70.魔王の城の真実
「氷の解けた温いコキュートスなど……! 俺には過ぎた居場所なのです。その娘はまったく余計な真似をしてくれました」
ほんの少しだけ、顔を上げようとしたところでジュデッカの鋭い言葉と眼差しに貫かれて、ティルダは首を竦めた。慌ててより深く頭を垂れて跪くと、カイが寄り添うように励ますように手を握ってくれる。こんな時でも、彼はティルダにとても優しかった。
魔王の思わぬ告白に激しく揺れる、ティルダの頭と心を鎮めるには到底足りなかったけれど。
(神への反逆も、裏切り──それは、そう……なのよね?)
なぜかティルダには懐いてくれた逆巻く渦の大水蛇も、そうだった。神代の怪物は、神に背いたからこそこの嘆きの氷原に封じられたと、ほかならぬジュデッカが言っていた。
(ジュデッカ様も、そうだったの? この方は──何もの、なの?)
玉座の間の床を彩る精緻な細工を凝視して、ティルダは瞬きひとつできなかった。彼女の肉体がまだ生きていたら、滝のような汗が流れていたことだろう。
天から降りて来た御方は、身動きどころか言葉を発することもできないでいるティルダに、労わりの視線を向けてくれたようだった。とても柔らかな優しい手で撫でられたような感覚がして、なぜか胸が少し軽くなる。神の慈悲は、直接に触れなくても悩み苦しみを癒すのか──それなら、聖女の癒しの力なんて比べるのもおこがましい。
「その御方」は、首を巡らせて凍った広間を眺めた。目で見なくても分かる。酷寒のコキュートスに、春のそよ風のような温かく芳しい空気が漂ったのは、そういうことだ。それに、跪いたティルダの視界にも、瑞々しい若葉や茎や蔓や蕾が、凍ったタイルを割って次々に伸びてきている。蕾はみるみるうちに膨らんで、眩い色彩の花びらを溢れさせ零れさせる。魔力を注ぐまでもなく、神は心を傾けるだけで花を咲かせることができるのだ。
「この城は──かつてはとても美しかったのですよ。天上の花が咲き乱れ、蝶が飛び、鳥が囀って……」
どこか懐かしげな声で「その御方」が語るにつれて、実際に蝶の翅の煌めきが見え、鳥の唄が聞こえるかのようだった。生き物は草花よりも深く眠っているのか、コキュートスの彩は新緑と花びらの色だけだったけれど。でも、確実に雪と氷は溶かされた。ティルダが咲かせた花たちよりも、この場のものはずっと力強く生き生きとして──自らの力だけで生け垣を作り、広間の中に緑に囲まれた空間を作ってしまう。ティルダとカイ、シェオル──それに、「その御方」と、ジュデッカだけを、白く凍った世界から切り取るように。ここだけが、地獄なんかではなく、永遠の春を謳歌する楽園であるかのように。
(ううん……このお城は、そもそも天国にあった、ということなの……?)
