第26話 探し物は夢に漂って
雨が物凄い勢いで降っている。
そこに芸術性は一切なく、ただ全てを薙ぎ倒す嵐のような暴力的な天気だった。
心は全く洗い流されない。
この世界というキャンパスも失敗して乱雑に破り捨てられるぐらいの激しい雨。
嵐の精霊が怒り狂っているのかしら。
でも別に私は嫌いじゃない。
大抵はこんな陰鬱な日の夜には人は静かに床に就くだろう。
しかし彼は夜の帳が落ちようともそこを動こうとしない。
静寂が世界を包み込む。
彼はこの豪雨の中傘も差さないでただただ佇んでいた。
彼の目の前にあるのは装飾の少ない武骨な墓。
それもちゃんとしたものではなく街にありふれた素材で出来た誰かお手製の墓。
なおそこには名前は刻まれていないし、その下には遺骨もない。
とても可哀想ね。
埋葬された人も墓を作った人も。
墓を作ったのはせめてもの自己満足なのだろうけど、それは逆効果。
ただ自分の心を締め付けるだけ。
何もプラスを生み出さない。
生み出すのは後悔の念だけ。
そんな幽霊のような、怨霊のような、呪われたナニカ。
雨が彼の頬を濡らして行く。
心做しか雨が強くなっている気がする。
雨があまりにも激しすぎて、夜そのものが落ちてきそうなほどだ。
まるで彼の姿に世界が泣いているみたいに。
いいえ、きっと泣いているんだわ。
だって悲しいことだもの。
彼の世界《心》が涙で水没してしまうほどに悲しいことだもの。
かつての夢はまるで摩天楼の群れで、理想郷の権化で、楽園の顕現で、とてつもなく愛おしい大きなひとつの心像結晶《夢》だったのに。
いつの間にか摩天楼の群れは小さな街の風景に成り下がって、理想郷は挫折と絶望の制限社会に変わってしまい、楽園は邪悪なヘビと邪な誘惑で追放され、心像結晶《心》は粉々に砕け散ってしまった。
そしてその残骸は墓標のように大地に突立って悲壮感を増幅させる。
そしてその夢の残滓は涙の海の中に埋没してしまって希望の光も、ネオンの灯も、水面の底に沈んで行った。
残ったのは美化した嘘で、それを拠り所として、彼は今を生きている。
いいえ――あの状態で生きているのが不思議と言った方がいいかもね。
《《あっち側では何とか魔法で命を繋いでいるような状態》》。
もう限界が近いだろう。
彼は彼らしくなくなってしまった。
心が擦り切れてしまった。
簡単に挫折するようになってしまった。
挫折することを覚えて、妥協することが癖になって、楽な方へ、楽な方へと逃げる人になってしまった。
確かに逃げることは必ずしも悪いことだとは思わない。
しかし何もせずに彼は逃げれることからは逃げる様になってしまった。
未来に怯えて選びとることすら他人任せにして…。
言い換えれば成長して、大人になってしまった。
そんな彼を見たくないと思ってしまう自分がいた。
彼は元々大人びた人だったが、心の奥底は誰よりも純粋で無垢な少年だった。
それが《《悪魔》》の手によって改竄され、堕落し、妥協を覚えてしまった。
逃げることを第一に考えるようにしてしまった。
だからこそ私は、彼に向き合って欲しい。
この、現実とは全く違う魔法が使えない世界で。
チャンスはここしかない。
ここでは、人の力で奇跡は起こせない。
だからこそ、奇跡を起こせる自分が彼を救うのだ。
どんなことにも諦めないで喰らいつく勇敢な少年――塚原遊を。
私はこうしてあるべき過去を見せることしか出来ないけれど。
勘違いをさせても、止められないけど。
彼を混乱させて、傷つけてしまうけれど。
それほど愛おしいし、傷つきながらも前に進むのが彼らしいと思う。
私の信じた遊ならきっと《《こんな悪意の吹き溜まりの世界から抜け出してくれる》》と信じて。
そう願いながらお墓にリンドウとアヤメを一束ずつお供えする。
正直に言えないあたり、私は悪魔なんだろうな。
なんだこれは。
目の前にいるのは、誰だ。
そうか、これは俺だ。
いつの頃か分からないが幼い頃の俺。
なぜ墓の前でずっと《《泣いているんだ》》。
それは一体誰の墓なんだ。
なぁ教えてくれ、俺!
