75.再会を約して
玉座の間に再び太陽の光と熱をもたらした「その御方」は、盗賊たちの姿が消えているのを見ても何も仰らなかった。人の魂の行く末には興味がないのか、それとも、あえて尋ねるまでもなく何もかもご存知なのかもしれない。
ただ、「その方」は太陽が常に輝くように眩く明るく美しく、嘆きの氷原に束の間の春をもたらして微笑んでいた。
「別れの挨拶は済みましたか。貴女たちを送ったら、私も帰りましょう」
太陽の輝きの前に、玉燕さえも低く頭を垂れていた。人間だけで話していた時も、「その御方」への敬意を込めた態度をしていたからティルダは少し驚いてしまったのだけれど、そもそも天の国の名は天空を意味するのであって、遥かな高みに輝く御方は玉燕や梅芳にとっても尊崇の対象なのだということだった。
「はい。よろしくお願いいたします」
ティルダとカイも、揃って跪いて心からの敬意を示す。自分たちだけが地獄から逃れる後ろめたさは拭えないけれど、ほんの一時のことだからと思うしかない。
(……どうやって帰れるのかしら……?)
今、地獄にいると感じている肉体と、地上で死んでいる肉体はどう違うのか。今のティルダたちが魂だけの存在だとして、地上までの移動はどのように感じるものなのだろう。
緊張と不安に、止まった心臓が高鳴る想いを味わっていると──ティルダの視界に、漆黒の影が落ちた。その影の色の濃さで分かる、ジュデッカが彼女の前に歩み出たらしい。
「この罪人にひと言言ってもよろしいでしょうか」
「ええ、どうぞ」
「その御方」の声はジュデッカに対しても優しくて穏やかだったけれど、魔王の声はその真逆だった。黙って消えるのは許さない、ということだと察して、ティルダは身体を縮こまらせた。
「お、お騒がせして申し訳ありませんでした……!」
「まったくだ」
ジュデッカは、常にティルダの存在に不快感を示してきた。その理由には重々心当たりがあるし、実際、今も彼の声は氷の刃のように尖っていた。顔を上げれば、その目も同じだろうと思うと、身動きもできなくなるほど。でも──
「……数えるのを止めるほど長い年月を、ここで過ごしてきた。酷寒の檻の中に閉じ籠ることが罰になると信じてきたのだが──無駄だったと、今、お叱りを受けた」
黒い影が動いて、魔王がティルダの傍らに跪いたのを教えた。あまつさえ、黒い手袋を嵌めた指先が伸びて、ティルダの顎を捉える。強引に、上向かされる。
「は、はい……?」
逃げようもなく合わさせられたジュデッカの目は、ひどく不機嫌そうな色を浮かべていた。でも、それは予想通りというのは少し違って──照れ臭いとか、恥ずかしいとか……そんな感情ではないかと思えてしまうのは、いったいどういうことだろう。
(お叱りを、受けた? 魔王様が、そんなことがあるの? 神様がお相手だから……?)
頭の中に疑問が渦巻いて目眩がしそうだった。そもそも、ジュデッカは「こんな」方ではないはずなのだ。罪人と目線を合わせて膝をつくのも、お叱りを受けただなんて打ち明けるのも。でも、ティルダの混乱を余所に、ジュデッカは顔を顰めたままで唇を動かす。ごく近く、生きていたら吐息も感じられそうな距離はものすごく心臓に良くない気がする。もちろん、止まっているのだけれど。
「苦しめば、苦しめれば良いというものではない──ましては凍りつかせるのは過ちであった、と。万物は移ろうものであって、世界の理を司る者が止めることに加担してはならない……」
ティルダにしてみれば、その通り、と思うことを、ジュデッカは苦い薬でも味わわされているかのような顔つきで口にした。あまりに嫌そうだから、「その御方」がくすくすと笑った──そんな風な「暖かさ」と「煌めき」を振り撒いた──くらいだった。
「納得していないようですけれどね、この子は」
「今でも、叶うものならば貴女様と同じ檻に入って永遠にすべてから切り離されていたいと思っておりますから」
「その御方」に向けた声と視線、そこに籠った暗い熱でティルダを震えさせてから、ジュデッカは少しだけ表情を緩めた。
(ああ、この方は──)
きっと、かつては楽園にいたのだ。今もとても美しいけれど、「その御方」と並ぶにふさわしいほどに輝いていたのだろう。いつか見た黒い翼も、染みひとつない純白だったのではないか、と思う。ほんの少し微笑んだだけで、こんなにも綺麗だと思うのだから。
