64.花よりももっと素敵な
凍りかけの盗賊の姿は痛々しくて、まともに見られるものではなかった。目を逸らそうとして──でも、ティルダは気付いてしまう。倉庫のような広い空間に、点在しているのは寝台やら長椅子やらだけではない。人の形をした、雪と氷の塊も、そこここに、いる。枯れた花びらも、灰色の絨毯のように白く凍った床に降り積もっている。
盗賊たちが、今までどのようにここで肩を寄せ合っていたかが、目に浮かぶようだった。ほかの罪人を警戒しながら城内を探索し、花を集めて暖を取ろうとして──でも、膨大な魔力がなくては、そして根を張っていなければ、花は長く咲き続けてはくれないのだろう。花びらが落ちるに従って、せっかく──地獄で、だけど──再会した仲間たちも、ひとり、またひとりとまた凍り付いていって。花が咲き乱れる一角は、逆巻く渦の大水蛇が寝ころんでいたり、シェオルが散歩していたりして。重装備のシルヴェリオも怖かっただろう。彼らも必死の思いで、ティルダを攫う隙を窺っていたのだ。
「あんた、あの花を咲かせたんだろ!? 盗賊にはご慈悲はないってのかよ!?」
「私、は──」
ハミードに肩を掴まれて揺さぶられて、ティルダは弱々しい声を漏らす。視界の隅では、彼女を案じてもがいたカイが、別の盗賊に押さえつけられていた。こんな奴ら吹き飛ばしてしまえ、と。彼が憤った目で訴えることは、読み取れるのだけれど。やはり、勝手に魔力を使う気にはなれないし──
(花の咲かせ方なんて、知らない……!)
心の中の悲鳴を声に出すこともできず、ティルダは首を振ることしかできなかった。
彼女の主観では、花は勝手に咲いた、としか思えないのだ。コキュートスの光景は、静かで穏やかだけどあまりにも寒々しくて寂しくて──だから花が咲いていれば良いのに、と思っただけで。
寝台に横たえられた、青白い顔の盗賊に安らぎあれ、と。祈りを捧げれば良いのかもしれない。彼女の魔力は汲んでも尽きることがない泉のように豊かだから。ティルダの、はっきりと言葉にならない漠然とした願いさえ叶えてくれるのかもしれない。……本来はエステルクルーナの大地を潤すはずの力なのだから、それくらい当たり前だ。
大地を満たす《力》は強大で、多少のことでは涸れたりしないのかもしれない。でも、この盗賊を一度目覚めさせて終わり、にはならないだろう。花が増えれば、氷の眠りから醒める罪人も増えるはず。誰を凍らせて誰を助けるか──それをえり好みすることもまた、恐れ多くて傲慢なことだ。人の子の身で、やって良いことではない。
「……できません!」
だから──ティルダはよりはっきりと、力強く首を振った。同時に、腹に力を込めて声を張り上げる。
「何だと!? この、小娘──」
「ティルダ様!」
ハミードの怒りも、カイの焦りも当然のこと。盗賊たちを刺激するのは良くないことくらい、彼女にも分かっている。だから、ハミードが拳を振り上げ、別の盗賊が刀を抜く前に、もう一度、叫ぶ。
「代わりに!」
哀れみのあまりに魔力を込めてしまわないように、細心の注意を払いながら、ティルダは横たわった盗賊の頬をそっと撫でた。褐色の肌を覆う白い霜を掃っても掃っても、すぐにまた魂を凍らせる冷気が忍び寄るのは知っている。だから──もっと根本的な救いの手を差し伸べなければ。
「この人を助けられる……かもしれない方法があります」
「適当なことを言って、逃げようってのか」
声を低め、彼女を見下ろして凄むハミードに、ティルダは毅然として答えた。
「かも、なんて言ったのは、皆さん次第だからです。嘆きの氷原から解放される条件があるんです。そのやり方でここから出て行った──魂の輪廻に戻った人もいます」
「馬鹿な」
すぐには信じてもらえないのも予想していたから、ティルダは迷わず次の言葉を紡ぐことができた。嘘ではない、彼女自身の目で確かめたことだから、声も視線も揺らがない。──それで、信憑性を持たせることができるだろうか。
「鴻輝さん──私たちがお城の外から連れ帰った、天の格好の男の人です。あの人の姿が見えなくなっていること……皆さんなら気付いていたんじゃないですか?」