お願いだからその憎たらしい言葉で、表現で語ってくれ。
それは絶対に違うって。
《《さっきの出来事とは全くもって無関係だとその口から否定してくれ》》。
だって千佳が…千佳が死んでたなんて信じられない。
ありえない。
じゃあさっきまでの千佳は一体どこの誰でなんで千佳を騙っていたんだ。
『おいおいよく考えろよ。俺から教えちゃ意味ないから言わないが。お前はあの時何してたんだよ』
――お願いだお願いだお願いだお願いだお願いだお願いだお願いだお願いだお願いだお願いだお願いだお願いだお願いだお願いだお願いだお願いだお願いだお願いだお願いだお願いだお願いだお願いだお願いだお願いだお願いだお願いだお願いだお願いだお願いだお願いだお願いだお願いだお願いだお願いだお願いだお願いだお願いだお願いだお願いだお願いだお願いだお願いだお願いだお願いだお願いだ――。
『はぁ。今度は正気を失うのか?そうやって知らないふりをして何も考えずに過ごすのか』
――頼む頼む頼む頼む頼む頼む頼む頼む頼む頼む頼む頼む頼む頼む頼む頼む頼む頼む頼む頼む頼む頼む頼む頼む頼む頼む頼む頼む頼む頼む頼む頼む頼む頼む頼む頼む頼む頼む頼む頼む頼む頼む頼む頼む頼む頼む頼む頼む頼む頼む――。
『誰に願掛けするんだよ。神様か?仏様か?お釈迦様か?』
嘘って言え嘘って言え嘘って言え嘘って言え嘘って言え嘘って言え嘘って言え嘘って言え嘘って言え嘘って言え嘘って言え嘘って言え嘘って言え嘘って言ってくれ嘘だと言ってくれ嘘だと言ってくれ嘘だと言ってくれ嘘だと言ってくれ嘘だと言ってくれ嘘だと言ってくれ嘘だと言ってくれ嘘だと言ってくれ嘘だと言ってくれ嘘だと言ってくれ嘘だと言ってくれ嘘だと言ってくれ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ!!!
『嘘じゃねぇ。嘘だって、ありえないって糾弾されるべきは今のお前の行動だよ』
黙れうるさい煩わしい口を閉じろ二度と喋るな目の前から消えろ姿を見せるな!!
『見損なったよ俺。これじゃまるでガキだ。背負いたくない重荷を目の前に駄々をこねるガキ。自分の都合のいいことしか起こらない世界にいる住人』
黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れぇ!!いっその事死んじまえ!死んじまえ死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね!!死ね!!
『八つ当たりか?恨む相手が違うだろ。…せめて、いい加減《《その砂糖漬けした甘ったるい夢から醒めてくれ》》』
こっちの苦しみも知らないで自分勝手なことばっか言いやがって俺の苦しみの少しでも味わえクソ野郎が!
『…。確かにお前《俺》からしたら俺《お前》は自分勝手なこと言ってるか。そりゃそうだな状況を理解しようとしないんだから。だからこそお前が俺を恨むのは筋違いだが、俺はお前を憎むに値する正当な理由がある。
見えている全てが真実だとは限らない。疑うことを覚えろガキ。悪魔が語って聞かせた内容を鵜呑みにすんな。信じられるのはいつだって自分自身だろ』
本当にうるさい何を言ってるのかちっとも分からない意味不明理解不能解析不可わからないわからないわからないわからないわからないわからないもういい何も知らない俺は死ねばいいみんな死ねばいい。
『お前も大概言ってることが支離滅裂だ。…そうやって蹲ってて楽しいか?さぞ楽しいだろうな。おねんねは。自分の都合のいい夢だけ見れて、辛いことははいさよなら。…そう、だからこそ俺がいる』
……。
『精神がガキのくせにいっちょまえに体つきだけはでかくなりやがって。もしも〜し聞こえてますか〜。今なぁ凛華がやって来たところだな。ビニール傘差し出して元気だして的なこと言ってくれてんな』
……。
『ここじゃあ声が聞こえないし、移動すっか。あっ、ちなみに拒否権はなしな』
……。
『うーん体格が逆ならなぁ…。引き摺ることもなかったんだけど。まぁいいや自分自身の事だし』
……。
「ねぇ、遊君。大丈夫?辛かったらいつでも頼ってね?」
「あぁ」
「それと傘ほんとに要らないの?」
「あぁ」
「お母さん心配してるよ?帰ろう?」
「…なぁ凛、俺どうすれば良かったのかな。去って行くのを見送ることしか出来なかった。涙は溢れ出てきたのに、引き止める言葉は一言も唇から発せられなかったんだ」
「仕方ないよ…。何も出来なかったのも当然だよ。だからせめて約束はきっちり守ろうね?」
……。
『ほら、約束は守ろうねってさ。もう既に放棄しかけてるよな。律儀に守ってきたのに。アホだなぁ』
……。
『もう立ち上がれないのか?情けねぇな…。でも俺は諦めないからな…。絶対にお前に現実を見せる』
……ッ!掴んでいた服ごと頭を落として行きやがって…ッ!口の中に雨水と泥が混じったナニカが入ってきて不味い。
それがそこでの最後の記憶。
夢と現実の線引きが、とても曖昧になってきているのを感じた。