71.コキュートスの理
ティルダの鼻を、芳しい香りがくすぐった。「その御方」の降臨によって、コキュートスの寒さは明らかに緩んだ。冬が終わり、春が訪れたかのように。だからだろうか、咲き乱れる花の香りが、はっきりと漂い始めている。
花が咲き新緑が揺れる、長閑な光景のはずなのに。ジュデッカの声は絶望に凍り付き、ひび割れていた。
「そのような──それだけを、言い渡すために……?」
「貴方のことを、許したいとは思っているのですよ。でも、貴方は何も変わっていないから。まだその時に至っていないというだけです」
ジュデッカは、「その御方」に手を差し伸べたのかもしれない。でも、「その御方」は取り縋る魔王に背を向けた。「暖かさ」の感じ方が変わることで、顔を伏せたティルダにも伝わってくる。太陽のようなその温もりは、彼女のほうへ近づいて──
「ティルダ」
「は、はいっ!」
またも名前を呼ばれて、ティルダは飛び跳ねた。反射的に顔を上げてしまって、畏れ多さとあまりの眩さにすぐに床へと視線を戻す。そうすると視界に入る花や蕾や草葉に、ぽつぽつと光の点が滲む。太陽を見つめた時と同じく、目を灼かれてしまったかのよう。「その御方」の声も光も慈愛に満ちていて、灼熱の苛烈さとは無縁なのに不思議なことだ。
「貴女のお陰でこの子とまた話すことができました。ありがとうございます」
「い、いいえ……私は、何も!」
「その御方」は、何もかもが太陽と同じという訳ではなかった。地上の何もかもを分け隔てなく照らし、時に容赦なく焼くのではなく、ちっぽけな人間のことを慮ってくださっている、らしい。ティルダが感じる「熱」と眩しさは、今は夏の激しい日差しのものではなく、春の心地良い木漏れ日くらいになっていた。
(とても慈悲深い御方なんだわ……でも、それならどうして……?)
裏切られた者は、裏切った者に対して怒り、憎んでも良い──とは思う。裏切りが重い罪であることは紛れもない事実だから。でも、「その御方」の慈悲深さとジュデッカへの冷淡さはちぐはぐな気もして──でも、もちろん、口に出すことなどできはしない。
「御礼をしなければ──それに、貴女の状態は少し特殊なので正さなければならないのですが。地脈から切り離したうえで生き返らせれば十分でしょうか」
あまりにも寛大で、願ってもない御言葉に、ティルダは息を止めた。彼女の状況も望みも、すべて見透かしているかのような。驚きによって身体が跳ね起きて、太陽のような眩しさを不遜にも直視してしまう。「その御方」の御姿は、やはり人間の目では確と捉えることはできないけれど、微笑んでいらっしゃることは、分かった。
ひれ伏して感謝の言葉を述べれば、たぶんすぐに終わるのだろう。盗賊たちまで巻き込んで、カイに命を懸けてもらった事態は、瞬きするまでもなく解決するはず。「その御方」の輝きを前に、疑う余地もない。実際に、額が床に着きそうなほど深く頭を垂れて──でも、ティルダは否定の言葉を口にした。
「……いいえ。もしもご慈悲をいただけるなら、もっと叶えていただきたいことがあります」
「弁えろ、罪人が……!」
ジュデッカの、鞭打つような怒りの呟きを聞くまでもない。ティルダ自身が、図々しさに消え入りたくてしかたない。いっそ、「その御方」のお怒りによって焼き付くされれば良いと思うほど。でも、眩い温もりは、彼女の次の言葉を忍耐強く待ってくださっている。だから、ティルダは強欲と傲慢の罪を重ねるしかできなかった。
「わ、私の力だけではここまで来れませんでした。シェオルさんや、玉燕さんやシルヴェリオさん……カイも、盗賊さんたちも。ほかの方たちの分も」
「聞きましょう。何を望むのですか?」
言い訳は不要、と言われた気がして、ティルダは懸命に呼吸を整えた。心臓が止まった死者の身でも、気持ちの問題は大事なのだ。そうしないと、とても舌を動かせそうにない。
「まずは──カイも生き返らせてあげてください。彼は私を殺した……そうですけど、私は許しています。それに、すべての切っ掛けはカイのお陰であるとも言えるはずです」
名前を呼ばれたカイが小さく喘ぐのが聞こえたけれど、どうか何も言わないで、と切に願う。過ぎた願いで罰を受けるなら、彼女だけで十分だから。
「それも、良いでしょう。そして、ほかにもあるのですね?」