ティルダたちの挙動は、ずっと監視されていたのだろうから。彼女の視線を受けた盗賊たちは、戸惑うように互いに顔を見合わせ、そして、現在の首領であるハミードにおずおずと報告する。
「……そう、一度しか見なかった奴は、いました」
「でも、凍っちまったもんだと──」
ハミードの濃い眉が寄せられるのを見て取って、今度はティルダのほうから彼に迫る。少し背伸びをして顔を近づけて。コキュートスの氷の檻を抜け出るための鍵を、教えてあげる。
「裏切られた者が裏切った者を許せば、その罪は許される。戒めの鎖は砕け散る。──それが、この地獄に定められた摂理なんです」
「な──」
ティルダが間近に見つめる先で、ハミードの金色の目が大きく見開かれた。あまりにも簡単で、そして同時にとてつもなく難しいことだから、だろうか。数秒の後に彼女の言葉を理解したのだろう、ハミードは皮肉っぽく唇を歪めて吐き捨てた。
「……さすが、根性が悪いな。許すつもりはないってことじゃねえか」
「はい。普通なら。たぶん、口先だけの言葉でもダメだと思います。……でも、今の皆さんなら、どうでしょうか」
シルヴェリオが懸念していたこと──地獄に堕ちるような罪人は、拷問によって許す、と言わせかねない──を思い出して付け加えながら。それでも、ティルダはハミードが率いるこの一団については心配ないのではないかと思い始めていた。それは、彼女とカイを攫った手段は強引で乱暴なものではあったのだけれど。
(でも、それも仲間のためだったなら……)
コキュートスのあまりに厳しい寒さゆえにだとしても、彼らは身を寄せ合って支え合おうとしている……ように、見える。それなら、もしかしたら。
(花を咲かせるよりも、もっと素敵な奇跡があるんじゃ、ないかしら……?)
凍り付いてしまった罪人たちを、目覚めさせること。本来は、恐ろしいこと、コキュートスの摂理に背くことなのかもしれないけれど。でも、それによって、二度と会うはずがなかった者たちを再会させることができるのだとしたら。玉燕と鴻輝のように、最後には手を取り合うことができたなら。
ティルダが祈る思いで見つめていると、ハミードは深々と息を吐いた。そして首を巡らせて、ゆっくりと口を開く。
「……ヤザン」
「はい、頭」
呼ばれて進み出た男に、ハミードは横たわる仲間を指先で示した。
「お前、こいつのせいで捕縛されたんだよな? どうだ……今でも殺してやりたいか」
殺す、という単語に、ティルダの背筋をぞくりと寒気が走った。コキュートスの寒さとは別種の、怖れから込み上げたものだ。ハミードに言われて、ヤザンと呼ばれた男は顔を顰めた。盗賊たちの不穏な気配を察したのか、カイも表情を強張らせている。
(この人たちが最初に堕ちて来た時は争い合った、って……)
シェオルが、その時のことを教えてくれたのだ。盗賊たちの刀は、きっと一度は互いの血に塗れた。深手に呻きながら彼らは凍り付いて──そして、ティルダが溶かしてしまった。彼らの怨みも怒りも同様に、となったのかどうか。彼女が息を呑んで見守っていると、ヤザンは顔を顰めたまま、首を傾げる。
「そうですね……そりゃ、死んだ時や、ここに来た最初のころはこの野郎、ってばかりでしたが」
ヤザンが顎を撫でると、髭に貼り付いた霜がぱらぱらと落ちた。思いのほかに、憤りのこもった口調ではない。でも、仲間を助けてやりたいとか、そんな思い遣りが感じられる口調でもない。
(……戸惑ってる……?)
許すかどうかなんて、そもそも考えたことがなかったのだろうか。ヤザンという男は、しきりに首を捻りつつ、頭の中を探っているようだった。
「まあ……好きで仲間を売ったりはしねえよな。仕方なかったんだと、今はもう……こんな情けねえ格好だしなあ」
沈黙を挟みながら、絞り出すようにゆっくりと言葉を吐き出して──ヤザンは、寝台に寝かされた仲間をちらりと見下ろした。その時、彼の目に宿った光は、確かに温かい哀れみの色をしていて、ティルダの胸にも希望の灯がともる、そして──
「ああ、そうだな。俺はてめえを許してるな、カーミル」
やっと答えを見つけた、という風に言った時、ヤザンはすっきりとした晴れやかな笑みを浮かべていた。




