第17話 前を向くための仮面
ガヤガヤと談笑しながら生徒たちが教室から出ていく。
授業も終わり、帰宅やら課外の準備を終えた生徒が教室から出ていき、疎らな教室に残された生徒も帰宅の準備を始める。
夕暮れ時にはまだ程遠いが、かと言って特に学校に残るような用事もなく、課外があるわけではないので遊も早めに帰ることにする。
というか叶依にお願いをした課題を一緒に解く約束をしていたので、その約束を果たさねばならない。
勿論、例の場所で。
そうなると、残りの二人もなんやかんやでくっついて来て遊の財布を空っぽにする——かのように思われたが
「あぁ?課題…?すまん、今日は放課後生徒会の打ち合わせなんだわ。手伝ってやりたいのは山々なんだが…三人で楽しんできてくれ」
「勉強会…?今日はパスで…。——行きたいけど…どうでもいいから二人仲良く行ってくれば!?」
一人は申し訳なさそうに、もう一人は途中から逆ギレをして断って来た。
何故逆ギレをしているのか遊にはわからなかったが藪蛇どころか藪から竜な気がしたので何も言わなかった。
遊は無神論者であり神は信じていないのだが、触らぬ神に祟りなしというのは本当のことだと信じている。
故にスルーだ。
その時に一緒にいたクラスの女子からは睨まれてしまったが危険だと本能が騒ぐのだから仕方がないと遊は自分を納得させた。
遊の友好度は自身の危険回避の致し方ない犠牲になったのだ。
それに彼女に突っ込んでいっても不愉快にさせるだけだろう。
正しい選択をしたはずなのに、どこか後ろ髪を引かれる様な変な気持ちになりながらも重たい鞄を背負って、愛用の自転車を置きに駅に近い駐輪場へ向かう。
正確には向かおうとしたのだが、預かって貰うという選択肢が出てきたので、目的地へ直行する。
学校の外は午後の穏やかな風に包まれて、遊と叶依の足は急な下り坂をバスが降りていく音を聞きながら暖かな午後の眠気に運ばれていく。
遊の鼻孔を擽るのは、甘い香り。
ドキリとした遊の弱心臓のことなど知らないとばかりに、左隣から甘い香り。
まるで花園に湧いて出る虫の如く、遊はその匂いを意識せざるを得なかった。
顔が灼熱を帯びる。
何故こうも叶依はガードが甘いのか。
そこで遊ははたと気づいた。
曰く、自分は汗臭くないだろうかと。
彼女からじりじりと距離を取る。
しかし、遊の心胆を寒からしめている元凶ははてと首を傾げて言い放つ。
「どうしたんですか?そんな距離をとって」
「いや、何でもない」
「そうですか?てっきり遊くんは私のこと嫌いなのかなーって」
「それはない…よしんば俺が叶依のことが嫌いだとして、嫌いな相手と二人でどっかいくと思うか?」
「そうですね…ごめんなさい、少し不安になってしまって」
「そうだ、カフェに行く前にコンビニ寄ってもいいか?」
「いいですけど、何買うんですか?シャー芯?」
「いや、暑いし制汗剤とか…汗拭きシートとか買おうと思って」
「なるほど、もしかして気にしているんですか?」
彼女は遊のセリフで遊がなぜ急に挙動不審になったか悟ったようだ。
舌の根も乾かぬうちに叶依が遊に近づいて来て、すんすんと形の良い鼻を鳴らしてニオイを嗅いできた。
「ウオッ!ちょ、な、なに嗅いでんだ!」
「んー、別に汗臭くないですよ?」
「おいッ!…恥かしいから離れてくれ…」
「恥ずかしがってて可愛いですね、千佳ちゃんに見せてあげたいくらいに」
こういうところが彼女が謹厳実直そうな雰囲気を良い意味で取り払っているのだろう。
本当に彼女のこういうところが羨ましい。
誰からも尊敬される彼女に嫉妬すら覚える。
遊は、他人との距離感が掴みづらいからいつも奥手になってしまう。
それとは正反対な彼女は彼の憧れだ。
そうして何より彼が腹立たしく思うのは、そんな自分の醜い劣等感だった。
自覚するたびに《《それ》》は存在感を増して。
理性と意識の奥底から妬ましいと呪詛を放つその矮躯が起立する。
化け物みたいなコンプレックスが遊の喉から貌を覗かせる。
「叶依のそういうところ、正直羨ましいよ」
形を変えて、姿を変えて産まれ落ちたその怪物は紛れも無く醜い感情で。
