやってきたが、張り詰めた空気にその場でおろおろと立ちすくんでしまった。救いを求めるようにキール・デリを見るが、彼にもどうにもできないのであった。

「知っているかもしれないが」

 何事もないように長髪の男は言った。

「トラヴィスのところにも楽士がいるらしい。古い、天使の糸巻がついた楽器を持っているそうだ。それにふさわしい音を奏でるとも」

 話しながら男はオラディア公からキール・デリに視線を移す。剣士は刀を収め、自分の席に戻った。

「なぜてめえがそんなことを言う」

 長髪の男は答えた。

「その楽士はシャトーブリューンにいた者だろう。弾き方で分かった」

 彼は話を続ける。思わずキール・デリは話している男の顔を見た。

「また聴けるとは思わなかった。以前のように、ステージ上で対で聴けるならなおいい。そのオリエンタルといい、貴公はトラヴィスと違って実利主義者だ。ならしばらくは冬の楽しみが続くと思ってな」

 椅子に座ったまま、男はにやっと笑ってオラディア公の顔を見た。キール・デリはこの時、この男の服が僧服であることに気がついた。

「情報はありがたく受け取る。借りだ。だが、むかついてしょうがねえ。とっとと消えろ」

 かなり抑えてはいるが、オラディア公の腹立ちは消えないようであった。男は椅子から立ち上がる。

「そうしよう。久しぶりだったが来てよかった」

 そしてこう言った。

「単なる詫びだ。気にするな」

 男はそのまま歩いて人ごみを抜け、クロークに立ち寄って上着を受け取り出て行った。張り詰めた空気が緩む。周囲からの安堵の声がキール・デリには少々意外に思えた。オラディア公は彼に続けろと合図する。キール・デリはおとなしく指示に従った。そのまわりに煙が漂い出す。オラディア公自身は壁際の剣士と何か話していたが、やがてこちらにやってきた。

「戻るぞ、半人」

 そこに火のついた紙巻きタバコのようなものが差し出された。オラディア公は儀礼的に一服して、それを差し出した者に返した。タバコではないようだった。

「まだ残っていればいいのに」

「中座するなんて。これからですよ」

 どこかから聞こえた声に彼は答える。

「楽士ってのは楽器と同じくらい繊細だ。退屈しのぎに連れてきたがそろそろ戻らないと潰れちまう。すまないが失礼する」

 誰かが言った。

「潰してもかまわないだろう。たかが楽士だ」

 さっきリクエストをかけてきた婦人が、キール・デリににじりよってくる。

「私がやってもいいわ。亜人種って話だけれど悪くないもの」

 オラディア公は彼らの間に割って入った。楽器を持ったキール・デリに戻るように言う。

「早く戻れ。遅いと置いていく」

 人の間を抜けようとした彼を、誰かそこにいた者が引っ張った。足元がもつれ、転びかけたところを脇から出てきた手が支える。いや、捕らえたのだった。

「てっきりそのつもりで連れてきたのかと思ったが」

「面白そうだ。ここに置いていけ」

 戻ろうにも戻れない。そんな彼を見て、オラディア公は壁に置かれた飾り皿のほうを向き、仕方なさそうに言った。

「余興だ。半人、あれを射抜け。それで我慢してもらう」

 キール・デリはふらつきながらも立ち上がり、楽器を構えた。またセンターでこっぴどく怒られてしまうが、今の命のほうが大事であった。弦を指で弾き、反響を見る。そしてやおら弓を引いた。何も見えなかったが、残響音とともに壁の大皿が木っ端微塵になった。

「こいつがその気になれば貴兄らの頭も同じようになる。たかが、でもないんでな」

 ざわめきが静まり返った。オラディア公はぼうっと立っているキール・デリを引っ張り、連れの二人に声をかけてバーから退出した。


 キール・デリは助手席でぼんやりしていた。会場内に漂っていた薬の煙にやられてしまったのである。吸い込んでも平気な顔をしているオラディア公とは大違いであった。ブラッキィはもうすっかり眠ってしまっている。会場での様子を見て、剣士はブラッキィを地下に停めた車まで戻したのだった。邪魔だったこともある。ケンタが物珍しそうに、寝ている彼をキャリーバッグの外からのぞきこんでいた。

「人間なら死んでもおかしくない量だったからな。後でちゃんとセンターで検査してもらえよ」

 またホーバーに怒られる、そんなことをぼやーっとした頭で考えながら、キール・デリは窓の外を見ていた。薬で気持ち悪くなってしまったのである。さっきも手元が狂って、真っ二つにするはずが粉砕してしまった。微調整がきかないようであった。

「犬笛だけじゃなくてあんなことができるのか。驚いたな」

 運転をしながら剣士が言った。キール・デリは外を見ながら答える。

「死ぬからやるなって言われてるよ。本当は二つに割るつもりだったけど、調子が悪くて砕いちまった。あの、変な煙のせいだ」

「そのための煙だ。あいつら飽きまくってるからな。数百年ぶりに顔を出したが、何も変わってねえ」

 後ろからオラディア公が言った。剣士が話を続ける。

「あんな集まりに出るなんて珍しいとは思ったが。で、これからどこへ行くんだ」

 あっさりとオラディア公は言った。

「トラヴィスの屋敷だ。ザイナスを返してもらう。何か見つけるといつも披露しに来るんだが、今日は会場にいなかった」

「それでか」

「じゃなきゃ来ねえよ。奴の趣味から半人で釣れるかと思ったが、いないんじゃしょうがねえ。そんな訳だからもう少しつきあえ」

 吐き気は収まったが頭痛がしてきた。ぐったりとしながらキール・デリは言った。

「俺、死にたくないんだけど。具合悪いし」

 おかしそうに運転席の剣士が彼を見る。オラディア公は言った。

「ザイナスを見捨てる気か。あんだけ世話になっておいて、友達がいのないやつだな」

 しばらくしてキール・デリは言った。

「……行かないとは言ってない。それから追加料金よこせよ。どうせ弾くんだろ。最初の半額でいい」

 剣士が笑い出した。オラディア公は後ろで、ちゃっかりしてやがる、と言った。あきれたようであった。

 

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