68.降臨
ティルダの目の前で、銀の光が弾けた。彼女の視界が傾くのと、澄んだ高い音が響くのはほぼ同時。
「さっさと行け! 犬っころを探すんだろう!」
ハミードが、ティルダを突き飛ばしながら抜刀し、ジュデッカの鎖を弾いてくれたのだ。そうと気付いたのは、凍った床に転がってからやっと、だった。
「は、はい……!」
彼女がどうにか体勢を立て直す間にも、カイが駆け寄って助け起こしてくれる。ぎゅっと手を握られる感覚は、今や安心するものになっている。カイに支えられて、よろめきながら足を踏み出すティルダの背に、魔王ジュデッカの嘲笑が刺さる。
「シェオルといい、こいつらといい……人を惑わす疫病のような娘だな……!」
人を、惑わす。確かに、ティルダの存在が嘆きの氷原を変えてしまったのだ。魔王の僕のシェオルは主に牙を剥き、身を潜めていた盗賊たちは、わざわざ魔王に立ち向かっている。そもそも花も、溶けた氷も罪人たちも、地獄にはあってはならない変化ばかり。
(私は、いてはいけないの……? でも、死んでしまった後なのに)
ティルダの魔力は、地上にはあってはならない危険なものなのだとか。地獄にさえも居場所がないのかと思うと、凍らされるまでもなく、身体が固まってしまいそう。カイに引っ張られて、それでようやく前を向こうとして──背後から響いた鋭い金属音とうめき声に、ティルダは振り向いてしまう。
彼女の見開いた目の横を、曲刀の欠片が飛んで行った。刀の持ち主は、腕を伸ばして鎖を弾こうとした体勢で固まって──凍っている。ほかの盗賊たちも同じく、全身を氷で白く染めて、命ない像のように佇んでいる。たとえ荒事に慣れた盗賊でも、魔王の力の前では多少の剣技なんて意味がないのか。
「ハミード、さん……!」
「ティルダ様、止まってはいけない!」
ティルダの手を引くカイの力が、強まった。ハミードに駆け寄ろうとするのを制して、広々とした玉座の間に向き直させてくれる。地上の王の城に、造りはよく似ているのに廷臣も官吏も女官も誰ひとりいない。コキュートスとジュデッカに相応しい、美しいけれど寒くてどこか怖い。立ち止まると、そのまま氷の彫像になってしまいそうだけれど。
でも──ティルダは、凍らされる訳にはいかない。そうなったら、地上の、エステルクルーナの魔力は彼女に注がれるままになってしまう。許されない存在だというなら、だからこそ足掻かなければ。実態はどうあれ、ティルダは聖女であれと教えられて生きて来たのだから。
「止まろうと逃げようと変わらない。何もかもが凍るのだから。二度と溶けない、動くことも喋ることもない。罪も──許されるなど、あってはならない」
ジュデッカは、嬲るように嗤いながら銀の鎖を操っている。鋭い煌めきがティルダの頬や髪、手足を掠めるけれど、彼女を捕えはしないのは、きっと戯れでしかない。恐怖の時間を長引かせるための。より絶望を味わわせるための。
だって、ジュデッカはティルダがそれを見つけて駆け寄るまで待ってくれた。凍った床の上に伏せた体勢で蹲る、白い巨大な狼。雪と氷の白に紛れて、ともすると彫刻のように見えてしまう。あんなにふわふわでふかふかの毛皮だったのに。知性に溢れた穏やかな銀の目も、氷に覆われてもう何も映してはいない。
「シェオルさん……!」
魔力を注げば、シェオルを蘇らせられるだろうか。でも、この期に及んでもティルダは躊躇ってしまう。本来は彼女のものでない、盗んだ魔力を勝手に使って良いものか。地上に悪影響を及ぼさないか。──その躊躇によってあらゆる機会が潰えるのが分かっていても、ティルダは踏み切ることができなかった。
シェオルの毛皮に触れたティルダの衝撃を眺めて、満足したのだろうか。ジュデッカの余興もここまでのようだった。
「主に牙を剥いたのだから当然だろう。愚かな真似をしたものだ」
雪と氷が染める白い世界で、ただひとり漆黒を纏った魔王がティルダとカイの眼前に降り立った。その背に黒い翼を翻して、その色の羽根を降らせながら。本当の姿を見せたのは、ジュデッカの本気の表れなのか。シェオルに寄り添うティルダを見下ろす彼の微笑はどこまでも冷ややかで恐ろしく禍々しく、けれど息を呑むほど美しかった。
「シェオルは貴様に肩入れしていたな。共に眠らせてやれば満足だろうな」
「シェオルさんは……罪人ではありません。これは、コキュートスの摂理に適ったことだったのですか……!?」
片手をカイと繋いで、もう片方の手で動かないシェオルを抱いて。ティルダは、ジュデッカと真っ直ぐに対峙した。声も身体も震えそうになるけれど、必死にこらえて。
(だって、こんなの……!)
