8.異変
シェオルが最初に言った通り、氷の地獄にははっきりとした朝も夜もなかった。比較的明るい時間と比較的暗い時間、というのはあるけれど、どんよりとした雲に覆われた空には太陽が昇る訳でも月や星が瞬く訳でもない。
「人の世の北の方の国では、冬の間ずっと太陽が見えない極夜があるとか。それに近いようなことなのでしょうね」
「そんな場所もあるんですね……知らなかった……」
死んだティルダは疲れや空腹も感じないから、この場所で時間の経過を測るのはとても難しい。ただ、一日くらいは起きて動き回ったからそろそろ夜なのだろう、と。彼女の勝手な感覚で判断して例の部屋に戻って寝る──コキュートスに堕ちてから数日(?)も経つと、そんな生活のリズムが確立していた。
「人の国の移り変わりは激しいのでしょうが、空や大地にはさしたる変化はないでしょう。だから今もそうだろうと思うのですが」
「シェオルさんはここに来て長いのですか? その間ずっと、地上には行っていないのですか?」
氷に包まれた城のあちこちを探索して、今のコキュートスにはティルダ以外に動ける──凍っていない──罪人がいないのはもう確かめてしまった。だからティルダの話し相手は狼のシェオルだけ。城の主人であるジュデッカについては、あの冷たく鋭い目で睨まれるのは怖いから、ティルダは自然とあの玉座の間を避けるようになってしまっている。
「コキュートスができてからというもの、常に我が主の傍にいますね」
「ここができた時というのもあるのですね……」
凍って動かなくなった抽斗や棚の類を辛抱強く揺すって開けてみると、たいていのものは揃っていた。茶器の類は、コキュートスでは何の役にも立たないけれど、化粧台から小さな手鏡を見つけたのはティルダにとっては嬉しかった。シェオルとジュデッカしか見る目はないと言っても、髪が乱れたりしていては恥ずかしいし。それに何といっても、大小さまざまの櫛だ。目の細かいのはティルダのために、目の粗いのはシェオルのために。
「それはもう。この世にある万物と同じように」
気が遠くなるような長い時の流れを語っているというのに、シェオルの表情はそこらの犬と変わらない。ティルダの手で毛を梳かれるのが気持ちよくてたまらないというような、うっとりとした表情だ。
ひたすら霜を踏んで氷を掻き分けて、そして何も動くものがいないのを確かめる探索を続けては、心が疲れてしまうから。だから今日(?)は、ティルダは部屋を出ないでシェオルの白い毛皮にこびりついた霜を落とすことに専念している。長椅子に座って、足元に寝そべった大きな狼の、頭から尻尾まで櫛で梳いていくのだ。
「ずっとここにいるから、こんなに芯まで凍ってしまったの……?」
一日(?)かけて丁寧に手入れしたことで、シェオルの毛皮は一段と輝きを増している。コキュートスにあっては温かいなんて感覚はないのだけど、根元から梳いた毛は一本一本がふんわりとして、艶やかさも滑らかさも絹のよう。いつまでも触っていたい柔らかさに仕上がっている。……つまり、シェオルが自分で身震いしたり毛づくろいしただけでは間に合わないくらい、密集した毛の内側にまで氷が入り込んでいたということだ。
手入れの成果を確かめるように、長くふさふさとした尻尾を目の前で振りながら、シェオルは首を傾げた。
「近頃は主が手を焼くような罪人はいませんで。だから私も置物のように丸まるばかりだったのですね。あの通り、主も動かないものですから」
「ふたりでお喋りしたりもしないのですか?」
「うるさい、黙れと言われたこともありますね」
「まあ……」
(だから言われた通りに黙って……そして、あんなに凍ってしまった?)
ジュデッカの玉座の足元に蹲っていたシェオルを、ティルダは置物だと思ってしまったのだ。ふかふかになった毛皮を撫でながら、思う。主従ふたり(?)して黙りこくり、氷に埋もれていく年月がどれほど寂しいものなのか。そんな年月を耐えるふたりの絆というか、シェオルの忠誠心はきっととても強いものだ。あんな軽口を叩いていたのも、それが許される関係だからということだろう。
「……あの、私……本当にここにいて良いのでしょうか。シェオルさんにいていただいて、良いのでしょうか」
「コキュートスに堕ちた以上は、勝手に余所に行かれるほうが困るでしょうね。それに、不審な罪人には監視が必要だと我が主も仰るはず」
「ええ……」
シェオルは伸びをしながら立ち上がると長椅子に上がり、手を止めたティルダに寄り添った。氷というよりは積もったばかりの淡雪のような感触になった毛皮が包んでくれるのは、心が温かい。ジュデッカの鎖は相変わらずティルダの首と手足に絡んだまま、常に冷気で彼女を脅かしてくるけれど、凍り付くことがないのはシェオルがいてくれるからだと思う。それに、何より──
「でも、あの。ジュデッカ……様は、あれもご承知なのでしょうか……?」
シェオルの毛に指を埋めると、ふんわりとした感触に胸が蕩けそうになる。でも、その幸せな柔らかさもティルダの不安を和らげてはくれない。彼女の視線の先では、美しい花が何輪も咲き乱れていた。最初に咲いた薄紅色のもののほかに、蝶のような青や翠の、目に鮮やかな黄色や橙色のものも。ティルダが見たこともない、美しく繊細な花弁を開かせる花々が寄り添うと、その一角だけ春の晴れた日のように明るく──そして温かい。瑞々しい茎が根を張った床では、明らかに氷が解け始めていた。