風
今宵、風立たず。
葉擦れの音とてなく、静けさは紺碧の銀河がとっぷりと地に沈み込んだよう。混じりけ一つとてない波の音だけを聴く心地して、島はある種の緊張感に包まれていた。
戌の刻限を前にして、袴の腰紐をいつも以上に氣を込めて丁寧に締め了えたその青年は、もうすぐわたしの元へとやって来る。
禊、ということ。
夕の刻四時半に島に到着。前任者と交替の儀礼を交わし、のち七日間、青年はたった一人でこの孤島の社に詰める。
荒磯の海の道を渡って七日に一人、前方に浮かぶ平らな白く霞む大島から、若い男が静かに波浪を渡ってやって来る。
最初にわたしのもとへ人が神酒を届けるようになったのは、前の島嶼に、後の世に天満宮として祀られる公卿が西方より赴任して来る、さらに先のこと。
それから今日にいたるまで、正確に七日に一人、二十代から三十代の男たちが海を渡ってこの小さき島へとやって来る。
七十日で十人。ゆえにわたしはおよそ二か月に一度、同じ氣を発する若者と繰り返し対面することとなる。
申の刻すぎ、彼ら若き神職がこの島に着いてまず行うこと。それは、肩までしばらく静かに海水に身を浸すこと。
七日間、わたしに対面するための、それは彼らの特別な儀式である。
前任者が用意しておいた薄い夕食を済ませ、白衣を帯びて今この若者はわたしの元へとやって来た。
前方に横たわる大島が先の戦乱に敗れてからしばらくして、わたしの正面に小さな社が建立され、徐々に今日の祭祀の姿へと式が整えられた。
青年はわたしの前に立ち、柏手を三つ打った。石灯篭に明りを灯し、白い器に雪を盛るように酌まれた神酒をわたしの前へと置いた。型通りである。
青年が腰を上げると、風のない今宵、蠟の炎が真っすぐに起ち上がった。
眼前の青年は、ここから彼独自の行動を起こす。ほかの九人の神職にはない行動である。
じっと瞑目、合掌。
まず、自分の氣をわたしの方にだけ向けようと懸命に努める。
氣持ちが調ったと判断すると、すっとわたしのもとへ歩を進めて、そっと優しく両の掌でわたしに触れる。
さらに、瞑目。
青年の語り掛けを、わたしはこのように聞く。
(お元氣ですか。有難うございます。どうぞいつまでも、いつまでもお元氣でいてくださいませ)
元の位置に戻り、合掌。
一礼して、青年は社殿へと帰って行った。
来たればこのようにわたしに直接語り掛けてくるのは、この青年だけである。
いや、実はわたしは、折りにふれて風に乗って前の大島に住むこの青年から、このような優しき語り掛けをこれまでも幾度となく受けてきた。
神職は、明け四時半に起床する。
禊斎場で水をかぶり、のちおよそ一時間半を掛けてわたしへの朝の供えの用意をする。調理は、忌火と呼ばれる木と木を摩擦して火を起すことから始まる。
朝、七時。わたしのもとへと食事が運ばれる。季節の野菜と海の幸である。二時間の時間を掛けて用意される夕方四時の奉仕には、さらにここに果物と清酒が添えられる。
わたしへの食事の作法の祭式。交替でこの島に詰める彼ら神職の主たる任務である。事はここにおいても、青年の取る奉仕は一人違ったものである。
わたしへの食事の供えを調えるとき、彼だけは必ず包丁を入れる際、火に掛ける際、そっと掌を合わせ、わたしの方へと優しい氣を送って来る。
その上で、一つ一つ丁寧に調理を進めていく。だから、いつも彼の作る奉仕からは、彼のやわらかな心の薫りが立ち昇っている。
その薫りにわたしは、さかのぼること二千六百年、いまだこの体に節立たぬ若き頃、あの若者の声に聴いた薫風の調べを想い出すのだ。
その風は、東方より吹き来たった。
菩提樹の若葉の瑞瑞しい香りを伴う、なんともいえぬ心地良い風であった。
その風に乗って、かの青年の聲をわたしは聴いた。
吹きゆく風の流れを妨げない、吹き来たる風の粒子と一つと成った、渡る風そのものが歓びに輝き出す、いさんでわたしのもとへと吹き来たったような、それはそんな心地良き調べであった。
それから、四十五年の間、風に乗って東からやって来るかの青年の語る聲に、わたしはじっと耳を傾け続けた。
わたしのもとにやって来る世界中からの氣の流れの中でもそれは、もっともやさしく、もっともやわらかな心洗われるストリームであった。
のち二千六百年の時空を越えて、幾世代の人の流れを越えて、わたしはあの青年と同じ氣の調べを幾度か感じることがあった。たいていそれは、あの青年の聲に真摯に耳従った心たちから発せられた氣だった。
今、わたしはふたたび、眼前の社殿にあってせっせと努めに励むこの青年からも同じ氣の流れを感じている。
いまだか弱く、時折消え入りそうではある。しかし、まぎれもなく二千六百年の昔、遥か東方のあの青年から感じた氣の調べに近しいものだ。
人というものは素直に真実に自分の心と向き合えば、ゆく道は同じ在所に通じているらしい。
わたしがおよそ四千年の間この地にあって、これは来たる風すぎ行く風にじっと人の心の氣の流れを感じ来たからこそ、想うことである。
潮満ちる夕の刻四時となった。
青年は今、わたしの眼前にこの度の七度目となる夕べの奉仕を持ってきた。
有難く頂いたよこの度も、あなたの心から立ち昇った清々しい氣の薫りを。
あなたは間もなく、また前の島へと帰ってゆく。
あなたと再び対面するのは、七十日のちのこととなる。だが、あなたはかの地に在っても、いつも忘れることなく安らかな心遣いをわたしに送ってくれる。
だから今、わたしもあなたにこうして感謝の氣を捧げたい。
一陣の涼風が、青年の白衣を撫でた。
風とは、けっしておのずから吹くものではないのだ。
こうして吹きやるのだ!
このように自らの葉に乗せて、ほら、わたしがこの青年の心根に応ずるように、吹きやるのだよ、ほら、心を込めて。