ティルダがシェオルと過ごしたのは、たぶん、地上ならほんの数週間程度の時間でしかない。一方のジュデッカとは、気が遠くなるほどの歳月を仕えて、このコキュートスでふたりきりだったはずで。その間のふたり──ひとりと一頭? ──の関係は分からないけれど、たとえ罪人すべてを凍らせてしまったとしても、シェオルまでも永遠に眠らせるなんて、正しいことだとは思えない。
「主への裏切りは、重罪だろう。たとえ貴様がそうさせたのだとしても。罪ある者にはしかるべき罰があるべきだ」
ジュデッカは、罪人を決して許さない。悔悛も期待していない。地上の牢獄とは違う、魂を捕らえる地獄の番人としては、あるべき姿なのかもしれないけれど。罪人に哀れみを覚えるようでは、この地獄に長くとどまることなんてできないかもしれないけれど。
「貴方はどうして、そんなに……!?」
どうして、罪を憎み裏切りを蔑むのか。彼女自身も罪がある身で、それでもティルダは問いかけてしまう。もう、言葉で立ち向かうことしかできないからでもあるけれど。それ以上に、ジュデッカの態度が──毅然としているというよりは──頑なに、それこそ心を凍り付かせているように見えるから。
「そんなに、心を閉ざすんですか。変わることを拒むんですか……?」
「ティルダ様、いけない……っ」
カイが、身体でティルダを庇ってくれる。魔王を挑発するなと、怒鳴りたいだろうに堪えてくれて。彼の気持ちは、この期に及んでも嬉しい。でも、尋ねずにはいられなかった。
だって気付いてしまったのだ。ジュデッカは、確かに冷たく恐ろしい人。でも、それは氷でできているからではないのかもしれない。彼自身も凍ってしまっているのだとしたら。もしも──かつては温もりを知っていたのだとしたら。
寒いままでいるのは、悲しいこと。可哀想なことだ。シェオルまでも凍らせてしまって、そしてティルダたちも氷と化したら、この人は本当にひとりきりになってしまう。たまに堕ちる罪人がいたとしても、すぐに雪に埋もれてしまって。白く凍てついた玉座を孤独に占めて、この人はいつまでコキュートスを治めるのだろう。
(どんな気持ちで……? それで、良いの……?)
慈悲を乞うためではなく、むしろ対峙する魔王を支えたくて、ティルダは宙に手を差し伸べた。でも、罪人の身で哀れみを見せるなど、不遜にもほどがあることなのだろう。
「罪人の戯言に付き合う気はない。裏切り者は、すべて等しく唾棄すべき罪人なのだから……!」
ジュデッカは、形の良い唇をいかにも不快げに歪めた。彼が掲げた手は、地上の軍なら弓矢の斉射の合図のよう。このコキュートスでは、矢の代わりに銀の鎖が白刃の輝きを放って罪人たちに狙いを定める。中空に網目のように張り巡らされた鎖からは、逃れる術などありそうにない。
「カイ。ごめんなさい」
「いえ。俺こそお守りできなくて」
カイの背をぎゅっと握って囁く。半ば振り返った彼の口元は少し微笑んでいたけれど、ティルダの胸は締め付けられる。こんなところで終わってしまうなんて。生き抜くことも、ちゃんと死ぬこともできないで。聖女の務めを放り出して、地上がどうなるかも分からないままで。
でも──どうしようもなくて。そっと目を閉じたティルダは、目蓋を白い光が灼くのを感じた。
(え……?)
魔王の鎖の、冷たい輝きではない。もっと眩しくて、もっと温かい──太陽のような。でも、コキュートスに太陽が輝くことはないのに。
「いいえ、そのようなことはありません」
訝しむティルダの耳に、柔らかな声が降ってきた。降る──つまりは、上から。光と共に。天啓のように。慈愛に満ちた女の人の声は、まるで──
(神様、みたい)
「神よ、なぜ……?」
ティルダの頭に浮かんだことを、ジュデッカの喘ぎが裏付けた。




