秋の休日(後編)
外伝続き。
今回の主人公はキール・デリではなく実験体として育てられていたルドワイヤン博士です。
携帯ゲーム機を通じて外界にいる「マック」と知り合った子供の頃のルドワイヤン博士は、彼のすすめで文字を覚えゲーム内で文章をつづるようになります。
しかしそれはやってはならないことでした。
一応、おやつのようなものはあった。何が混ぜ込まれているのか分からない、甘味と風味をつけた流動食のようなものである。ドクター・サイモンが置いていったコップ一杯分の味気ないそれを一気に飲み込むと、サーパス少年はまた小さなゲーム画面に向かった。
今日はベッドの上にあぐらをかいて座り込んでいる。しかし左の内肘には点滴の管がついていた。別に気にするほどのこともない。いつものことだからだった。右の二の腕には注射を打った後に貼る、ま四角くて白い絆創膏がついている。よく見れば他にも真新しい注射痕がいくつもあった。もちろん左腕にもある。
ドクター・サイモンはここのところ毎日のように彼に注射をしていた。何か実験をしているのだろう。この頃にはサーパス少年も、ドクター・サイモンの言葉尻や室内に時々かかってくる電話のやりとりで、自分が何かの実験に使われていることはうすうす感づいていた。そしてそれをある程度、仕方ないと諦める心境にもなっていた。どこにも逃げ場がなかったからである。ただし、そのことに対する理不尽さは別であった。なぜ自分なのか。そんなことは何百回も何千回も自問したが、埒など明かないのであった。
「何してた」
ゲーム機から声がする。サーパス少年はウインドウを呼び出し、文字入力で答えた。ドクター・サイモンがいつ入ってくるか分からないからである。相手もそれに気づき、間もなく音声は消えて文字表示のみになった。
「気分がいいから起きてた。でもすぐドクター・サイモンが来るからあんまり話せない」
「そうか。じゃ今日はこのくらいにしとこう」
「うん。見つかるとまずいから」
「じゃあな。また都合のいい時に連絡くれよ」
「わかった」
オフラインの表示がされる。相手が通信網から離脱したのだ。
二ヶ月のうちに彼は文字を覚え、流暢に文章をつづるようになっていた。入力も速い。ドクター・サイモンは部屋に置いてある机の上に、いろんな本を置きっぱなしにしていた。彼が表立って興味を示さなかったからである。辞書もあったしその辺で配っている情報誌もあった。混沌と積まれた書籍とチラシの中から、彼は一つずつ必要な単語を覚えていった。
ただし、ドクター・サイモンは彼の状態を書き込んだノートだけは持って帰っていた。重要な情報が記入されていたし、紛失したら彼を使って行っている実験がまるきり無駄になるからであった。
ゲーム機の電源を切ったサーパス少年は、くっついている点滴ごと移動して机の上にあったフリーペーパーを持ち出し、ベッドに戻って見ていた。ちょうど一番上に乗っていたからである。中身は今はやりのレストラン、婦人服と靴のセレクトショップ、新しくできた遊園地、そんなものの広告ばかりが載ったパンフレットだった。すぐ戻すつもりだったが「グルメな一週間」というミニコラムの見出しの部分にひっかかり、彼は必死で一週間という言葉のつづりを覚えていた。
そこへ不意にドクター・サイモンが入ってきた。不意に、と思ったのは彼がパンフレットに集中していたからだろう。実際はいつも通りに廊下を歩く足音が聞こえ、ほんの少し間を置いてドアノブがまわされたのだった。
「何を見ている」
いきなり声をかけられ、彼はあせった。そのうろたえかたに、ドクター・サイモンも不審を抱いたようだった。
「えっ、あの……」
ドクター・サイモンの表情が険しくなる。穏やかな口調を装いつつ、厳しい追求をかけてきた。
「どこからそれは持ってきた。勝手なことはするなと言ったはずだ」
折檻はされない。その代わりにもっと厳しい刑罰が待っている。理論値ぎりぎりの投薬実験、所属する大学と学会幹部から請け負ってきた新薬の効能調査、反応を調べるためのアレルギー物質の投与などが主なものだ。ドクター・サイモンの機嫌を損ねてそれらが行われた場合、彼は二週間は再起不能となる。
「これ、動くの?」
