59.よっぽどの事情
カイは唇を噛むと、身を乗り出してティルダに訴えてきた。
「お気持ちはお察しします。……って、言うのも白々しいですけど。今は証拠もお見せできないんですけど! でも、本当なんです」
彼は、また手を伸ばそうとして──でも、彼女の手を包み込んではくれない。熱いものに触れるかのように、引っ込めてしまう。ティルダのほうでは、縋りつくものが欲しかったというのに。心細い想いで、虚しく手を宙にさまよわせながら、ティルダはやっとのことで呟いた。
「信じる、わ……貴方の、言うことだもの」
たとえ彼女を殺したと打ち明けられても、ティルダはカイを信じている。毒を呑ませようとしたのに最後に迷ってしまった彼、地獄に堕ちてまで彼女を助けようとしてくれている彼を。そう、彼にはよっぽどの事情があると思ったのだ。今まさに、彼はそれを打ち明けてくれたから──だから、信じるべきなのだ。
でも、頭の中で筋道を立てたほどに、ティルダの声は確信に満ちていただろうか。頼りなく震えて、途切れがちになってしまうのだけれど。
「えっと……エステルクルーナは、周りの国にひどいことをしていた、のね? カイの故郷にも……? 私は、その手助けをしてしまっていたから、だから、毒を……?」
だって、カイの言い分を認めるということは、彼女が寄って立つところを否定するということだから。世のため人のために心身を捧げていると思えばこそ、過労にも睡眠不足にも耐えられた。それは、良いことなのだから。命を削るに値することなのだから。
でも──驚き動揺している割には、ティルダの呑み込みは早くないだろうか。彼女は、カイが言ったことを繰り返しているだけではない。その内容を把握して、総括することができてしまっている。さっき、カイは何と言っていただろう。
『貴女は……お気付きだったから。それに、奴らが思ってたほど、何もご存じなかった訳じゃない──少なくとも薄々は、分かっていたんでしょう』
奴らというのは、エステルクルーナの貴顕のことだ。ティルダが陛下や殿下、猊下や閣下と呼んでいた方たちのこと。あの方たちからの称賛を励みに耐えてきたはずなのに。カイを信じているからといって、どうしてあの方たちの言葉を偽りだと思えてしまうのだろう。
(私……何に気付いていたの……?)
喜んで毒を呑んだのは──もう限界だったから、だけではなかったのかもしれない。ううん、言ってしまえばそうなのかもしれないけれど、疲れたから眠いからではなくて、もっと根本的に耐え難いことがあったのかどうか──ティルダは、覚えていないのだけれど。生死の境にその記憶を置いてきたしまったのか、それとも考えたくないから忘れた振りをしているのか──それすら、分からない。
「それなら──仕方なかった、のかしら。エステルクルーナにも敵対する人たちがいて、その人たちから見れば、私は邪魔者だったから。……それが、よっぽどの事情、なのね?」
指先が震えているのに気付いて、ティルダは両手を祈るように組み合わせた。コキュートスは酷寒の地獄とはいえ、これは寒いからではない。心の不安が、身体に影響を及ぼしているのだ。
ここまで聞いた話だけでも、カイがティルダを殺そうとした理由の説明には、十分だろう。それだけであれば、まだ分かりやすいし納得することもできそうだった。でも──
「大筋ではそうです。でも、それだけじゃありません」
カイは頷いた後、軽く首を傾げ──そして、首を振った。
「私の、秘密? 私は──特別、だってところ?」
ティルダが重ねて問うと、カイは今度ははっきりと頷いた。ティルダの心の準備が──多少なりとも──整ったと見て取ったのか、彼はゆっくりと口を開く。よっぽどの事情、の詳細を話してくれるらしい。
「俺は、聖女の従者になれるなんて思っていなかった。最初は、連れ去られた女の子たちを調べていたんです」
「連れ去られた……エステルクルーナに?」
「はい」
カイはずっと、辛そうな表情を浮かべていたけれど、ここにきて一段と顔を顰めた。思い浮かべるだけでも嫌悪を催す何かを口にしようとしているかのように。
「行儀作法や、簡単な勉強を教えてくれるって話だったけど、どこかで無理矢理働かされてるんじゃないかって皆思ってました。だって、誰も帰って来ないし。売られてしまったとか、俺たちの血を絶やそうとしてるんじゃないかとか、言われていました」
「そう……」
それ以外に、何と言うことができただろう。カイたちの苦しみを、ティルダはずっと知らなかった。知らないままで、聖女と呼ばれてきた。言葉だけの慰めなんて、何になるだろう。それに、きっとカイでも相槌以上の期待はしていないようだった。何かを吐き出すような顔つきと口調のまま、彼は続けたから。
「女の子たちがいるっていう学校を突き止めて、下働きとして潜入したんです。逃亡は警戒されてるだろうから、出自は偽って──そういう担当の、仲間もいるんで。彼女たちは、一応は食事も教育も与えられているようでした。……故郷や親兄弟のことは忘れて、孤児だと思い込んでいましたけれど」
「カイ、それって……!」
今度こそ座って聞いていることなんてできなくて、ティルダは椅子から飛び降りるようにして膝をつき、カイと目線を合わせた。勢いをつけすぎて膝が痛むけれど、構っていられない。
「私……カイに出会ったのは孤児院で、だったわ。聖女に選ばれて……慣れた人が近くにいたほうが良いだろうからって……」
「そう、でしたね。モニカ、ピア、ヴィヴィ──皆、賑やかでした……」
「ええ……!」
孤児院で一緒に過ごした子供たちの名を聞いて、ティルダの目と胸の奥が熱くなった。衣食住と教育を施された彼女たちは、恵まれていると思っていた。だからこそ、魔力があると言われて喜んだし誇らしかった。拾って育ててもらった恩を返せるなら、と思っていたのに──でも、今となってはそれも信じて良いか分からない。
「私、カイと同じところの出身だったの? お父さんのこともお母さんのことも覚えていないけど──忘れてしまっただけなの? 私も、『連れ去られた』子のひとりだった……?」
「それは、分かりません。少なくとも、俺の知ってる範囲ではティルダという子がいなくなった、って話は聞いていません。でも、名前を変えられたのかもしれない。違う村や地方から連れて来られたのかもしれないし、本当に孤児なのかも──そこは、俺には分からない」
カイが、彼女の出自について知っていれば、もう少し地に足をつけた心地になることができたかもしれないのに。残念そうに、ゆっくりと首を振る。
「分かるのは──突き止められたのは、女の子たちは実験に使われるために集められたということです」
「実験……?」
そして、彼の話はまだ終わらない。気の毒そうな顔をしながら、カイはティルダの足元を突き崩してくる。実験──なんて、嫌な響き。
「モニカもピアもヴィヴィも、里親に引き取られた訳じゃないんです。まして、故郷に帰れた訳でもない。あの子たちは、失敗してしまった。貴女だけなんです、成功したのは」
「実験の、成功?」
カイが頷いたのを見て、ティルダは自分の物分かりの良さを悟ってしまう。氷の床についた膝から、じわりと寒気が──あるいは不安と恐れが這い上がる。
「大地の魔力──地脈を人の身体に繋げる実験です。大いなる自然の魔力を汲み上げる訳だから、膨大な魔力が使えるのも当然のこと──でも、普通は耐えられるものじゃないから。貴女しか成功しなかったから──だから、貴女はあんなにも働かされていたんです」