皮肉にしか聞こえないだろう状況で。
化け物を飼い慣らすこともできない理性が警鐘を鳴らす。
「——私も、遊くんの素の性格が羨ましいですよ…。私の今の外面なんて、前を向くための仮面ですから」
呟くように溢したその言葉は、こちらに対する真っ直ぐな依存とナニカ途轍もない虚無感を孕んでいた。
遊は聞き返そうとしたその刹那に。
碧瑠璃の風が螺鈿の軌跡を描きながら翔んで来た。
春先に飛んでいるような美しい蝶々が、何十匹と空に舞っていた。
蝶は死して還る魂の象徴。
歴史的な偉人たちの象徴。
戦いの中で倒れた人々を悼む人の為の墓標。
彼らにとっての唯一の救いだ。
死んでもなお、この世に語り継がれる存在となる。
偉人として、守り人として、誰かの心の中に有り続けるのだ。
その青い蝶々が飛ぶ限り。
人々の間で、その伝承が受け継がれる限り。
これほど名誉なことは無いだろう。
人間がどのような虚無主義に出会っても、後世に爪痕を残すというのは喉から手が出る程の魅力的なものだ。
魂とは徳を積むことによって善く生き、幸福になれるというが、果たして自分は善く生きれているのだろうか。
自分は、死んだら悲しまれるのだろうか。
何か、この世に語り継がれるような業績を残せただろうか。
だが勿論、彼の元には答えてくれる存在も、諭してくれる神も居ない。
ただ、彼らならば自分の望んでいる場所にたっている気がして。
未だに、諦めきれず憧れを抱きながら背を追う。
届かないと知っていながら。
その進むべき道の先には見失いそうなほど、遠くにポツンと三つの背中が見えるだけ。
「叶依…?」
蝶が通り過ぎた後には、叶依の姿はなかった。
遊の脳裏に追いかけている背中が二つになった憧憬が見えた。
甘く、あおい匂いに誘われて、うたた寝の狭間から這い出してみるとそこは雄大な自然の中だった。
ポカポカとした春風の陽気に誘われて、再び意識を手放してしまいそうだ。
遊はその中の人の手で切り拓かれたであろう、遠くで風車が回っていそうな花畑の中で寝ていたらしい。
雛罌粟の紅く咲くその花畑は、雛罌粟が表す言葉のように思いやりが溢れている。
雛罌粟が遊を優しく、母のように包み込んで安心させる。
あたりを見回すと、見目麗しい花が種類ごとに仕切りの中にいる。
立て札が仕切りの前に立っており、大きくカタカナでその花の名前が書いてある。
黄色い薔薇や黄色のカーネーション、オダマキ、ロベリア、黄色やオレンジのユリ、ヒヤシンス。
ついでにクローバーなんかも仕切りの中にあるようだ。
花畑というよりも、植物の見本市だろうか。
花は穏やかな風に揺れている。
その一輪、一輪が可愛く思えてきて。
あの花を摘み取りたい。
綺麗な花弁を愛でたい。
そんな欲望に駆られる。
今、この気怠い体を起こして、歩き出せば届く間合い。
季節も場所も関係なく、その花たちは互いに主張し合っている。
自分こそが一番綺麗に咲いている、と。
土の栄養分を他の花に取らせまいと大輪を下げている。
遊は欲望に従って起き上がり、大輪に咲いた花を摘みに行こうとした。
しかし、何かの蔦や茎が雄の足首に巻きついてきて、遊を離さない。
無理やり引きちぎっていくこともできず、遊はまた花園に腰を落ち着ける。
たまに蜜蜂のような虫が、蜜を吸いに近づいていく。
そうすると、花が次第に膨れ上がり、大きな舌を持ち、その虫を飲み込まんとする。
その虫は花に近づくにつれて飛ぶ勢いを失い、やがて花たちの養分となる。
そうして、新たな花が一輪咲き誇るのだ。
だんだんと、穏やかだった風は猛烈な勢いをつけて、花弁をどんどん散らしていく。
宛ら、嵐のように。
風が再び吹くと、花たちは何事もなかったかのように姿を戻した。
ふと遊が足元に視線をやるとそれは見事に咲いた一輪のピンクの薔薇があった。
薔薇の場所を見てみると、黄色いバラばかりで唯一のピンク色は仲間外れにされたようだ。
「お前、ここに来るか?」
遊は優しく問いかける。
すると薔薇はその刺々しい《《両手》》を、救いを求めて喘ぐように遊に差し出したのだった。