とっさに彼はとなりのページにある、遊園地の上空を飛ぶ風船の写真を指差して言った。ドクター・サイモンの険しい表情がややゆるむ。彼はそれを見て取って、すぐ近くにあるゲーム機の電源を入れた。
「同じもの?」
風船が飛び去るオープニングが表示された。ドクター・サイモンはそれを横目で見て、ベッドに置かれている開いたパンフレットに視線を落とした。画面はすぐに変わってゲームセレクトのメニューとなる。用心深くサーパス少年は、ゲーム機に以前もらったカードチップを差し込んでいた。内蔵されたゲームではなくそちらが優先的に表示されるからである。
「同じだ」
ドクター・サイモンはそこに置かれたパンフレットを拾い上げた。
「飛ぶの?」
「ヘリウムや水素を入れれば飛ぶ。これはどこから持ってきた」
彼はいろんなものがごっちゃに積まれた机を指差した。ドクター・サイモンはその机を眺め、目でベッドまでの距離を測った。
「あそこまで歩けるのか」
「元気な時は行ける」
正直に彼は答えた。それからドクター・サイモンは机の整理にかかり、その日のうちに雑多で彼の役に立ちそうなものはすべて持ち去られてしまった。
数ヵ月後、サーパス少年のもとに訪問者があった。製薬会社の営業が間違えて彼のいる部屋に入ってきたのである。まだ若いその営業は元気よく「失礼します」とドアを開け、そしてベッドにいる彼を見つけた。
「あの、サイモン先生は?」
さほど大きくないダンボールを抱えたまま、その営業は彼に聞いた。
「いないよ」
その時彼はベッドに半身を起こし、違うゲーム機を操作しているところだった。地層になっている下のほうから、全然遊んでいないゲーム機が出てきたのである。すっかり中身を忘れてしまっていたので、彼は今日はこっちにしようと決めたのだった。
聞かれたので反射的に顔をあげ、相手を見る。同時に集中がそれてゲームオーバーとなった。もうゲームなどどうでもよかったので、彼はそこで驚いたように自分を凝視している、ネクタイ姿の若者を見た。
「あ、ああ……ここにこれを置いていっていいかな」
「わかんない。ドクター・サイモンに聞いてよ」
「そ、そう」
なぜ相手が自分のことをびっくりした顔で見ているのか分からなかった。誰もいないと思ったのかもしれない。それよりも彼自身も自分とドクター・サイモン以外の人間を見たのは初めてであったから、負けず劣らず相手のことを見つめていた。
「あのさ、君は、なに?」
最初の驚きが去ったらしく、その営業はダンボールを抱えたままベッド横まで近寄ってきてサーパス少年に聞いた。好奇心が抑えられなかったのだろう。
「何って、なに?」
質問の意味がよくつかめなかったので、彼はそう聞き返した。いや、と営業は首を振った。
「なんでもない。ちょっと……びっくりしたからね。ここは君だけ?」
「そうだよ」
かゆかったので彼は話しながら左袖をめくり、自分の腕を見た。またもや営業が息を呑む。内肘のけっこうな範囲が赤くただれ、じゅくじゅくと水が出てしまっていた。
「ひどいな。どうしたんだい」
何も思わずに彼は答えた。
「ドクター・サイモンがなんかしてた。たぶん、もらってきた薬を塗ったんだと思う」
「薬を塗った?」
「そう」
いつものことだった。彼には何の説明もなくドクター・サイモンは彼を何かの実験に使うのだ。彼は顔をしかめた。かゆみがひどくなってきたからである。
「これ、かゆいからやだ。今度はかゆくないのにしてって言おう」
そこへドクター・サイモンが入ってきた。ベッド横に立っている営業を見つけ、こちらへ、と手招きする。サーパス少年は湿疹ができてしまった自分の腕を見せ、すかさず言った。
「これ、かゆいよ。違うのがいい」
ドクター・サイモンは渋い顔になった。仕方なさそうに彼のそばに行き、その腕を調べる。
「あと二日我慢しなさい」
「やだよ。すごくかゆいんだもん」
「そんなに痒いのか」
うん、と彼はうなずく。あまりのかゆさに涙が浮かんでいた。それを見てドクター・サイモンは少し考え、こう言った。
「今日は二時間データを取る。それが終わったらかゆみ止めをやる。ただし、明日は一日データ取りだ。いいな」
「一日中? そんな……」
反論しようとした彼に、ドクター・サイモンはかなり強い口調で言った。
