72.単なる慈悲ではなく
嘆きの氷原の理は、変わった。というか、新たな一条が付け加えられた。裏切りの大罪を犯した罪人も、永劫に渡って酷寒の檻に捕らわれる訳ではない。罪と向き合い、自らの行いを悔い改めれば解放される道も、示されたのだ。
ティルダは跪いたまま背筋を正し、頭をいっそう低く、「その御方」の前に垂れた。
「ありがとうございます……!」
「貴女の望みが私の心に適うものだったからこそです。それに──単純な慈悲とも限りませんよ」
「え……?」
太陽に似た輝きには、いつまで経っても慣れることができそうにない。ティルダは目を何度も瞬かせて、「眩しさ」としか感じ取れない「その御方」を恐る恐る仰ぎ見た。直視するのは恐れ多すぎるけれど、優しいような恐ろしいような御言葉の意味の欠片なりと、掴みたかったから。
その御方の輝きは──今は、喩えるなら冬の朝日のようだった。冷たい雪を溶かすには及ばない、温もりよりも凛と冷えた空気を思わせる、冴え冴えとした光。けれど暗闇を照らす確かな灯でもある。そんな、一筋の希望のような光を纏って、「その御方」は微笑んでいる。
「自らの罪を知る者ほど、許されて良いとは思わないでしょうから。己は悪くないと嘯けば鎖に力を与えるのはもちろんのこと、自らを責め苛めと願えば、やはり鎖は応えるでしょう。罪人によっては、かえって苦しむことになるかもしれません」
シルヴェリオの悲しみを湛えた目を思い出しながら、ティルダはそっと胸の前で手を組んだ。「その御方」が言うのは、まさに彼のような罪人のことだ。シルヴェリオは既に長い時をコキュートスで過ごし、けれど罪の意識はまったく薄れていないようだ。彼が、罪の鎖から逃れる──逃れて良いと思う時が、いったいいつになるかは分からないけれど──
「……それでも、罪と向き合えば変わることもある、と思います。凍ってしまえば、そこで止まってしまうから……」
氷によってすべてを止めてしまうよりは良いのではないかと思う。ティルダは凍ってしまったことはないけれど、一番辛くて悲しい時のままで雪の中に埋もれてしまうのは、恐ろしいから。変わることができるかもしれない、と。可能性があるだけでも違うのではないかと思いたかった。
(少なくとも、シルヴェリオさんは凍りたがっていなかったもの。起きて、罪のことを考えていたい、って……)
凍ったままだったら、玉燕だって鴻輝帝と再会することも叶わなかった。彼女は息子が地獄に堕ちたことも知らないままで、罪を顧みることもしなかったはずだ。目覚めて息子の罪を知ったからこそ、あの綺麗な人はあんなにすっきりとした表情になったのだと思う。
「ティルダ」
コキュートスで出会った人たちのことで頭がいっぱいになっていたから、「その御方」の「眩しさ」──と感じる視線というか意識というか──が向けられても、ティルダは意外と慌てないで済んだ。
「貴女は罪を許されてコキュートスを出る訳ではありません。人としての生を終えれば、再びここに堕ちるでしょう。貴女たちを地上に返すのは、何もかもを許すことと同義ではないのです」
「はい。当然のことだと、思います」
言われたことも、驚くようなことではない。彼女の罪、聖女の務めを放棄して死という逃避を願ったことへの赦しは、まだもらっていない。本当の罪状を知ったばかりでもあるし、許されたと思うことなんてできそうにない。償いの機会までもなしにされることこそ驚きだし、そう言い渡されたほうがひどい、とさえ思ったかもしれない。
「しばしのお別れということになりますね。また会えるのを楽しみにしていますよ」
「コキュートスに堕ちたところで構いません。俺が先に来て待っていますから。いつでも何度でも、貴女の罪とも呼べない罪なんて、すぐに帳消しにして差し上げます」
シェオルはふわふわ、ふかふかの毛皮をすり寄せてくれるし、カイは真っ直ぐな瞳で強く言い切ってくれる。ふたり(?)の言葉が頼もしくて嬉しくて、ティルダの唇は──それこそ、花の蕾のように──自然と微笑んだ。
「……貴方が先に死んでしまうとは限らないでしょうに、カイ」
「殺した相手に甘過ぎです、貴女は。俺は、首を刎ねられたんですよ? なのに生き返れるなんて……何度盾になってもこの恩は返せない。だから絶対に俺が先に死にますからね」
カイの死に様を聞かされると、動かない心臓が貫かれたように痛んだけれど。でも、それよりも心に留めるべきことを言われたのを、ティルダはしっかりと気付いていた。彼のこの言い方だと──
