62.鎖の音の罠
自分の思い付きに勇気づけられて、ティルダは声を弾ませた。
「シェオルさんは、私たちを逃がしてくれた──カイの考えを、分かってくれたってことじゃない!?」
ジュデッカの考えは、ティルダにも想像がつく。彼女が生き返るかどうか、エステルクルーナの今後や地脈の魔力の行方なんてどうでも良い。とにかく、嘆きの氷原をかき乱す厄介者さえいなくなれば良い。だから、カイに無理にでも許す、と言わせようとしたのだろう。
(シェオルさんは、それに反対してくれた……!)
それはつまり、ティルダの、というかエステルクルーナの現状をどうにかしたほうが良いと、彼(?)も考えてくれたということではないのだろうか。
希望を見つけたかも、と目を輝かせるティルダと裏腹に、でも、カイは顔を顰めて腕組みをしてしまった。
「魔王と、その僕ですよ? 戻ったところで、もうやられているかも」
「そう、なんだけど……」
「それに、あの狼が言ってたのは罪人にわざわざ手を出すな、って感じであって……コキュートスで苦しむなら勝手に、とも聞こえたんですけど」
「そ、そうだったかもしれないけど……」
何しろ、鎖で引きずられた後、訳が分からない中でのやり取りだった。何を聞いたか何があったかの記憶は、反問されるととたんに自信のないあやふやなものになってしまう。
「でも、えっと、シェオルさんは優しい──人? なんだけど……」
説明しようとしたところで、シェオルのことを多く知らないカイは言葉だけでは納得しきることはできないだろう。しゅんとして口を閉ざしてしまったティルダを横目に、カイは指を噛んで考え込んでいるようだった。
「貴女を危険に晒したくない。魔王やその眷属相手に、俺の力がどこまで通じるか分からない……でも──」
カイが、ふと顔を上げた。何かしらの結論に達したのかと思えば、そうではないらしい。彼の眉は寄せられ、目は宙を彷徨って気配を伺うような表情を浮かべている。まるで、シェオルが匂いを通じて城の様子を探ろうとする時のように。
「……音がします。何だろう、鈴みたいな……」
無事かどうかも分からない、優しい白い狼のことを思い出して胸が痛んだのも束の間──言われて息を潜めて耳を澄ませば、確かに微かな音がした。金属が奏でるしゃらしゃらという音を、コキュートスに慣れないカイは鈴のようだと考えたらしい。でも、ティルダにとってはその正体は明らかだった。
だって、彼女が動くたびに、その音はついて回るのだから。ティルダの手足に絡んだ魔王ジュデッカの鎖は美しく、擦れる音は優雅で優しく、けれど罪人に自身の立場を常に思い知らせるものだ。
「これの音だわ、きっと。罪人は皆、鎖を繋がれているの」
「じゃあ、罪人が近づいてきている……!?」
カイの声がにわかに緊迫感を帯びて尖り、ティルダも頬を強張らせた。
(シルヴェリオさんや玉燕さんたちじゃ、多分ない……!)