「分かったな。口答えは許さん」
一瞬サーパス少年はひるんだ。しかしかゆいのを通り越して痛いぐらいになってきたので、それでも言ってみた。
「でも、かゆいだけじゃなくて痛いよ。これは嫌だ。違うのがいい」
「駄目だ。なぜ我慢できない」
口調が高圧的になり、ドクター・サイモンの表情がこわばる。その場で手が出ないのが不思議なくらいだ。
「だって……」
ここまで言って彼は諦めた。不機嫌なドクター・サイモンの目が釣り上がり、こめかみが痙攣しだしたからである。こうなるともう無理だった。下手に何か言えば痒いぐらいではすまない。もっとひどい目にあう。そのことを彼は今までの経験で充分に学んでいた。
「……わかった」
彼は諦め切ってそう言うと、さっきまで手元にあったゲーム機をまたベッド上から拾い上げた。スタートボタンを押して続きを始める。かゆさで全然集中できなかったが、何もしないよりはましだった。呆然と立っている若い営業に、ドクター・サイモンは外に出るように言った。
「あ、いや……はい」
ダンボールを持ったまま、営業はちらっと彼を振り返ってドアの外に出た。営業の疑問に答えるドクター・サイモンの話し声が聞こえてくる。
「あの子は……あの顔は……」
「フリークスです。あの顔はちょっとした細工ですよ。逃げられると困るのでね」
ドクター・サイモンはきちんとドアを閉めたつもりのようだったが、ほんの少しだけ隙間が開いていた。ドア外で話す声はすべてサーパス少年の耳に届いた。
「退化処理をかけてないんですか」
「どうしても反応が鈍くなるのでね。人間と同じ反応が必要なのでそのままです」
次の言葉は少し間があった。
「あの……僕が口をはさむようなことではありませんが……残酷ではありませんか。それではまるっきり人間と同じなのでしょう」
「何が残酷です」
意外そうなドクター・サイモンの声が響く。
「人間でもないのに。あれの結果が出たら標本にするつもりですよ。まあ、最低でもあと二十年はかかると思いますが」
サーパス少年は思わずゲーム機を取り落とした。そもそもひどくかゆい上に、話し声が聞こえてきてからは画面など見てはいなかったが、ドクター・サイモンの最後の言葉は彼の平静を失わせるのに充分だった。
(標本)
ゲーム機など目もくれず、毛布をかぶってベッドにもぐりこむ。腕のかゆさなど今の気分に比べたらなんということもなかった。自分の人生はあと二十年で終わってしまう。いや、終わりにされてしまうのだ。
(どうしよう)
ひたすら毛布をかぶって震える。どこにも逃げ場はなかった。
話の切れ目を縫ってリンダがやって来た。ルドワイヤン博士が広げている机の上のものをきれいに片付けていく。さっきから使っている様子がなかったからであった。
「は、はくしゃくさまは、ふ、ふ、ふうせんを、みたことが、な、なかったんですか」
「ええ」
訥々とされる質問に、ルドワイヤン博士は答える。リンダはゴムシートまで持っていき、最後に古びたゲーム機を持ち去ろうとした。
「それは置いておいて下さい」
ルドワイヤン博士はリンダを止めた。キュルキュルとリンダは答え、ゲーム機を置いてその部屋から出ていった。
やたらとかゆい塗布薬の実験が終わってすぐ、サーパス少年は「マック」に連絡を取った。いても立ってもいられなかった。実験終了まで待ったのはドクター・サイモンがひっきりなしに部屋に出入りしていたためであり、実験が終わったあとは通例として数日間の休養が与えられたからである。つまりこの期間、彼は必要最小限の世話のほかは放置されているのだった。
「よう、久しぶりだな」
マックのIDはすぐつながった。まるで待っていたかのようだった。彼は通話がつながると即座に言った。文字入力などまだるっこしくてやっていられなかった。
「助けて。僕、殺されちゃうよ」
「へっ? ちょっと待てよ」
びっくりしたような声が戻ってくる。それはそうだろう。少し置いて、マックはこう言った。
「今は大丈夫なのか」
うん、とサーパス少年はうなずく。
「実験が終わったし、今日は夕方までいないはずなんだ。昼は代わりに助手ってひとがくることになってる」
この助手とはドクター・ミルズのことである。まだ入ったばかりでこの頃の仕事は簡単な雑用のみであった。