「戻っても一緒にいてくれるのね? とても嬉しいわ……!」
「え? っと、それは──」
喜びに浮き立つままカイの手を取ると、慌てた様子で振り払われてしまう。そっぽを向かれて、目も合わせてくれないけれど──彼の肉体が生きていたら、首まで真っ赤に染まっていたのではないか、と思う。だからカイは照れているだけで、言ってくれたことを撤回したりなんかしないはずだ。
か弱い人間たちのやり取りは、微笑ましいのか愚かしいのか──「その御方」の眩しさはどこまでも柔らかく温かく、揺らぐことはなかった。
「地上に帰る前に、名残を惜しむ者たちもいるのでしょうね。きっと、また会うことになるのでしょうが──しばしの別れの挨拶をすると良いでしょう」
玉座の間の外からは、人の声と足音が聞こえ始めていた。誰のものか、ティルダが聞き間違うことはない。玉燕やシルヴェリオやラーギブを、「その御方」は呼び寄せてくれたのだ。
* * *
眩しい御方は、ジュデッカとシェオルを連れて姿を消した。人は人、人でない方々はその方々同士で、積もる話をしろ、ということらしい。
「あの御方」とは比べるべくもないけれど、人の範疇の中では最高に美しい玉燕に、控え目に微笑む梅芳に、厳めしい鎧姿と裏腹に穏やかな眼差しのシルヴェリオに。地獄に堕ちたなりに寒さにも白い世界にも慣れて、罪人同士で語らっていたのは、ほんの数時間前のことだった。だから、久しぶり、なんて言葉は似つかわしくないはずなのに、安堵と、それに懐かしさが込み上げてティルダの言葉を詰まらせた。
「すみません、いきなり消えてしまって──」
「そなたの意志ではないのであろう。あの魔王の仕業だと、考えるまでもないことだ」
「我々の感覚だと、気付いたら玉座の前に立っていた、という感じでした。心配する暇さえなかったのが情けないほどですよ」
話を聞き終えた玉燕が、両腕を広げてティルダを抱き締めてくれたのは、たぶんとてつもない厚意の表れではないかという気がした。高貴な人は気安く人に触れるものではないし、この人なら髪型や衣装が崩れるのをとても嫌うだろうから。意識があったらジュデッカにも立ち向かうつもりだった、と仄めかしてくれたシルヴェリオも──
「ともあれ良かった。若い娘が地獄にいるものではないのだから」
ティルダは知らない母親のように、慈愛に満ちた眼差しを向けてくれる梅芳も。同じく罪を犯した身で、ティルダだけが地上に帰れると聞けば、責めても良さそうなものなのに。
「……私だけ、すみません。でも、あの、また死んだら戻って来るそうなので……!」
「罪人が相応しい場所にいるだけのこと、そなたが気に病むのは傲慢というものであろ」
「貴女のお陰でずっと地獄にいられるようになったとか。むしろ礼を言わねばなりますまい」
もっと謝りたいし、礼というならティルダこそ幾ら言っても言い足りない。「あの御方」が与えてくれた時間を目いっぱい使って語らなければと思うのに、溢れる思いを言葉にするのは難しくて、ただ、万感込めて名前を呼ぶのがやっとだった。
「玉燕さん、梅芳さん、シルヴェリオさん……」
それに、ラーギブ。でも──
「良かったな。良い仲間がいて。仲間って言うか……男が?」
その名を呼ぼうと吸ったティルダの息は、冷ややかな声に割って入られて行き場をなくしてしまった。ほかならぬ、砂の国の少年盗賊の声だった。
「何だ、お前は……!」
ラーギブの金色の目を向けられて、カイも声を尖らせる。これまでは太陽のようだと思っていた少年の目が、今は鋭く欠けた月のように尖った色を浮かべてカイとティルダを睨んでいた。
地獄からひとりだけ助かる者がいると知らされたら、こんな態度を取るのもある意味当然だ。ティルダとしては、気が楽でさえあるかもしれない。弁解のしようのなく、狡いことなのだろうから。でも、後ろめたさゆえに口を噤んでしまう訳にはいかない。ラーギブには、伝えなくてはいけないことがある。
「ラーギブ。貴方の……元の、仲間の人たちも助けてくれたの」
ハミードたち盗賊の一味も、「あの御方」の温もりと光によって溶けている。遠い時代と場所の格好をした玉燕やシルヴェリオに目を瞠り、遠巻きに見守っているようだけど──ラーギブの姿にも、気付いていないはずがない。それは、少年のほうでも同じはずなのだけど。実際、彼は同じ国の服を纏った盗賊たちを、しっかりと目に捉えたようなのだけど。
「仲間じゃない、あんな奴ら。ずっと邪魔だと思ってた」
ラーギブが吐き捨てた言葉の強さと冷たさは、ティルダに向けたものよりずっと激しかった。