この花たちは楽園に咲く花なのだと、シェオルもジュデッカも語っていた。楽園の花の種──があるのかどうなのか──が地獄に流れ着くのは不思議だけれど、城ごと堕ちたというなら分からなくもない、かもしれない。……人の身には計り知れないことではあるけれど、神やその眷属が関わることならそれくらいあり得るのかも、という意味で。
「神の御座所に相応しいようにと、心を凝らしたのですよ」
ジュデッカもまた、遠い記憶を紐解くような声で呟いた。この方がこんなに穏やかに語るのを、ティルダは初めて聞いたかもしれない。穏やかで──そして同時に切なげで、氷の刃のように彼女の胸に刺さる。ジュデッカが反逆者で、神を裏切った大罪人だというのなら、彼の思い出は美しいままでは終わらないのだ、きっと。
「その御方」が吐息のようにささやかで、苦い笑みをこぼしたことでも、ティルダの予感は裏付けられる。
「とても美しい──そして堅固な牢獄でした。最初から。私のために、作ってくれたのでしたね」
(あ──)
『この城の造りは女のためのもののようではないか? あの恐ろしげな魔王には似つかわしくないこと』
玉燕の涼やかな声が蘇って、ティルダは思わず息を呑んだ。彼女自身も、城のあちこちに設えられた鏡や櫛、女性らしい調度の数々を目にしている。魔王に妃がいるのでは、と疑っていた玉燕は、当たらずとも遠からず、だったのだろうか。ジュデッカの感情が、人間が理解するところの愛や恋に該当するのかどうか、それもまたティルダには計り知れないけれど。
「天も地も関わりなく、貴女と永遠に共にいられればと願ったのです。いえ、今もなお。この愚かな罪人は好機と考えてしまっている。叶わないようですが」
俯いたティルダの視界に入る蕾の幾つかが、綻びかけて──白い霜の幕に覆われ、けれど一瞬でその檻を破って美しい花を開かせた。花びらが解ける勢いの強さに、ぽん、と空気が弾ける音が聞こえたほどだ。
降臨した「その御方」の力は、コキュートスの寒さよりもずっと強い。ジュデッカが氷の檻を作ろうとしても無駄なのだ。生き生きと咲き誇る花が、その事実を教えてくれていた。
「なぜ、御姿を見せてくださったのですか。許してくださるはずもないのに」
「ええ。貴方はきっとまた同じことを繰り返すのでしょうから。罪を重ねさせるわけにはいきません」
「その御方」の声はどこまでも優しく慈悲深い。でも、奥底に確かな怒りも感じ取ってしまってティルダは震えた。カイと手をしっかりと握り合って、どうにか気力を保つ。
許す、とひと言言えば、魔王といえどもコキュートスから解放される。でも、いまだにそうしないということは、ジュデッカの罪はまだ許されていないらしい。
「お叱りではないのなら──もっと重い罰をくださるのですか? 俺を喜ばせることになってしまいますが」
楽園の花々に囲まれながら、ティルダの心は吹雪のただ中のような寒さを味わっているのに。ジュデッカは不思議そうに、そして嬉しそうに「その御方」に問いかけた。慕う相手からの反応は、たとえ罰でも喜びになるかのよう。
「永劫の孤独はさすがに貴方にも堪えたのですね」
「酷寒も孤独もさほどのことでは。ただ、貴女様に拒絶され見放されてなお在り続けなければならないのは苦痛でした。最悪の罪人としての存在を、終わらせてくださるのなら──」
ジュデッカの弾む声を頭上に聞いて、ティルダはまた心の中でああ、と溜息を零す。
罪人を憎み見下す彼の心の裡が、少しだけ見えた気がしたからだ。彼自身も罪を負い、それを恥じるがゆえに、「その御方」からの拒絶を、ほかの罪人すべてにも味わわせようとした? それによって、裏切りの罪の重さを何度でも噛み締めようとした? コキュートスの罪人たちが醜悪であればあるだけ、自分もそうなのだと、確かめようとした? ……そんなふうに、思えてしまったのだ。
(そして、そんな年月に疲れて……?)
変わらない時間が過ぎるだけなら、まだ耐えられたのかもしれないけれど。でも「その御方」の御姿を目にしてしまったら期待を持ってしまうだろう、とは思う。罰でも赦しでも、何かが変わるのを、願ってしまうだろう。ただの人間、それも罪ある身の分際で、ティルダは哀れみを覚えてしまうのだけれど──
「終わりませんよ」
「その御方」は、優しく穏やかに、けれど冷ややかにきっぱりと言い渡した。
「罪を顧みず悔いてもいない者を許すことはできません。自らの罪を向き合う機会を奪うことは、なおできません。貴方はこれまでと変わらず、コキュートスの番人であり続けなさい」