「実験? お前ってもしかして実験台にされてんのか?」
マックにその話はしたことがなかった。そう、と彼は返事をする。マイクの向こう側からは絶句したような空気が漂ってきた。
「よし。じゃ、分かるように話せよ」
気を取り直したらしく、毅然とした声が返ってきた。サーパス少年は廊下の足音に注意を払いつつ、ドアの外から聞こえてきた会話をもらさずに伝えた。
「あと二十年で標本だって」
言っているうちに涙がこぼれてきた。泣きじゃくりながら、彼は機械の向こうにいるはずの人間に訴えた。
「僕、人間じゃないって。だから……だから……」
そこにあった枕に突っ伏して、彼はわんわん泣き出した。その声を聞きつけてきて助手のミルズがドアを開けて入ってきたが、彼は助手がすぐそばにくるまでまったく気がつかなかった。
「いったいどうした」
通信は切れていた。なので彼はマックの存在を助手に気がつかれないですんだ。
「落ち着け」
しゃくりあげているうちに咳き込み、息苦しくなって彼は暴れだした。やむなく助手は彼に鎮静剤を打った。
そのあと、マックから短い通信が一回だけあった。彼は鎮静剤でもうろうとした頭で質問に答えた。
「お前さ、ケツ触られたりとかないか。用もないのに服を脱がされたりとか」
「なにそれ」
「そのドクター・サイモンとか助手とかにだよ」
何のことかと思いながら彼は答えた。
「ないよ。実験の時は脱いだりするけど。なんでお尻さわるのさ」
「……ま、そうだよな」
マックは沈黙し、それから彼にこう頼んだ。
「そのマシン、カメラついてるんだよ。知ってるか」
「知ってる」
「じゃ、お前さあ、自分の顔を撮ってこっちへ送ってくれよ。『送信』で声と同じように来るからさ」
「ふーん」
言われたとおりに彼は自分の顔を写真に撮り、相手に送った。サンキュー、の声のあとにはっとしたような気配が伝わってきた。
「これでいい?」
「いいぞ。調子悪いのに悪かったな」
「じゃあね」
だるさと眠気に負けて彼はゲーム機の電源を切り、そこへ置いた。そのあと助手のミルズが入ってきて、彼の枕元に置きっぱなしになっていたゲーム機をベッド脇のおもちゃ入れにしまった。サーパス少年は薬が効いてきて気絶したように眠り込んでいた。
マックから連絡があったのは一週間後のことだった。そしてそれが最後の通信となった。
「今、大丈夫か」
かなり慎重に相手は言った。うん、と彼は答える。
「誰もいない。ガッカイとかで出かけちゃった。その代わり鍵がかかってて、お昼とおやつは置いてある」
マックはあきれたようであった。
「相変わらずすげえな。まあいいや。いいか、よく聞け。お前、自分がなんだか知ってるか?」
よく分からない質問だった。なにそれ、と言ったのちに、彼は盗み聞きした記憶をかきまわして答えた。
「フリークス……って言ってたような気がする」
「正解だ。じゃ、続けるぞ」
「うん」
何を言われるのかと思いつつ、彼は耳をそばだてた。おそらくドクター・サイモンとミルズは夕方まで帰ってこないであろう。その点では安心していた。
「フリークスってのは人間によく似た人工種だ。サーパス、お前は人間じゃない。実験用に作り出された種族なんだ」
「……うん」
ここまでは実は見当がついていた。だから自分はこんな目にあっているのだ。
「ドクター・サイモンってのは、お前を使って大掛かりな実験をしている。何十年もかかるような、そんな実験だ。俺達はそこからお前を引っ張り出すためにいろいろ調べた。あんまりだったし法律違反だと思ったからな。でも無理だ。あのマッドな教授先生は抜けがない。鉄壁なんだ」
思わずサーパス少年は言った。
「どういうこと? 俺たちって?」
マックは話を続けた。
「たとえ実験体でも、届けが出ていない実験はすることができない。無許可でやれば法律違反だ。そしてたいていの学者はそこに引っかかってる。届出書は面倒だし、それなりの設備を整えなければできない実験もたくさんあるんだ。だからそれでお前を救い出せると思った。だが、甘かった。あの教授先生は最初から準備万端に整えて、実験を始めたんだ」