とても晴れやかな表情で、ジュデッカは立ち上がった。
「『変わらぬこと』に固執していたのだ、俺は。永遠に拭えぬ罪を負ったと思えば自らが忌まわしく、それほどに堕ちてもなお、想いを変えぬのは誇らしくて──だが、我が主がそれは違うと宣うならば、違うのだろうな」
「気が済むまで考えれば良いのですよ。我らの時には限りがないのだから」
「はい。仰せのままに」
「その御方」の御言葉に重々しく頷いてから、ジュデッカは笑った。信じられないけれど、ティルダに微笑みかけたのだ。
「お前がまた堕ちてくるのを楽しみにしているぞ、罪人。人の一生など瞬きほどの間ではあるが。その間に、何か──変わるかもしれないからな」
「……はい」
この方はすでに変わったのかもしれない。でも、きっとそれを言ったら怒られそうだから──ティルダは、大人しく頷くことにした。
「できるだけ、長生きするように頑張ります! 地上で色々なことを見て、聞いて、考えます。またお会いした時に、お話できるように!」
ジュデッカの、参考になるように。とてつもなく不遜で、叱責されても仕方のないもの言いだったかもしれないのだけれど。
「……好きにしろ」
ぶっきらぼうな口調とは裏腹に、ジュデッカの顔は笑っていた、と思う。断言できないのは──彼の黒い髪も黒い目も眩い光に包まれたからだ。コキュートスの壮麗な宮殿、シェオルのふわふわの毛並み、一緒に控えていたはずの玉燕や梅芳、シルヴェリオ──そのすべてが、光に呑み込まれて遠ざかる。
常の理を越えて、ティルダたちの魂が地上に送り届けられようとしているのだ。
* * *
冷たい石の感触に震えながら、ティルダは身体を起こした。コキュートスの、魂までも凍りつかせる寒さとは種類が違う、生身の肉体が感じる寒さはいっそ懐かしいものだった。
「ここ、は──」
目を開けているのに周囲の様子がよく分からないのは、単純に暗いからか、「あの御方」の光に目が眩んでしまったからか。生き返ったばかりでは、身体の感覚が上手く働いてくれていないのかもしれない。
掠れる声での呟きは、独り言のようなものだったけれど──思いがけず、答えがあった。
「エステルクルーナの王城の、地下霊廟ですね」
間近で声が聞こえたと思ったと同時に、手に温かいものが触れて、ティルダは小さく叫んだ。
「カイ!」
彼女の手を握ったのは、カイだったのだ。コキュートスにいた時と違って、触れ合えば互いの体温が感じられるのがとても嬉しい。ティルダを見下ろして微笑む彼の頬に、朱が差すのも。──生きているのだと、実感することができるから。
「俺は、っていうか罪人の死体は荒野に捨てられるはずなんですけど……神様のご慈悲なんでしょうね」
「あの御方」ならそれくらい簡単なこと、なのだろう。きっと、地獄に堕ちた者を生き返らせることに比べれば。それに、神の御業に驚くよりも、今はやらなければならないことがある。
「ここから逃げないと、よね……? 私を、生き返らせようとしている人がいるんでしょう?」
「そうですね。それに、貴女と地脈の繋がりも断ち切ってもらえたはずだから──気付かれたら、様子を見に来る奴がいるかもしれない」
立ち上がろうとすると、ティルダは情けなくよろめいてしまった。死ぬ直前までの無理が祟っているのか、カイよりも死体だった時間が長かったからなのか。でも、いずれにしても、カイが寄り添って支えてくれる。
「仲間が、この城内にもまだいるはずです。貴女が来てくださると聞いたら、協力してくれるでしょう」
「ええ、お願い」
聖女が国を捨てるということは、たぶん大きな混乱と騒動の原因になるのだろう。裏切られたと憤ったり悲しんだりする人もいるはず。ティルダは、生きているだけでも裏切りの罪を重ねてしまうのかもしれない。でも、それでも。
(例え力がなくなっても、聖女じゃなくなっても──)
カイの力を借りるだけでなく、自らの足に力を込めて、ティルダはやり直しの人生の第一歩を踏みしめる。
地上の人々のためにも、地獄で待つ人々のためにも。精いっぱい、彼女の人生を生き切るのだと決めているのだ。