「はい。あの、図々しいんですけど」
「その御方」の寛大さは尽きることを知らないようだった。それとも、ティルダの羞恥心が耐えられなくなるのを待っているのか──いずれにしても、早く言い切ってしまわなければ自分の厚かましさに身動き取れなくなりそうだったから、ティルダは必死に舌を動かした。
「コキュートスの理を……あの、少しだけ、変えることはできないでしょうか」
「コキュートスの、理。どのように?」
ジュデッカが音高く舌打ちしたのをよそに、「その御方」はまだティルダを咎めてはくれなかった。慈愛に満ちた御声に、ほんの少しの興味が混ざったようなのが、気のせいでなければ良いのだけれど。
「裏切った相手に許されれば許される──それは、何ていうか当たり前のことで、良いと……えっと、僭越なんですけど、思うんです。でも、それは厳しすぎると思うので……」
「あり得ないように定めたのだから当然だ」
きっと、そうなのだろう。ジュデッカは、そのように考えてコキュートスを管理してきた。罪人を、決して逃がすことがないように。そして、彼自身の心をも閉じ込めてきた。それが正しいことだとは、ティルダにはどうしても思えない。
「はい。でも……今、許したい御心はあると伺ったので」
勇気をかき集めて、ティルダは顔を上げ、太陽にも等しい眩い御方を直視した。「その御方」の御心を、人が窺い知った気になるのも、この上ない傲慢だとは、分かっているけれど。でも、もしも──もしも、ティルダと同じ思いを、ちらりとでも抱いてくださっているのなら。神様に直接訴える機会なんて、もう絶対に訪れない。だから──
「罪人は未来永劫に渡って苦しまなければならないと、そのようなお考えではないと思いました」
「釈放の条件を緩めたい、と? そう望むのですか、ティルダ」
首を傾げる気配に、ティルダは大きく頷いた。罰せられるとしても、とにかくも言い切ってしまいたかった。
「今までコキュートスで会った人たちは、裏切った相手とはもう会えません。でも、あの人たちが絶対に許されてはいけないとは、思えないんです」
自らも罪ある身で、口にして良いことではないだろう。たとえ玉燕やシルヴェリオのためだとしても。彼ら彼女らの罪の意識も償い方も、彼女が決めて良いことでもないはず。余計なお世話だと怒られるかもしれないし、まず「その御方」が激昂しても当然の報いだ。
(絶対に動かないでね、カイ……)
小さく身じろぎした彼は、もしかしたらティルダを庇おうとしてくれているのかもしれないけれど、そんなことはしないように。祈る思いで、ティルダは握ったままだった手に力を込めた。
暖かな太陽が、激しい怒りに燃え上がるのか。罰の雷を下すのか。コキュートスを、再び凍り付かせてしまうのか──ほんの数秒の沈黙は、永遠にも感じられるほど長かった。
でも、ついに。「その御方」の眩しい気配が揺らいだ。いっそう明るく、煌めくように。これまでも十分輝いていたけれど、太陽が雲間から姿を覗かせる時のように。降り注ぐ光と温もりが強まって、つられるように花の蕾が立て続けに綻び開く。これは、もしかしたら声を立てて笑う、に当たるようなことなのだろうか。
ひとしきり花を咲かせて葉を生い茂らせると、「その御方」はジュデッカにちらりと眩しさを向けたようだった。
「長く仕えてくれた貴方よりも、人の娘のほうが私の心を理解してくれるとは不思議なことですね、ジュデッカ?」
「な──」
「その御方」の声は、紛れもなく笑っていた。悪戯っぽく、揶揄うような調子さえ帯びて。ジュデッカが絶句したのさえ、面白がるかのように。
「貴方の鎖に、新たに力を与えましょう。罪人の、肉体だけでなく心も縛るように。想いによって、強くも脆くもなるように。罪を恥じず驕る心は締め付けて、悔いて顧みる心からは解けるように」
人間で言うならば、笑いの発作が収まった、という気配だった。「その御方」は眩しさを落ち着かせると、ゆっくりと御言葉を告げた。それはつまり、世界に対して命じるということ。そのようにあれ、と理を変えるということだ。
言葉で教えられた訳ではないけれど、分かる。ティルダの手足に絡んだ鎖が、一瞬だけ太陽の輝きを帯びて、そして次の瞬間には冷たい銀色に戻ったから。たったそれだけで、ティルダの願いは聞き届けられたのだと思う。