ドクター・サイモンの法網潜りを、マックとその仲間たちはひとつも見つけることができなかった。その代わりに「極秘実験」という情報を得て、彼らは権力を使ってその隠蔽を引っぺがし、サーパス少年の秘密を突き止めた。そして壁に突き当たった。
「最初、サボリかと思った」
マックは言った。
「一日中ゲーム機に張り付いてて、毎日学校をさぼって遊んでるんだとな。そういう子供ってのは犯罪に巻き込まれて殺されたりするんで、俺たちのチームがそういう奴らのいそうなところを巡回して補導するんだよ。でも違った。次に療養所にいるんだと思った。それでもなかった」
彼はじっと黙って話を聞いていた。身動きもできなかった。
「お前は八つにもなって文字も知らない、自分とそのまわりの人間しか見たことがないなんて言うんだからな。今度は養育放棄かと思った。子供の戸籍も取らないで家に置きっぱなし、そういう親が時々いるんだよ」
それでもなかった、とマックは言った。
「だんだん大事になってきたと思ったら、実験に使われてて殺されるなんて言い出した。それでやっと動けたんだ」
マックと彼の所属するチームは、ここ十年以内に実験用として申請が出た人工種のリストをしらみつぶしに調べた。その中に「サーパス」という名前があった。所有者名も「サイモン・リー」となっていた。
「年も性別も合ってる。ビンゴだ。だけどそうすると、ドクター・サイモンがお前に実験することを止めさせることは出来ないんだ」
「どうして?」
その次に言われた衝撃的な一言を、彼はいまだに忘れることはできない。
「持ち物なんだよ、ドクター・サイモンの。サーパス、お前は本当に実験動物なんだ」
その後、マックが何を話していたのか彼はあまり覚えていない。ただ、手を尽くしたらしいことは分かった。
「最後に子供相手の性犯罪のセンもないかと思って追ってみた。ああいう学者には意外と多いし、それなら相手が誰であろうとしょっ引ける。変態だからな。サイモン自身でなくても、助手だってお前をそこから出すことはできるんだ。けど、それもなかった。ないほうがいいに越したことはないんだが、残念だったよ」
話し疲れた様子でマックはため息をついた。
「サーパス、俺達でお前をそこから出すことはできない。だから、自分で逃げ出せ」
「自分で?」
ずっと無理だと思っていた。しかしそうしろとマックは言った。
「お前さ、頭いいんだよ。教えりゃすぐ覚えるし、文字だって二ヶ月で覚えた。数字も強いし要領もいい。もし人間として真っ当に育ってたら、そこらのガキどもじゃ全然かなわないはずだ」
「……無理だよ、そんなの」
「今とは言っていない」
彼はじっと聞き入った。
「逃げられるチャンスはたぶん一度きりだ。よく聞けよ。ドクター・サイモンはもうじいさんだから先は長くない。病気も持ってる。お前を標本にできるほど長生きしない。たぶんな」
「ほんと?」
一筋の光が差したように思った。それとも地獄の底に下がってきた一本の蜘蛛の糸だろうか。とにかくそんな気持ちで、サーパス少年はその言葉にすがりついた。
「そして死んだらお前の所有権をめぐって各企業や研究機関の間でゴタゴタが始まる。遺言なんかあったっておんなじだ。その間に逃げろ。所有権が空白で、持ち主が決まらないうちに。詳しくは言えないが、お前はそういう奴らにとって、争ってでも欲しいぐらいにものすごく貴重な存在なんだ」
絶対に捕まるな、とマックは言った。
「そのうち向こうから折れてくる。そうなったらお前の勝ちだ。好きに交渉したらいい。他のやつらと違ってお前にはちゃんと使える頭がついてる。それもえらい切れるやつだ。だからそれまでに賢くなっておけ。いいか、絶対に死ぬなよ」
「……分かった」
聞こえてくる音声にざわめきが入った。複数人がその場にいるようだった。
「上はお前から手を引けと言っている。無理だから構うなと。だからもう切る。このIDも使えなくなるから入力しても無駄だ。だけど、生き延びて逃げろ。賢くなれ。サイモンのやつを出し抜けるくらいになるんだ。分かったな、サーパス」
「うん……そうする。そうするよ」
通信が途切れた。彼はそのまま、ぼんやりとゲーム機を見つめて座っていた。やがて昼になったが食欲もわかず、ただベッドの上にその姿勢のままずっと座っていた。