魔王ジュデッカが、拘束した罪人を解き放ってくれることはない、と思う。ティルダを厄介払いした後ならいざ知らず、少なくとも、彼女がうろうろしているうちは。そもそも、彼女の仲間たちは、城のこの辺りには来たことがないはずで──ティルダを探してくれているにしても、辿り着けるとは考えづらい。
「カイ。あの……さっき、一緒に行動している人たちがいると言ったでしょう。遠い昔の人たち──本来なら、とうに凍り付いてしまっていたはずなんだけど……」
「……貴女の魔力のお陰で溶け出したんですね。分かります。ほかにも、そういうのが出てきてもおかしくないってことですね」
「うん……ごめんなさい……」
驚くべきカイの物分かりの良さだった。ティルダとずっと一緒にいるだけあって、彼女の魔力のほどをよく知っているからなのか。
「事情は、色々なんでしょうけど。裏切りの大罪を犯した連中、なんですよね。遭わずに移動できるならそれにこしたことはない」
「ええ、そう思うわ」
これまでの行動方針も、カイが述べた通り。だからティルダは迷わず頷いた。そしてふたりで揃って口を噤んで、耳を澄ませることしばし──
「……どこかへ行った、かしら?」
「音はしなくなりましたね……」
鈴のような鎖の音は、もう聞こえない。鎖の主は、たまたま近づいただけだったのか、何を思って氷の魔王城をさまよっていたのか。どんな人か様子を窺いたかったけれど、たぶん、試みることさえ危険だと思ったほうが良いのだろう。
「……移動しましょう。あの狼を探さないと……魔王の玉座にわざわざ近づく罪人もいないのでしょうし……」
「そうね。そうしましょう」
言い聞かせるように呟いたカイに、ティルダは必要以上に大きく、かつはっきりと頷いてみせた。どうすれば良いかなんて、誰にも断言できるものではないのだから。提案すること、選択することにつきまとう不安や迷いを、彼女も共に背負いたかった。
扉を開けて、左右を見渡す。霜で覆われた白い廊下には、見える限り人影はなかった。
それでも念のために声は上げず、カイは手ぶりだけでティルダにこちらへ、と示した。彼女たちがもと来た方向へ、シェオルの安否を確かめるため、魔王の玉座の間に向かおうとした、のだけれど──
「鎧のヤツも犬っころもいないんだな、今日は」
ほんの数歩も進まないうちに、ふたりは足を止めることになってしまった。不意に、驚くほど間近に聞こえたのは、男の人の低い声。笑いを含んだ──でも、聞き逃せない剣呑な響きがある。
咄嗟に手を広げてティルダを庇ってくれた、カイの背中越しに、氷とはまた違ったひんやりとした煌めきが見えた。鋭い鋼の刃──三日月のように曲がった、片刃の刀。前にも見たことがあるそれを携えて、髭を蓄えた唇をにやりと笑ませているのは──
「貴方……!」
ラーギブの元仲間の、砂の国の盗賊だ。名前は確か、ハミード。盗賊団の首領の、実の息子だったとも聞いた。背後に何人かの手下を従えているのは、地獄でも頭分に収まったということなのだろうか。
ティルダとはまた別の意味で、カイも驚きの叫びを上げていた。
「鎖を外したのか!? さっきの音は──」
音がしなくなった──危険は去ったと判断したのに、と。カイの言わんとすることは伝わったらしく、ハミードは笑みを深めた。髭についた霜が、頬の動きにつれてはらはらと落ちる。
「職業柄、足音を殺せなきゃ話にならんからなあ。この鎖──邪魔臭いことは邪魔臭いが、とうに慣れたさ」
「そんな……!?」
ハミードが掲げてみせた腕には、確かに例の銀の鎖が絡んでいる。魔王が施したものだけに、きっと断ち切ることなんてできないのに、それならないものとしてしまおうだなんて。賊とはいっても、ティルダには想像もつかない技があるということらしかった。
ティルダとカイを絶句させたのを見届けて、ハミードは刀を構え直し、声を低めた。
「あの温かい花を咲かせてるのはお前だな? ひとり占めしてないで、俺たちにも分けてくれよ。なあ?」
息を呑み、足を退こうとしたティルダの背後で、しゃらりという鎖の音がした。慌てて振り向くと、そこにも砂の国の衣装を纏った男たちが、曲刀を構えて脅すような笑みを浮かべている。
(囲まれた……!?)
足音を殺すのが盗賊にとっては児戯だというなら、ティルダたちの警戒は意味がなかった。それこそ足音とか、玉座の間から響いた轟音とかで、彼女たちがうろついていることを察知したなら──密かに回り込んで待ち構えて、その上で鎖の音で誘い出すくらい、誰にだって思いつくことだった。