サイモン財団遺伝子研究保存センターの会議室には、西日が差してきていた。ロッキーはルドワイヤン博士の顔を見ているだけだったが、やがて日が当たって暑くなってきた。
「皮肉なものです。結局、私を拾ったのはここのミルズでしたからね。もっとも子供の頃のように脅迫が効くと思っていたようでしたが」
ドクター・サイモンが取っていたノートはその死後、数十年分が丸ごと紛失していた。もちろんその被検体であるサーパス・リー・ルドワイヤンもとっくに逃走しており、各研究機関および企業は彼を探して血眼になっていた。やがて大企業であるサラティア社がついにその居場所を突き止めたが、そこは危険極まりないファンタジアの最深部であり、サラティア社とそのライバル社であったコンタニ・コーポレーション、それにファンタジアに住所があるこのサイモン財団遺伝子研究保存センター以外は彼をあきらめた。彼を追ううちにけっこうな数の死亡者が出たためでもある。そして助手であったミルズはルドワイヤン博士がそのノートを持ち出したと睨み、妥協の末に彼をこのセンターに受け入れたのであった。
ロッキーはさっきの疑問を思い出した。それだけはどうしても分からなかったからである。
「ま、まっく、ってひとは、ど、どうしたん、ですか」
ルドワイヤン博士はゲーム機に視線を落とし、言った。
「マックなんて人は、いなかったんですよ」
ええっ、とロッキーは言ってしまった。困惑したロッキーに、ルドワイヤン博士は優しく言った。
「警察官の偽名だったんです。少年課にそういう、ネットワークを巡回するチームがあるんですよ。後で知りました」
賢くなれ、と「マック」は言った。そしてその通りに彼は賢くなった。ドクター・サイモンどころかミルズも出し抜き、とうとうミルズは道具であったはずの彼にこのセンターから追い出された。つい数年前の話である。
「伯爵、ここにいたんですか」
彼を探していたらしいジェナスが会議室に入ってきた。ロッキーがいるのを見て意外な顔になる。
「あれ。ロッキー、庭は終わったの?」
「は、はい。ぼっちゃん。お、おわりました」
「ふーん。ならいいけど」
不老体という言葉を知ったのはいつだっただろう、とルドワイヤン博士は会話を聞きながら考えていた。物思いにふける彼に、ジェナスが話しかけてくる。
「あの、ホーバーさんが依頼された検査結果を見て欲しいって言ってましたけど。何か納得できない反応が出たみたいです」
その言葉に物思いを断ち切られ、そうですか、と彼はジェナスのほうを振り返った。
「分かりました。すぐ行きます」
まず泥だらけの白衣を着替えないと、などど思いながらルドワイヤン博士は、ガラクタ同様の古いゲーム機を持って会議室を出た。ジェナスがそれに気づいて言った。
「伯爵、それ何ですか。廃棄するなら僕が持っていきますけど」
ロッキーがあわてたように言う。
「あ、あ、あの、ぼっちゃん、そ、それは……」
「持って帰ります。ロッカーに置いておくので捨てないように」
その言葉にジェナスが驚く。
「あの……ゴミみたいにしか見えないんですけど。本当ですか」
「ええ」
そしてびっくりしているジェナスをほったらかして、すたすたと廊下を歩いていった。
十日ほどたった頃のことだ。サイモン財団遺伝子研究保存センターにどたばたと騒がしい来客があった。ある意味招かれざる、に分類してもいいかもしれない。オラディア公である。冬が近くなったので山城から降りてきて、ついでにここに寄ったのであった。真冬の山城はあちこちが凍り付いてしまって、さすがの彼でも扱いが面倒なのである。
「サーパス、いるか?」
なぜか後ろにはたくさんの風船を持ったロッキーがついてきていた。ルドワイヤン博士は呼ばれてセンターの庭に出て行き、何事かと思ってしまった。
「なんです、その風船は」
「近くまで来たから寄ったんだが」
オラディア公は後ろにいるロッキーを振り返る。大量の宙に浮く風船を持ったロッキーは、まるでサーカスの道化師のようであった。
「お前が頼んだんだろ? こいつ一人でお使いは無理だ。隣町の駅前でうろうろしてて、何やってんのかと思ったぞ」
「えっ?」
「何の実験するんだよ。たくさん必要なんだろ。けどよ、こいつセンターのカードぐらいしか持ってないしよ。ファンタジアならともかく他じゃ払えねえぞ、サーパス」
「……いや、頼んでませんが。ロッキー、この風船は何です」
「なんだって?」
あ、あの、と、ロッキーがどもりながら言う。
「は、はくしゃくさまは、ふ、ふ、ふうせんを見たことがないっていったから、そ、それで、か、かいに、い、行ったんです」
「そうなんですか?」
オラディア公はそれを聞いて呆れかえってしまったらしい。あのなあ、と何か言いかけて、ロッキーを見た。
「だからってそんなにいらねえだろう。金もろくに持ってねえのに、たくさんいるんだとか言いやがって。それ全部、俺が払ったんだからな」
「だ、だって」
ロッキーは釈明する。
「たくさん、たくさんほしいって、い、いつも、小さいぼっちゃんは、い、いうんです。だ、だからいっぱいがいいと、お、思って」
「こいつが小さいか、ロッキー」
答える声が少しいらだってきたのが分かった。
「え……だ、だって……」
「こういうのはそこらで買うと高えんだよ。俺がいくら払ったと思ってるんだ」
「で、でも……」
話を聞いているうちに、オラディア公はだんだん頭に血が上ってきたらしい。もともと短気なのである。とうとうロッキーの胸ぐらを掴まんばかりになってきたので、ルドワイヤン博士はあの、と間に割って入った。
「私が子供の頃、空に浮く風船を見たことがなかったと言ったんです。だからです」
「だからってよ、サーパス……」
そこまで言って、オラディア公の怒気が不意に消えた。ロッキーが震えながらごめんなさい、とつぶやく。ああ、そうなのか、と何か納得したようにオラディア公は言い、そしてうずくまったまま震えて泣き出しそうになっているロッキーを見た。
「悪い、ついカッとなった。何もしねえから立て」
その腕を取って立たせる。触られたとたんにロッキーがびくっと動いたが、その声と顔を確認してすぐ、す、すみません、とどもりながら立ち上がった。
「殴ったりなんかしねえよ。落ち着け」
悄然とした顔でロッキーがオラディア公を見る。まったくよう、と言いつつ、オラディア公はロッキーからルドワイヤン博士に視線を移した。
「お前って、ジジイが死ぬまで外に出たことがなかったんだったな。風船どころか何もなかったって」
そしてロッキーが持ってきたたくさんの風船を見た。その風船は騒ぎの間、庭にあるプラスチック製の椅子にくくりつけられていた。
「公、許してやってもらえますか。お金は払いますから」
「……まあいいや。ロッキー、それ、サーパスに渡してやれよ」
は、はい、とロッキーは椅子からひもを解き、たくさんの風船を持ってきた。それをルドワイヤン博士に手渡そうとする。ところが受け渡しを失敗して、風船はみんな宙に浮いてしまった。
「あっ」
色とりどりの風船が、明るい秋の空に飛び去っていく。白い雲を背に、青い空に夢のように飛んでいってしまった。本当に一瞬の出来事であった。
「何やってんだよ、ロッキー」
「ど、ど、どうしよう」
「どうしようじゃねえよ。サーパスに謝れ。俺のサイフにもだ」
ルドワイヤン博士はただ、その風船が飛び去る様子を見つめていた。何も見えなくなってしまってから、彼は後ろにいるロッキーとオラディア公を振り向いた。
「風船って、ああやって飛ぶんですね」
意外な言葉に、二人はもめるのも忘れてルドワイヤン博士を見た。その手にはたった一つだけ、赤い風船が残っていた。
「初めて見ました。ロッキー、それに公もありがとうございます。ずっと、本当の風船が飛ぶところを見てみたいと思っていたんです」
手に残っている、ひとつだけの赤い風船を見る。その顔に微笑が浮かんだ。
「……いいなら、いいけどよ」
オラディア公が言うと、ルドワイヤン博士は笑顔で答えた。
「ええ、これで充分です。行きましょう、公。それにロッキーも」
そして先頭に立って歩き出した。ガラス戸から屋内に入る。日の差す通路で彼らはホーバーとすれ違った。
「伯爵、その風船はなんですか」
けげんな顔のホーバーに、ルドワイヤン博士は笑顔で答える。
「ロッキーがくれたんです」
大事そうにルドワイヤン博士は風船を持って、ロッキーとオラディア公を連れ、閉鎖的な白いコンクリート造りの建物内を歩いていった。